終戦の日。
ガキの頃は殆ど意識するコトは無かった。
っちゅうか、ピンと来んかった。
35位の頃からか、ばぁちゃんと寝床で
戦時中のハナシやら、戦後のハナシをして貰うコトが
ちょこちょこと増えて行った。
36の冬、そのばぁちゃんが
新たなコトバを遺す間も無くこの世を去った。
40を過ぎた辺りから、"そのハナシ"を
聞けんコトが無性に寂しくなった。
ワシには、生まれた時から
"じいちゃん"っちゅうヒトが居て無い。
なんべんもココに書き記してるケドも
両親が"戦災遺児"やったりする。
そのコトをココ何年かで、強く考える様になった。
親父の方のじいちゃんは、硝子職人。
おかんの方のじいちゃんは、独立寸前の
既製服問屋の商売人やったそうである。
ひたむきに仕事に精を出し、家族を愛した
青年が"國の為"っちゅう使命を抱えど
意気揚々と戦地に向こていったんやろうか…?
こんな書き込みをしたら、憤るヒトも居るかも知れんケドも
ワシらが想像も出来ん様な、未練や葛藤て抱えてたと思う。
"日本軍"として、やったコトっちゅうコトに
憤りを抱える、特に隣国のヒトはそうであろう。
せやケドも、総ての兵士を憤りの対象にされるのは
如何なモンかなぁと、ワシは考える。
それを"教育"の名の下に
後世に伝え続けられてるコトに対して
コトバに出来ん、無念さを覚える。
お互いに憎むより、歩み寄り合うコトを
ちょこっとでも考えては貰えんモンなんやろうか…?
戦争の悲惨さを後世に伝えるコトは必要であろう。
せやケドも、それは戦争をせん為のモンであり
敵を持たせる為のモンであってはならんと思う。
例え、戦で勝ったとしても、それが"栄光"なんやろうか?
それで手にした"自由"の裏側で、幾つもの尊い命が失われた。
それでも手放しで喜べるんであろうか…?
たしかに、"終ったコト"っちゅう風に済ます様な
問題や無いコトは、承知してるつもりである。
せやケドも、戦を知らん世代が我ががされたコトの様に
ヒトや國を恨み続けるコトが自身の人生に
プラスになるコトであろうか…?
そんな人生はホンマに勿体無いモンやとワシは考える。
アタマを下げ続けて貰ても、"許す勇気"が無かったら
本質的なモンは何も変わるコトは無い。
アタマを下げさせたっちゅう、愚かな優越感に
僅かばかりの時間だけ浸れるっちゅうだけのコト。
アタマを下げ続けても、本心で下げてるワケや無ければ
本質的なコトは何も変わるコトは無い。
ハラの底で舌を出してるっちゅうヒトを蔑むココロを持ち
何事も無かった様に日々過ごしてまうだけのコト。
自らが見たり、経験しても無いコトに対して
"やった""やられた"っちゅう様なコトを罵り合うてても
何も解決せんっちゅうのはどの國のヒトも
アタマでは理解ってるハズやと思う。
それに思想を支配されてても、後世の為にはならん!
コレは対ドコの國っちゅうコトや無しに
どの國の國民間の日々の暮らしでもそうやと思う。
いっちゃん大事なんは…
"前に踏み出す"
っちゅうコト。また、その勇気と覚悟を持つコト。
せやないと、失われたヒトの志がホンマに無になる気がする。
それこそホンマの、"犬死に"になってまう。
自戒を込めて…。
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