さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

広瀬淡窓と咸宜園

2009-05-04 15:06:07 | 閑話休題
□ 日田の繁栄
 大分県の日田は、江戸時代に天領(幕府の直轄地)として、九州の経済、文化の中心地でした。・・・八方に道路が通じる陸路交通、「築後川」上流の河川交通。
□ 広瀬家
 日田の有力商家「博多屋」、日田代官所の御用達商人。広瀬淡窓は、広瀬家の五代三郎右衛門の長男として生まれた。病弱のため、家督を弟の久兵衛に譲り、教育者として身を立てた。広瀬資料館には、古文書、江戸時代の生活用具、ひな人形など展示している。
□ 咸宜園(かんぎえん)
 広瀬淡窓が26才のとき、文化4(1807)年に開いた私塾。全国から、集まった入門者は、のべ4800人。
 「三奪法」・・新入生から、学歴、年齢、身分の差を全てなくし、全員、成績の最下位からスタートさせる制度。
 「月旦表」・・成績によって無級から九級まで、各級は上下にわかれるので、無級をいれて19段階に席次で評価する。月の初めに発表するので、月旦表といった。
 「職任制」・・門下生の全員になんらかの役をつけ、自治的組織によって塾を運営した。
□ 江戸時代の教育の実態
 庶民の教育機関である手習塾(寺子屋)は、全国におよそ5万以上あったとされ、幕末の日本は世界有数の教育国であったと評価されている。

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