まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学  歴史の静止考証と動態活学 08 3/18 再

2023-11-15 06:01:20 | Weblog

 

            枝頭の梅花によって春の訪れを知る(師からの便り)

殺伐とした欲望と偽善の環境は、ときに素晴らしい情感を潤いとしても表現することがあるという。我が国の男文化の昇華は、戦国時代、幕末、敗戦直前の死生観から生じていると・・・、それは、実直、真摯、洒脱、大らかにも見える義挙への靖献の清々しさであろう。》


以下 珍奇な切り口ですが

このところ起きる様々な事件、事象を歴史に記述するにあたって、その因果関係を考証するに旧約聖書の預言に求めたり、地球が宇宙の構成要因として物体の経年上避けてとおれない大気の変質や基盤変化などが、人間の所作である歴史の現象に深くかかわっているような論を聞くことがある。

分派、分裂してボスと、その他一同を抱える学派にはみることはないが、これも人間の「識」(道理)の変遷とすることを歴史考証の成り立ちとして、現代学徒そのものの考証としても面白いものがあるようだ。

彼らのいう珍奇、高邁な仮説のもとに西洋学にある科学的根拠の組み立てと分類を披瀝する苦労は、東洋にある変化する動態を俯瞰するような活論の透徹さと、将来に評価を委ねる余裕とは異なる学である。もちろん食い扶持学、面子学のような類もそこに見え隠れする。

あのドイツの碩学、ハイゼンベルグも部分の算術的総和は全体を表さないとその論を述べているが、もう一歩踏み込むとするなら部分も全体も多様な個として、時間の進行、所在の「移動」を加味すれば、上下左右にスパイラル(連鎖的移動)のように変化移動し、かつ人間の観察にある各々の多様な論点を加えたならば、諸学の一隅を占めている歴史学派にしてみれば百家争鳴の態を成すことは当然のことであろう。

其処には、名声の有無、手駒である系列研究員の量によって定説化することもあろうが、他の諸派との仮説争論によってより不明確な歴史考証積み重ねているのが実情であろう。

それらはよく「壇」にたとえられる文学、絵画も、その世界にしか通用しない屯を構築し、似たようなボスを戴き名利獲得に勤しんでいる

それは人間の作為によってつくられた戦禍や衰亡の歴史など、そこから生まれる悲哀に似た情緒の復活に必要な「活論」の欠乏ゆえ、単に成文化した出版界に位置する「売文の輩」もしくは「言論貴族」に成り下がり、遂には知識人の堕落が亡国を進捗させたような、隣国の歴史に観る臭九老となって、鼻つまみ学徒を形成してしまうようだ。

 

          

   岩木の麓 

当世の歴史学派でみれば、英雄や勳官の技だけの考証ではなく、知識人の堕落が歴史の集積に存在することを、まるで枕屏風に隠す遊女のような媚言論によって、「智は大偽を生ず」にあるような、作為の偽装という責任意識のない一群をなしているものもいる。

宗教や陋規にある、習慣、掟の範疇にある人間の狭い範囲の規範に属することだが、もう一つは清規(成文法)がある。その二律は欲望追求や獲得の知恵から生ずる、表裏、陰陽、正邪のハーモニーで集積された歴史考証を構成するものでもある。

切り口の多様な学徒は各々学派を構成し、互いに蟻塚を形成して、差別化なのか敢えて異を唱え、協働すべき問題でも覇を競い、分派統合するべき事柄においても分派ならぬ分裂となり、本来は目的と影響を思慮して分派の成果を協調統合すべきことが、研究初頭の部分から片肺考証に陥っているようにもみえる。

つまり、簡便に直観できる歴史の俯瞰(全体像を多角的に観察する)することをあえて矮小化して、明治以降、わが国が陥った記誦、記聞学という、習い考えることで停止してしまうような、Shinkから Actionへ導くことの行動活学が、明治以降の官制学校歴にいう学歴に囚われ、なんら人格を代表しない「勉強」と称するものに陥り、歴史を糧に自己陶冶や利他の増進という目的に錯誤をきたしているのが実情である。

それは、歴史の考証を「知学」から「活学」に高める術(すべ)が欠落したため、食い扶持のための利学に浸り、肉体的衝撃を回避するあまりに臨場感ある実学をなくした我国知識人の無感性的堕落にもなっている

畢竟すれば、明治の近代化、あるいは半知半解な西洋化は、特徴の伸長や有効化であるべき分派は、分裂した個性という賜物とともに、国民の情緒の変質を促し、国民の矜持すら茫洋とした大海に投じてしまったのである

財は、民族の特異な智学であるタルムードや厚黒学をもとに賄賂学や詐学、性は欲望甘美な高揚のために、隣国の房中の秘の性事学など、どのようなものでも学部にしてしまうことからすれば容易なことでもあろう。
つまり宗教の秘事や陋規を学の机上に上げる愚に反して、いかに動態活学の多面性が人間の歴史構築の上で有効性を支えたかを理解すべきだ。

 歴史のウラに女色、飽食、財貨、(色・食・財)という欲望の本性があり、その本(もと)を成しているもの、またそれによって事象構成の必須なものとして位置づけられるべき内容を含んでいるかが、人間の歴史を司る欲望を考える上で必要なものとなる。

そこから地位獲得、收奪・戦争・それに係わる論や学が生ずるのだ。まさに抑制と開放、人の躍動や苦難など、第三者にとっては、まさに現代は「口耳四寸の学」的、欲望の蔓延るグランドでの様相となった。


 欲望の本性は「学」に品性が亡くなるとの指摘もあろうが、それを学とする人間の人格の問題と考えるべきで、我国の漢文や古典の学を固陋なるものとしたのは、固陋なる人間の存在がそこにあると、側近の漢学者元田ナガザネに指摘した(聖喩記)明治天皇の炯眼にみることができる。

 歴史学に厚みを持つことは、理解の淵を広くすることであり、歴史構成と我が身の残像を噛み合わせ、より有効な活学を提供するグランドができると考えるからである。つまり古教照心ではなく、己を知って対象をみる「照心古教」でなくては、前記した口と耳の間の学と同様の「眼口四寸」の学びになってしまうだろう。「聴く」でなく、聞くとなり、「観るべきもの」が、見ることになる、そんな学びでしかい。

 

           

              林檎の花

 

 

 余談だが、教育基本法に「国家愛」とか「祖先を大切に」との記述を挿入するかどうか権力負託者である議員の争論が世間をにぎわしている。
果たして祈りや陋習、あるいは情緒の積層にあるものを国家の遵守規範として成文化する愚は、より愚かな国民を生み出すのではないだろうか。

 しかも家族や祖先を守るという家族、ここでいうのはアメリカンファミリーではなく「家」意識の中で醸成されるべき規範を国家の成文とすることは、官製教育のみならず、わけの分らない日本人を作り出してしまうだろう。容易な理解は、安易な人間をつくるのだ。

文ハ経国ノ大業ニシテ、不朽ノ盛事ナリ

それさえも「文」は恣意的に改竄し、隠蔽もしくは廃棄する高学歴の狡猾官吏や、それを統御すらできない為政者の劣化も、歴史の動態として観察もしくは眺めることも大切なことだろう。

静止して部分を掘り下げ関連をさぐり、騒々しくも反証ないし抗論まで備える彼らの学問的陋習は社会のあらゆる部分に浸透して、国民に注ぐべき潤いを枯渇させている。

それは国力評価さえも数値に翻弄され時節において、地球の表皮に棲み分けられた国なるものの、真の国力と考えるべき深層に積層された人間の情緒性すら、更に毀損する姿にみえるのだ。


いまさらながらその利功複雑にすぎる国家の成文の変容、そして考証する知識人と称して素餐を貪る学徒に、この国の社会と人を観るのである。

※ 素餐・・・功労や才能が無いのに高い地位に就いて報酬を得ること。


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