画像は、今日の「払沢の滝」
心から尊敬する師、紀野一義先生が毎朝毎夕、水をかぶっておられるという話をうかがい、私も数年前から、毎朝、水をかぶるようになりました。
先生は、戦時中、上官から「死を覚悟しなくてはならないときは、清浄な川の流れで身を清め、一番きれいな下着と服を身につけ、戦地に赴くといい。」と言われたのだそうです。
先生は、その言葉を守り、「命をかけなければならないな」と思うときは、いつも「みそぎ」を行い、すがすがしい心と体で、戦場に向かわれたそうです。
戦争が終わり、奇跡的に生きて帰ってこられた後も、一日一日を命がけで生きていくために、眼の前で亡くなられた大勢の兵士たちの志を無駄にしないために、毎朝毎夕、ご高齢になられても「みそぎ」を続けておられるのです。
お国のために散っていったたくさんの特攻兵、魚雷で沈められ海の露と消えた海軍の兵士たち、原爆の業火に焼かれた長崎や広島の犠牲者の方々。
戦時中、志半ばで若くして亡くなった学生たち、生きたくても生きられなかった大勢の方々の無念を思うと、いい加減な生き方はできない・・・・・。
先生のお話には、深く感動いたしました。
「わたしもやろう!!! 「みそぎ」をやれば、少しは強くなれるかもしれない」
迷いの真っただ中にいた私は、思い立ったその日の夜から水をかぶるようになりました。
そして1年ほど経ったころでしょうか・・。
私は、先生に手紙を書いたのです。
「水かけを1年つづけました。おかげさまで、心が強くなったような気がします。」と。
夏の水掛けは、気持ちが良いのですが、1月や2月の厳寒の朝に、凍るような水をざぶざぶかけると、全身が発赤し、切られるように痛くなります。
あまりの冷たさに、ほとんど毎朝、「今日はやめよう」「今日でおしまい」と逃げたくなってしまうのです。
この「みそぎ」の儀式は、大変なことなのです。
それでも何とか1年も続けたのですから、きっと先生は、私をほめてくださるにちがいないと思っていました。
ところが・・・。
先生は、「水かけをやったからと言って、別にどってことはない。」と一言。
あっさり切り捨てられてしまったのです。
大変、ショックでした。
先生は、私の中にある不純な動機「認められたい。自慢したい」という思いを見抜かれたのでしょう。
先生に、一刀両断され、精神的に頭から水をぶっかけられたような気がして、全身の血が引きました。
一晩、寝込むほどの衝撃です。
「水掛けをしたからといって、別にどってことない」
その言葉は、骨の髄までこたえました。
その日以来、何か付きものが落ちたみたいに、私の「みそぎ」は変わりました。
そっかーー。水掛けしても、どってことないのか・・・。
「みそぎ」は、誰のためでもない、毎日毎日、ただ淡々と行うべきもの。
水を全身にかぶり、これまでの良いことも悪いこともすべてリセットし、
毎朝、「今日も一日、がんばろう!!! 」と
すがすがしい心持ちで新鮮に一日をスタートします。
最近では、この「みそぎ」を行わないと、一日中、ムズムズして気持ちが悪いのです。
あのとき、先生にほめてもらわなくて、本当に良かった。
命がけで真摯に生きておられる師の言葉だからこそ、心魂に達するのです。
頑固にまとわりついた心のシミや汚れは、自分ではなかなか落とせないものです。
時には、こうして滝に打たれることも必要かもしれません。
私は、師の美しい滝に打たれることで、シャキッと眼が覚めたような気がします。
心から尊敬する師、紀野一義先生が毎朝毎夕、水をかぶっておられるという話をうかがい、私も数年前から、毎朝、水をかぶるようになりました。
先生は、戦時中、上官から「死を覚悟しなくてはならないときは、清浄な川の流れで身を清め、一番きれいな下着と服を身につけ、戦地に赴くといい。」と言われたのだそうです。
先生は、その言葉を守り、「命をかけなければならないな」と思うときは、いつも「みそぎ」を行い、すがすがしい心と体で、戦場に向かわれたそうです。
戦争が終わり、奇跡的に生きて帰ってこられた後も、一日一日を命がけで生きていくために、眼の前で亡くなられた大勢の兵士たちの志を無駄にしないために、毎朝毎夕、ご高齢になられても「みそぎ」を続けておられるのです。
お国のために散っていったたくさんの特攻兵、魚雷で沈められ海の露と消えた海軍の兵士たち、原爆の業火に焼かれた長崎や広島の犠牲者の方々。
戦時中、志半ばで若くして亡くなった学生たち、生きたくても生きられなかった大勢の方々の無念を思うと、いい加減な生き方はできない・・・・・。
先生のお話には、深く感動いたしました。
「わたしもやろう!!! 「みそぎ」をやれば、少しは強くなれるかもしれない」
迷いの真っただ中にいた私は、思い立ったその日の夜から水をかぶるようになりました。
そして1年ほど経ったころでしょうか・・。
私は、先生に手紙を書いたのです。
「水かけを1年つづけました。おかげさまで、心が強くなったような気がします。」と。
夏の水掛けは、気持ちが良いのですが、1月や2月の厳寒の朝に、凍るような水をざぶざぶかけると、全身が発赤し、切られるように痛くなります。
あまりの冷たさに、ほとんど毎朝、「今日はやめよう」「今日でおしまい」と逃げたくなってしまうのです。
この「みそぎ」の儀式は、大変なことなのです。
それでも何とか1年も続けたのですから、きっと先生は、私をほめてくださるにちがいないと思っていました。
ところが・・・。
先生は、「水かけをやったからと言って、別にどってことはない。」と一言。
あっさり切り捨てられてしまったのです。
大変、ショックでした。
先生は、私の中にある不純な動機「認められたい。自慢したい」という思いを見抜かれたのでしょう。
先生に、一刀両断され、精神的に頭から水をぶっかけられたような気がして、全身の血が引きました。
一晩、寝込むほどの衝撃です。
「水掛けをしたからといって、別にどってことない」
その言葉は、骨の髄までこたえました。
その日以来、何か付きものが落ちたみたいに、私の「みそぎ」は変わりました。
そっかーー。水掛けしても、どってことないのか・・・。
「みそぎ」は、誰のためでもない、毎日毎日、ただ淡々と行うべきもの。
水を全身にかぶり、これまでの良いことも悪いこともすべてリセットし、
毎朝、「今日も一日、がんばろう!!! 」と
すがすがしい心持ちで新鮮に一日をスタートします。
最近では、この「みそぎ」を行わないと、一日中、ムズムズして気持ちが悪いのです。
あのとき、先生にほめてもらわなくて、本当に良かった。
命がけで真摯に生きておられる師の言葉だからこそ、心魂に達するのです。
頑固にまとわりついた心のシミや汚れは、自分ではなかなか落とせないものです。
時には、こうして滝に打たれることも必要かもしれません。
私は、師の美しい滝に打たれることで、シャキッと眼が覚めたような気がします。