深*龍宮の使いのブログ

色々なことを書いていきたいと思います、よろしくお願いします。

他人の未来は基本的にわからない、

2006-09-27 11:52:19 | 私の考え方
    どうもこんにちは


  少し前にこのブログのまとめを書いて、で、そのまとめを書くためにしばらく他の方のブログを見ないようにしていたのですが、書き終わったので最近は色々見て回っています、それで文章量が多いので「きっこの日記」さんから見て回ったのですが、見ていてそうだなと思ったのが安部って言う胡散臭い人間の支持は低いのではないか?、という内容の文章があって、私もそうだよなと思いました。 例えばネットの投票だとだいたいこの安部という人の支持は10%~から20%しかないし、多分実際のところそのくらいしかないと思う、それがなんで何十パーセントになっているのかということについてきっこさんは、マスコミが捏造しているのではないかといっていたが私も同意見で、間違いなくマスコミは嘘を言っているように見えます。 私が思うに、彼らは間違った情報、偏った情報、改ざんし捏造した情報で、国民を操ろうとしているのはほぼ間違いないと思う。


  だからできたらネットかなんかで、そういう世論調査を大規模でできるところがあれば、マスコミの力、例えばみんなこう思ってますよみたいなマスコミの方法も潰せる様な気もするんですけどね。 方法としては、ライブドアを追い出された堀江氏と、winny作ってなぜか捕まった金子氏が組んでやってみたら面白そうなんだけど、ま、ようはネットでマスコミの持っている利権を奪うという方法なんですが、この国にとってマスコミというものはもはや害でしかない、だからそれを潰さねばならないのですが、堀江氏のように物理的、財政的に潰そうとすると難しい、だから意味としてマスコミとは何であるかと考え、彼らの持っている意味的利権を奪ってしまえばいい、そうすれば彼らは無効化する、そういう方法がそろそろ必要な気もするのですが、さてどうなるんでしょうかね、この国は過去という混沌から抜け出れるかどうなのかなと思っていますが。



  さて、それはいいとして今日は、他人の未来は基本的にわからない、ということでも、まあ簡単なことですわね、誰にでもわかることです、しかし、わかりやすいことほど場合によっては忘れやすいもので、こういうことをすっかり忘れてあれこれしてしまうことが多い、人はみんなこうだとかそういうことを言ってしまって、すっかり忘れてしまうとかね、他人の未来はわからないのだから、人はみんなこうだとは言えないわけで、そのあたりが問題になりやすいなと思ったので、ちょっと書いてみようかと。


  それで、他人の未来は基本的にわからない、というのは、やはり人間の構成要素というものは複雑で、例えば明確であるものもありますが、不明確なものも多い、そして不明確な部分というものはだいたい本人にしかわからない、そしてその明確なもの、不明確なものを総合して考えて人間は生きているわけで、それを他人が把握することは難しい、だから結果として他人の未来というのは、基本的には判らないものなんだと思います。

  ただこれは基礎概念的にそういえるというだけで、実際は基礎的はそうだけどその上に色々あるわけで、この基本的な部分が全てというわけではないのですが、この基本的な部分というものは、常に人間の行動について付きまとうものだと思います。


  そしてその基本的な部分が、どのように社会全体に対して意味を持ってくるかというと、人間の未来は他人にはわからないとして、それが全体的にはどう見えるかというと、それは全体が拡散するというか、そういう発散していく方向性というものを人間の未来は持っていて、その人間の未来の分離性というものは全体的に見れば人間というものが未来に対して拡散発散し、未来の可能性を広げようという性質が生地にあるということなのではないかと思います。


  それで今の時代、この国そして日本人全体を見ていて、なんとなく感じるのが閉塞感、あまりに狭い未来という感じというか、なんとなくそういう雰囲気が強いと思うのですね、では何故そういう感じが強いのかというと、それはやはり戦後という時代の性質にあると思います。 戦後という時代は、非常にわかりやすい時代で、一言で言えばいかに力を強くするかという考えで動いた時代といって良い、そしてそのために全体の未来を集約していった時代だったともいえると思います。 ただ、未来の集約というものは別の見方をすれば可能性の犠牲とも言えるものなので、つまりいろいろな可能性を犠牲にして未来を集約しそれを力とする、まあそういうことをしていたのが戦後という時代だったのだと思います。


  そして未来の可能性を犠牲にした力の集約が暴走し、力のための力と化し、未来の可能性を徹底的に摘み取るだけの化け物になってしまった、そしてその排除が出来るか否かが問われているのが今の状態、私はそう思っています。 そういうことは、例えば最近の戦後という過去の概念をもったものを見てみるといい、政治、経済、マスコミ、国家制度、全てが日本人の未来を潰すことに熱心だ、なぜなら彼らには人々の未来があっては困る事情がある、人の未来とは発散した状態で成立する、しかし、発散するということは権力者にとっては自らの力の衰退を意味し、それを認めるほど権力者には分別はない、だから権力者は権力の集約と、人々の未来の搾取を過剰なまでに進め、この国は崩壊しつつあるわけです。


  他人の未来は基本的にはわからない、だからある程度の人の集まりというものは、発散していくような可能性がなければ未来においては成立しない、ただもし必要があるのならば、一時的に未来の集約をし、力を集めるべきときもある、そういう発散と集約の波動のようなもの、波のようなものが、人の未来の基本形であり、発散を基本とし、時には集約をするものだと思います。 


  ただこのメカニズムの問題点は、集約することにより力が湧くこと、そしてその力が湧くことにより、その力を目的にした動きが起き、結果何も考えずに集約をするようになってきて、人に未来を最大限に潰した上での権力、という形を作ってしまう、そしてその後に破滅が来る。 

  今の日本はこのメカニズム的に言えば、破滅の一歩手前まで来ていると思います、最終的に人間の未来を最大限まで握りつぶした戦後の時代は、その未来のなさゆえに構造がゆがみ崩壊しつつある、だが彼らはいまだに自らの未来のなさを力の集約が不十分で、人々の未来の可能性があるからだ、と考えていて、自らの誤りを認めようとはしていない、そしてみずからの破滅に人々を引きずり込もうとしている、この、戦後という屍をどう処理するか?、そして戦後という時代によって閉ざされた人々の未来をどう開いていくか?、それが今すべき課題なのですが。 


  しかしこう考えてみると、ほんと、人間というものは、わかりやすいものほどかえって忘れやすいものですね、他人の未来は基本的にはわからない、だから人々の未来の集約というものは、基本的には出来ない、そんなことすら忘れてしまうわけですから。





    さてそれでは、今は週一回ですので、次回は来週の水曜になります、では次回まで。