函館発「団塊オヤジの独り言」

団塊世代の心意気をブログから情報発信。
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江戸時代の防災対策

2018年02月17日 06時43分03秒 | 暮らし
「江戸の地形の秘密」という面白い記事。
記事を書いた方は、下谷広小路を防災都市の原点だという。
以下、記事の一部を引用して紹介させて貰う。

写真は、歌川広重が描いた江戸百景の一つ「下谷(したや)広小路」。
この場所は、当時の寛永寺の門前で現在の上野公園・・・。
呉服商の店前をお揃いの傘をさして、上野の桜を見に行く女性の一行があでやか。

当時の江戸で徳川家の菩提寺である寛永寺に続く道。
それを何故、これほどまでに広くしたのか、という筆者の着眼点が面白い。
この絵が描かれたのは、1850年代の安政年間。

それより200年ほど遡る1657年(明暦3年)に江戸では、「明暦の大火」という大火災が発生。
本郷丸山本妙寺から出火し、江戸の街全域をほぼ焼き尽くした。
死者10万人を超える日本史上、最悪の火災だそうな。

「火事と嘩は江戸の華」と言われるほど・・・。
紙と木でできた家々が密集する江戸の街は、何度も火災に見舞われる。
時の徳川幕府が考えた防災対策は、道幅を広くすることだった。

延焼を逃れるための広い道・・・それが「下谷広小路」が作られた発端だと言う。
この防災計画の中心人物は、会津松平家の初代当主だった保科正之。
彼は三代将軍家光、四代将軍家綱に仕えた幕閣で、家光の腹違いの弟でもあるそうな。

「明暦の大火」では江戸城の天守閣も消失。
しかし彼は、天守閣の再建よりも江戸の街の再建を優先させた。
著者は、写真にある商家や民家の屋根にも言及。

それまでは板葺きや茅葺きの屋根で、火の粉が飛んで来れば簡単に燃えてしまう。
それを防ぐために瓦屋根の普及にも尽力したと記す・・・。

そして今の東京は、首都直下型地震が懸念される。
安倍クン!キミのまさか対策は大丈夫か?
保科正之城主に学ぶことは、数多あるぞ!

憲法改正にうつつを抜かしている暇はないと思うんだが・・・。

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