運営委員長の岡野です。
今朝の『東京新聞』1面の「筆洗」に以下の文章がありました(改行は筆者)。
小さな虫を地べたで観察し続けたファーブルは、『昆虫記』にこんな言葉を残している。
〈人間というものは、進歩に進歩を重ねた揚句の果てに、文明と名づけられるものの行きすぎのために自滅して斃(たお)れてしまう日が来るように思われる〉
▼人類史で初めて投下された広島、長崎への原爆に続き、「レベル7」の福島第一原発の事故を経験した今、ファーブルの警句は原子力時代の到来を予言したのか、と思えるほど示唆的だ
▼東日本大震災から来週で二年を迎える。津波で家を失った被災者の大半はまだ仮設住宅で暮らしている。原発事故の避難者の多くは家に戻れるめども立っていない
▼「かつてない大災害だったにもかかわらず、東京で暮らしていると、人々の被災者への思いが『少しずつ風化しているのでは』と感じることがある」と本紙の「東京下町日記」でドナルド・キーンさんは危機感をにじませる
▼原発を動かしたい人々には、事故の風化は好都合なのだろう。経済産業省の露骨な人事が発表された。エネルギー基本計画を検討する有識者会議から、脱原発派の委員五人が外れ、推進派の学者や原発立地県の知事らに代わった
▼何もなかったかのように、原発回帰に向かう安倍政権の姿勢が鮮明になってきた。地震列島に五十基を超える原発を造ってきたのは自民党政権だ。その自覚のなさに驚くほかない。
今、他の仕事の合間に、正村公宏『人間を考える経済学――持続可能な社会をつくる』(NTT出版、2006年)を読んでいますが、次の言葉に状況とそれにどう向かいあうべきかがうまく語られているな、と思いました。
マクロの目的意識を持ち、超長期の展望を持って体制の全体をつくりかえようとする取り組みは、経済体制の改造(remodeling)と呼ぶことができる。
改造のためには、適切な価値判断と的確な状況判断が必要である。ラディカルな思考にもとづくグラデュアルな改革が必要とされる。
ラディカル(radical)は急進的と訳されるが、本来は根源的あるいは根底的という意味である。
グラデュアル(gradual)は「ゆっくりやればいい」ということではない。相当の時間がかかることを覚悟し、針路の微調整を繰り返しながら、ねばりづよく着実に進める必要がある。
相当数の人間が、生活の困難を解決するために、不合理や不公正是正するために、将来の破局を回避するために、新しい制度の導入が必要であると考えるようになると、経済体制の改造が政治の争点(issue)となる。…(中略)
多くの人間は、改造の必要性と可能性を確信することができたときに行動を起こす。
人々が生活の困難に耐えるほかないと考えている場合、または個人的努力によって困難をどれだけか緩和することができると考えている場合、体制の改造は政治の争点にならない。
経済成長によって生活水準が高められつつある社会では、やがて危機が到来すると警告し、改革が切迫して必要であると主張する人間に耳を傾けるものは、少数にとどまることが多い。 (p.76-77)
この本は2006年に出たものですが、経済成長によって生活水準が高まることを経験した日本社会では、3・11の後でもまだ、多くの国民が、「生活の困難に耐えるほかないと考えている」か、「個人的努力によって困難をどれだけか緩和することができると考えている」状態にあると同時に、新自由主義市場経済のグローバリゼーションに乗っかった経済成長の「夢よもう一度」と期待しているという状況にあるのでしょう。
それは、とても残念ではあり、私たちとは認識が違いますが、そういう気持ちもわかるので、驚くほどのことではない、という気がしています。
アベノミクスの成功(?)は一時的なもので、やがて、多くの人が、改造の必要性を感じざるをえず、かつ可能性を確信することができて、行動を起こすようになるはずですから、それまで、私たちは、これからもまだ相当の時間がかかることを覚悟し、ねばりづよく発信し続けていくことにしたいと思います。
安倍政権はほんとうに危ういですね。しかし、支持率は上がっているようです。
緑の福祉国家への方向転換には、まだ時間がかかりそうですが、そう遠からず切迫した必要性を感じさせられることになるでしょう。
なるべく早くそうなるといいですね。