まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

切り口として、少子化と虐待の遠因  19 7 あの頃から

2025-01-22 01:36:16 | Weblog

暑くなれば寒さが恋しくなる・・・・ 岩木山

 

SNSなら炎上は間違いなし。

ことさら勇気もいらないが、ゴマメの歯ぎしりとして当世を備忘してみた。

 

中華人民共和国は「一人っ子政策」という、゛人口減対策゛によって産児調整をしていた。

いまは小皇帝とよばれる子供たちが青年期に差し掛かっている。

彼の地の古い諺に、男児が4人いれば一家を机にたとえ、4脚の支えとして吉事とした。

ゆえに一人っ子政策では、女児は忌避されたりもした。

日本と同じで、まつりごとは皇帝、為政者も男子が担い、ときに則天武后や清朝の西太后など、幼帝を背後で支える政治を執り行っていた。まさに陰(地・女)の支え、陽(天・男)の動きだ。

ちなみに漢字を操るのは男子(漢)、なぜだか女篇ばかりで、男篇は見当たらない。いたぶる意の「嬲」(なぶる)があるが、同意だが女が男を挟んでナブルがある。当世は娘と女房に挟まれてナブラレているようで、やはり女篇が合う。

 

その昔、男子は武人や官吏として一族の繁栄に役立った。陰茎を断って宮廷に仕官する宦官も皇帝の権力を盾に、財を蓄えた。つまり、官吏も宦官も「昇官発財」を目的として、登用試験には名目として孔孟を学び、行いは「色(性)、食、財」の三欲獲得に邁進した。

ゆえに国のスローガンとして孔孟を由縁とする道徳運動は、「あれはハナシ」として、面従腹背した。大衆に密かに人気があったのは「厚黒学」(李宋吾)に説く、腹黒く、面の皮が厚い生き方の処方や、老子の由縁を持つ道教が好まれた。

薬の神様、財の神様、健康の神様、つまり実利が歓迎された。台北の龍山寺、横浜の関帝廟は、まさに繁盛している。

 

賄賂は「人情を贈る」と、陋習はデジタル社会になってもアンダーテーブルの有効性は表の成文法(法の書きもの)など、なんのその、狡知を働かせて庶民の潤いとなっている。

数学ならぬ、算数を駆使する四角四面の税官吏や取り巻き士族などは、あれも食い扶持と揶揄する鷹揚さと、応答さえも余裕がある。それは「逢場作戯」(場面において種々の人間に戯れる)智慧が為せる技でもあろう。

余だが、アインシュタインは想像力、つまり直感を含んだ思索だが、あとは合理、説明論拠は後世の学者なるものに委ねた。いま流行りの量子学にも不確定原理(位置の曖昧さ、運動量の曖昧さ)がある。つまり自然の本質は曖昧だ確定していないという。東洋では数千年前の老子が類似したことを説いている。実利活用については西洋学的だが、感性については東洋の自然活学の啓が学を俯瞰しやすいように思える。

 

インドの哲人 タゴール

 

知恵が増せば、自ずと三欲のために狡知を働かせ、平然と大偽を唱え、一族のために精勤?した。一人が官に昇って高位に就けば一族が繁栄する。「一官九族に繁える

そして「智は大偽を生じ、小人は利のために殉ず」、国家社会はその為の利用目的でしかなかった。(ウソのために知識を活かし、財利のためには命を懸ける)

 

そのような社会が一人っ子政策を行えば、自ずと個々の競争は激しくなり、親類縁者の構成上、甥っ子、姪っ子、おばさん、伯父さんもいなくなり、親族構成は人情薄弱となり、政権とて個々の欲望充足のために政策選択も狭まってくる。

政権につく高位高官も殖財に励むようになり、かつ賄賂さえも「人情を贈る」意識の陋習もあり、選択としては国家を括るには、便宜的に専制的手法(共産党独裁)を採らざるを得なくなってくるのは至極、自然な姿なのだ。

 

田中角栄総理が周恩来に「おたくは便宜共産主義ですね」と語り、付け加えて「これだけの人口を取りまとめるには共産党専制でなくてはまとまらない。一家に10人も子供がいては親も大変だ」と田中流の考察を述べている。

 

あの天安門の騒擾も、はじめは冷静だった。学生は、徐々に専制体制を緩やかにして、諸外国と比すぐらいな成長を描くためには、大衆も国の将来を落ち着いて考え、政府も統制を緩やかにするべきだと考えていた。ところが、どこの国でも世間は人が集まるところに興味が向く。地方から学生や労働者が北京に押しよせ、学生指導者も収拾が困難になってきた。

 

   

   桂林

 

もともと、学生指導者は大衆の性癖を知り尽くしていた。

もし、見たこともない、有るかどうかわからないような民主、自由、平等、人権を掲げたら、この国は混乱する。その時は、国家は脆弱になり、外国からの浸食が始まる、その歴史を知っている。

 

筆者の体験だが、デモは整然として長安街を進んでいた。まるでイベントのように軍人、官吏、教員、労働者、学生が、それぞれの制服なり、こぎれいな身なりで和気あいあい歩いていた。路肩の見物する市民もビラを受け取り、拍手したりして応援していた。

そのさなか、小学校は普段と変わらない授業風景だった。

五十万人とのことだが、北京飯店から広場に渡るには斜めに隊列の中に入り、普段の3倍の時を要したが、熱気というか爽やかな笑い声が印象的だった。そんな情景の記述がこの章の本題ではない。

数年後、北京にある孫文の妻、宋慶鈴記念館の館長が来日したおり、知人の紹介で懇談した。

記念館の前の大きな池の畔の朝市の話題から始まったが、「ところで、あの頃の若者たちは、いま社会で活躍していますか。彼らは歴史を熟知し、あれだけ市民から歓迎された行動をました。拙速な対応が適わない政府だと理解しつつも、一人っ子政策で大事に育てられた彼らが、不特定多数のために行動したことに感銘を受けました

 

「・・・・・」館長は言葉を選んでいた。

 

政治の話しではなく、あの気概と勇気は、いずれの機会でも社会に有為な人材です。遅れているとか汚いとか、日本でも嘲る方はいますが、そんなことは国力評価ではありません。普遍な人情をもつ素晴らしい人間が大勢育つことが、貴国の力になると思います。その意味であの時は、いずれ日本は負ける、と思いました」

 

あの時、来館されて、孫文先生が云った、゛真の日本人がいなくなった゛と伝えて頂きましたが、社会は人間の在り方、とくに若者の姿で将来がわかります。でも、経済が発展し、社会が弛んでくると若者も変わります。今は、経済の富に夢中です」

 

「・・・・」今度は筆者が言葉を探した。

 

その後、一人っ子政策は中断したが、その影響は様々なところに及んでいる。

教育は受験戦争が激しくなり、享楽的、厭世的にもおもえる非行も増えてきた。自然の運行を遮ると、思わぬところに弊害が生まれてくる。その対策に、また専制的な治安対策などの社会対策のコストが増大する。為政者が公職者の腐敗汚職を取り締まるのも当然な姿として国家運営に露呈する。

 

    

 

ちなみに、蒋介石率いる国民党は台湾に逃れた。子息の経国氏は「いま台湾にいる国民党は戦備が乏しくて負けたのではない。大陸において国民党が腐敗し、堕落したから民衆の支持がなくなった。それが一番の敗因だ」と説いて「新生活運動」という社会整風(道徳)運動を行っている。

その意味では、他の意味も含んでいるが、習近平主席の腐敗幹部摘発は民衆の歓迎をうけている。また、最近では党学やエリートの学び舎では、今まで禁忌のように思われていた古典の学習が盛んになっている。上海ではゴミの分別もはじまり、赤信号は歩行者も止まるようにもなってきたという。

 

運動は一握りの問題意識を持つ人間が始める。しかし付和雷同する無知文盲が問題の行くえを混沌とさせる。そこに権力の策謀が働くとデモは騒擾となり、動乱分子として当初の人間も括られ、市民からも反発を受け、そして一網打尽となる。

香港の公官庁の破壊も、見知らぬ人間の行為であったという。もしも、そうだとしたら破壊よって彼らは反感の対象になり、市民の怨嗟によって官警なり軍の出動が大義となる、どこの国でもありうる権力の姿だ。

耳障りの良い自由と民主の標語は、無知文盲やそれを策動する為政者にとっては、諸刃の剣だが、タイミングさえ逃さなければ、立派な行動大義ともなるようだ。

 

その自由と民主、くわえて富の欲求が添加されると、家庭では離婚率が高くなり、経済は投機的になり、抑制のきかない実利現世主義は、地球の表皮を食い荒らすようになる。まさに、国家は営利獲得のグランドとなり、大衆は国境を超えて天下思想に戻るようだ。(天と地の間のどこでも棲家となる)

その栄枯盛衰の倣いに沿えばと、筆者は、「日本は隣国と同化しつつある」と、度々小論を発した。

 

温泉・グルメ・旅行・イベント、ギリシャもローマも大英帝国も、その没落時の大衆の指向は繁栄の享楽だった。そして、゛いつの間にか゛没落した。しかも、たとえ気が付いても損得が優先して、学びや直感力が行いとして活かせない、それも知識人の堕落として後世の歴史に刻まれる。それは、゛どうしたら、どうすれば゛に停滞して依頼心を増す「釜中の民」(釜に入れられて冷・温・熱・沸騰に慣らされて滅ぶ)の様相でもあろう。

 

   

  桂林

 

 

拙い講話を懇嘱されると、学びの端(はじめ)となる枕に、孟子の「四端」と、荀悦の「五寒」をお伝えして、現実社会との符合を考えていただけるよう提案する。

そして、゛いつの間にか゛流れになり、慣らされた感覚については、これも数百年前に作られたという、企ての文章を紹介する。

いまだに古代の思想や宗教を倣っている人類ですが、ときおり、釈迦やキリストが、もしも転生して、アレは訂正したい、といったらどうする、と戯言を言ったりする。

集団化のマクロメリット、部分をほじくる教育のミクロメリットは、たしかに信ずる者がいなくては成立しない。そこに高位と財貨などの名利がオマケに付くと、人はからっきしダラしなくなる。つまり、人格を何ら代表しない附属性価値の奴隷に進んで成り下がっているようだ。くわえて、無関心はそれを進捗させる衰亡エネルギーのようでもある。

 

       

 

 

そんな時代にスポットがあてられる、少子化と虐待というキーワードである。

貧乏人の子沢山とはなるほどだが、いずれ隣国も少子化になるのかもしれない。その喩えでいえば日本は逆に、心も身体も貧乏とケチになってきたが、そろそろ子沢山になるのだろうか。

 

いや、いまの仮想先進国の現状では、子育て、待遇、が、女性には満足できないといわれる環境ゆえ、幸せの収穫が、温泉・グルメ・旅行・イベントとなると、人と比較した不満足度が、ときに嫉妬や恨みになり、己の自由が毀損されると考えれば、その対象となる個体虐待が起こるのではないかと、妙な心配もある。

 

敗戦後、極東軍事裁判でインド選出判事、ラダ・ビノード・バル博士は、日本の青年男子と女性に提言を残している。それは数百年に亘って英国の植民地だったインドの変容を体験した言葉だった。それは「宣伝に気を付けてください」に要約されていた提言だった。

 

これから西洋的資本主義に翻弄される社会となり、大衆は消費者としてあらゆる心地よい宣伝に晒される。幸せは物質に置き換えられ、その競争は人間の連帯を解き、固有の情緒性は失われ、個々の自由にしても家庭内では、親兄弟、結婚すれば、夫や子供ですら、生産や勉強が数値に置き換えられ、成功価値や幸せの価値まで変質する。

それらの多くは企てられた他からの「宣伝」によって多くの人々は流動し、孤独感はますます進捗し、架空の連帯に組み込まれるということだ。

 

それを原因から探ってみれば、少子化も切り口の変わった考え方にもなるかもしれない。

同じ犬でも愛玩犬は生まれたとき、一生鎖につながれるとは思ってもいなかっただろう。故事では、羊は、羊飼いに従順な牧羊犬に吠えられ、群れとなって行先も判らず妄動する。

ときおり羊毛は刈られ、祭りには神の捧げものとして犠牲になる。美味い、まずいと勝手に食べるのは人間だ。羊に神はいるのか。西洋の神は応えない。

 

羊飼いは、政治家、金融資本に置き換えられこともあるが、経世家によれば、吠える従順な犬は官吏(税と警察)という喩えもある。妄動するグランドは狭い社会だが、狭くしか考えられないように、問題(課題)には数値に置き換えられる範囲の、決められた思考しか与えられない。

パンとサーカスを与えられれば、考えることを許さない、自由な羊がいることも知らされない。

それが「宣伝」だと、バル博士は要約している。

どうも、難儀なことだが、当世の姿を備忘として記さなければならないと考えた。

 

イメージは桂林の友人より  本文とは無関係です

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