フェミニストの小倉千加子が、ダルビッシュとサエコの出来ちゃった結婚を批判的に例に取り、女性の出産に関する意識を解説した論考が中日新聞に掲載された。
小倉の見解によれば、結婚、そして妊娠という手順を無視した「出来ちゃった結婚」をしたダルビッシュの影で、その「決断」を急いだダルの行動を彼の母親はどんな心境で見ているのか、ダルママと同世代の母親にとっては身につまされるような事件であったと解説している。しかしその一方で、もっと複雑なのはダルの妻サエコの「実行力」だと。
ネット上にソースがないので残念だが、原文中にはサエコという名前は出てこない。そこにも男性だけを批判して女性は批判しないというフェミの本音が滲み出ている。
また小倉は、子無しの40代女性にとってはダルの結婚を慈母のように祝福できて、「生物として勢いのある時に何も考えずに妊娠しないと、出産というものはできない」と解説している。そうした女性達は、20歳前後の頃は恋愛に忙しすぎて結婚を考える余裕がなかったそうだ。だがそれでも若さのせいで仕事も恋愛も楽しかったという。
小倉の言いたいことがそもそも良くわからないが、若いうちに結婚して子供を持てなかったことの言い訳をしているのか。若いうちに恋愛が出来ているならそれで一定の満足は得られたはずだ。それに何故その相手と結婚しなかったのか。結局理想ばかり高くしていたから自ら結婚を放棄したのだろう。そんなものは自業自得である。そればかりか、相手の男性は恐らく真剣に結婚を考えていたのだろう。そういう男性の思いを踏み潰した彼女らの罪の方が大きいはずだ。
世の中には、仕事だけに忙しく恋愛も何も出来なかった男性が沢山いるのだ。女性はどこまで贅沢を言えば気が済むのだろう。
更に小倉は、出産で妊娠線ができることが嫌だと思っている女性が多いことを挙げ、女性性が「美の表象」であることの裏づけであると解説している。「美による序列化が厳しい時代には、美しくなければ女性ではない」と。
そして最後に、男性が父親になる年齢幅は広いが女性が母親になる年齢幅は狭い、それが神様は不公平だと嘆いている。
だいたい、美しくなければ女性ではないなど、多くの女性に対し失礼ではないだろうか。女性差別という架空の概念を主張しながら、実は差別しているのはフェミニズムそのものなのだという象徴的な表現がここにもある。
それに、「性格美人」という言葉があるように大切なのは中身、つまり心である。心が荒んだ女性はいくら外見が良かろうが美人にはならない。フェミニストなどは明らかに美しくない。そんな者に美人を語る資格があるだろうか。
また、父親や母親になる適齢期というものは決して男性の方が幅が広いということではない。例えば70歳の男性でも生殖能力は仮にあったとして、子供を作ったとしても、子供が成人するまで父親は元気でいられるだろうか。親としての役割を果たすという視点で見れば適齢期は男性も女性も同じなのだ。それを作るだけで終わり、後は赤ちゃんポストなり保育所なり預ければいいなどといった子育ての外注化ばかり考えているから出鱈目な比較論になってしまうのだ。
結局、小倉は何を主張の根幹としているのか、この論考では良くわからなかった。ただ単に男性を批判することと、女性は不利であるという主張だけをするために材料をかき集めただけのようにしか思えない。
ちなみに、小倉千加子は「ザ・フェミニズム」という書籍の中でこんなことを言っている。
「専業主婦幻想を抱く若い子とは結託出来る。女学生には結婚相手は選べ、妥協するな、と助言している。結婚への期待値が高ければ高いほど晩婚化が進み、結婚制度そのものの空洞化と崩壊を誘うことに繋がるから。(要約)」
フェミニズムが家族破壊であることは何度も申し上げている通りだ。こうしたフェミの本音を意識しながら論文や新聞記事などを見ていくと、連中の主張の狙いは見えてくるのかも知れない。連中はあらゆる立場の女性の味方であることを装いながら徐々に女性心理を操り、そして破壊していく。そうした罠に引っ掛からないように自分は勿論周囲の人々にも啓発していく必要があるだろう。