「子供なんていなければいいと思った」、「自分の時間が欲しかった」、ホスト通いなどで遊びに夢中の女には最早母親としての資格が微塵もなかったといえるだろう。だがそんな女に同情的になる著名女性がいるから呆れてしまう。
大阪で起きた幼児放置殺人事件は、改めて母親の役割の重要性というものを考えさせられる。置き去りにされた子供達は何日間苦しい思いをしたことだろうか。それを想像するだけでも、胸が痛くなる。
しかし、我が子にそこまで苦しい思いをさせ、自分は遊びに興じていたという失格母親に同情するコメントをしたのは白石真澄(関西大学教授)だ。この女性も勤労女性を賛美する経済フェミニストの一人だ。
・大阪・幼児放置殺人「母親を責められるだろうか」に議論百出 2010/8/2 11:51
http://www.j-cast.com/tv/2010/08/02072410.html
コメンテーターの白石真澄(関西大学教授)は「こういう事件が起こると母親が責められて異常のように報じられるが、私は彼女に同情的」として、「大阪の中心区の人間関係が希薄なところでは孤立してしまう。子育ての母親の孤立をどう救うかに目を向けなければ、こういう事件は防げない」と述べる。
(一部引用)
幾らサポートがあろうが、遊び狂う女に果たしてそれらのサポートが有効といえるのか。子供を託児所に預けておけば、その間にこの女が遊んでいても子供は助かるからそれでいいとでもいうのか。育児放棄する母親の受け皿とした子育て支援など、支援とは言えない。
これに対し、性犯罪など女性被害には一方的な男性の自己欲求と断罪し、本人を厳罰に処すだけで、何の支援も考えない。本人に同情的になり、社会の不備に転嫁させ、本人も軽い罪にしかならない幼児虐待の事例とは全く逆である。男には厳罰、女には軽罰、そして社会支援も女性に対するもののみという現状はあまりにも正義を欠いている。
そもそもフェミニズムの蔓延こそが今回のような幼児虐待の起きる最大の原因と言えるだろう。この容疑者の女が遊びを優先させて育児を邪魔と感じるようになったのも、周囲を見渡せば30代40代の独身女性がグルメにブランドに海外旅行にと遊びまくっているからである。そういう光景を目にすれば、誰しも同じように遊びたいと思うのも無理もないだろう。子供を持ち家庭を営む、本来ならお手本とされる生き方が逆に反面教師である独身女性の生き方に惹かれてしまう。結婚するもしないも女性の自由などという甘やかし社会が、こうした悲劇を生み出してしまうのだ。