Born Free

見果てぬまま…。


1983年から三年間。
監督として南海ホークスを率いた
穴吹義雄氏が亡くなられた。

南海時代のこの三年間が
ワシ自身、南海ホークスのファン生活を送った中で
一番充実した時間を過ごさせて戴いた。

特に、三年目の1985年は大阪球場での
ホームゲームは一試合欠場したのみで
関西のビジターゲーム総てを現場観戦し
結果的に、年間八十試合程現場で観た記憶がある。

この頃、西武ライオンズ第一期黄金時代で
ホンマに無敵っちゅう状態やった。
そのライオンズ相手に執念深い闘いを挑み
弱い時代乍ら、ライオンズには簡単に負けんかった。

当時の知将、広岡達郎監督曰く…

「南海は、不気味な存在。」
「あの監督は、何を考え、何をやって来るかを読めない。」

っちゅう風にクチにし
結局は毎年、勝ち越しを許すモノの
南海ホークスに対して苦手意識を持たせた。

長年、二軍監督を歴任し
育て乍らも、優勝させたりと
一軍の低迷期とは逆に
二軍では穴吹氏の育成手腕が評価されてた。

その一方で、アイデアマンであり
いろんな手法で集客を試みた。
そのひとつが、勝利のガッツポーズ!

ベンチ前で、拳を握った両手を突き上げ
満面の笑みで客席にアピールする姿に我々も心踊らされた。

1983年8月10日。
ドラフト一位、ルーキーの畠山 準投手の
初先発を予告し、集客する際に
八尾空港から宣伝用小型飛行機を飛ばし
アナウンスを流し乍ら、大阪上空を周回させた。

ホンマになつかしく、楽しい思い出が多く
結果的には、弱いホークスから脱するコトは
叶わんかったモノの、充実した時間を過ごせた。

もし、穴吹監督で優勝するコトが出来てたら…

恐らく、子供の様に無邪気にはしゃぎ回る
穴吹監督が観れたやろうと思うし…

観たかったモンである。

ホンマに、有難うございました!


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