まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

商業新聞の弛緩と内なる憂鬱    2008.3 あの頃

2022-11-12 05:31:22 | Weblog

        尾崎ホツミも記者だった

 

2016年12月のある日の産経一面を使って商業新聞の食い倒れのような貸家広告が載った。

人の行いや事物の批評は得意だが、関連会社を装った己の副業を誇大広告として書き連ねていた。

どこのマスコミも同様だが、TBSも赤坂不動産となりフジも台場で威容を誇っている。昨今はカジノ博打をエンターテイメント施設と擬装して宣伝している。博打といえば役人の別財布といわれて久しいが、そもそも公営といえど客は社会的問題意識の乏しい大衆であり、新聞も紙面を埋めるために売り上げの多寡を煽る仲間である。

競輪は経済産業省、馬は農林省、舟艇は国土交通省、なぜかパチンコは警察庁の独断場だ。それらは官僚の既得利権となり族議員もオコボレに与っている。今度はカジノだ。ラスベガスのハマコーこと浜田代議士やトランプ氏も有名だが、博打打ちとギャンブラーはどこにでもいる。そもそもアジア地域のカジノは華僑圏に近接しているが、年に数兆円の逃避資金のロンダリングを阿吽の行為で海外に飛ばしている売国者の徒が、そうそうコントロールが利かない日本に集まってくるとは思わない。

いつだったか商社とNTT・治安官僚が始めたパチンコプリベートカードも、何度となく偽造コピー化されている。筆者が保護関係でかかわった人物は偽造名人だった。大企業や公組織がセキュリティーをかけたカードをいとも簡単に何度も偽造している。

彼は言う「相手が100キロで追って来れば110キロで追いつかない。今度は120キロを出しても130キロ出せばいいこと。私は200キロの自信がある。当時は三菱商事とNTTと最高技術で、追いかけるのは警察のメンツだったが、なかなか捕まることはなかった」

今度のカジノもメンツは同じだ。新参者はガードマン役の治安関係の関連企業とお先棒を担ぐ国会議員、そして遊戯機械メーカーだ。国民の利福のためにある国会、風紀安定のための警察、情報を管理するNTT、それらかオリンピックのドサ廻り利権とともに、歴史上社会衰亡の端緒となる奢多の類である射幸心を煽る舞台を作り、産経がお先棒を担いで大衆を煽っている。

まるで江戸の矢場での世話やき女の真似事だ。多くの国民はその様にみている。産経以外の謀ごと集団の人品骨柄はあえて問うまい。応援婦人部の突き上げに意地を見せたのは宗教政党だが、下駄の雪には変わらない。いずれ清掃部門などの雇用に口をいれるのが今までの倣いだ。

産経は司馬遼太郎を舞台看板として日本の国柄を世に問うた。司馬は最後に明治の言論人陸羯南を著すことを願ったという。その陸に届かなくても、産経は爪の垢でも戴いたらどうだろうか。

頭でっかちになった組織は、妙な一丁上がりの職掌がある。論説委員、解説委員、経営者側はより複雑だ。それを巷では産経元老院と呼ぶ。数年前にいつも宗教団体に訴えられている週刊誌の要職と産経社会部の上席が深夜来訪があった。

地に伏して取材で記事を書く完結主義の十数人と数十人の社会部の能力について争論したが、元老院と若い記者に挟まれた立場では結果は見えていた。いまは下剋上を企てた品性のない経営者だが、マスコミはこの手合いが多いのも特徴だ、下剋上するような人物は権力におもね、内部にある自身と同様な臭いを持つ部下を重用する。真面目に考えるのも愚かしいが、江戸の瓦版屋と思えば理解も早い。

それでも産経を購読しているが、近ごろは東京新聞も併読している。後者は名古屋の中日が根にあるためか新聞事業は充実している。権力ちょうちんと下座観の違いだが、書き手も編集者もこれでは魂も入らない惜しい人生だ。

 

                    

                    読者から送付



備忘本文   2011 08 04 掲載


見たこともない、聞いたこともない、大本営発表しか情報が無い頃の話では・・
書くものが無くては食えなくなるのが、ブン屋さん。
「調べたことが無い」そんなはずは無いと期待するが・・・
とはいっても大衆は、「見たことも」「聞いたことも」あまり気にしていない。
いや、直ぐ忘れる。

読者は特落ち、特(得)タネ、より、どこにでもある下座の吐息に人情なり風儀なりをを感ずるものだ。年金や議員の問題ではなく本質的な人間の問題として察知しているはず。
しかも言論、成文の整理力が乏くても察知力鋭い。

ちなみに、新聞は調べ、知ったことでも書けないことがある。
それは、押し紙、強圧勧誘、部数の虚偽にある食い扶持にかかることだ。
加えて、それを担保保全してくれる広告主や仲介者の恣意的悪行である
つまり陋規の範疇にある掟と習慣である。

其処から発する情報に真の信憑性と公器として人倫もなく、説く「教え」が泣く。
軽薄な商業カルチャーを文化とした今は亡き国家が幾多あっただろうか。

翻って選挙という群集行為について、それに纏わりつく営利のプロパガンダに嘆息する国民の多いことか。

山の手の多くの区域で新聞購読数が激減しているという。
他の媒体の影響だと、したり顔する評論人も多いが、その考察の前提にある、真の問題へ掘り下げる地道な検証へのプロセスが一過性の事実認識でしかないことが業界の末端で働く配達員の声を認知しないことでもわかる。

「一人住まいではありません。たしかに予算的問題も、他の媒体もありますが、文を読まない、あるいは読んでも理解できない人が多くなって二世帯同居でも新聞をとらなくなっている」

「べつに知らなくても食える、と断られる」

「販売所の経営者がコロコロ変わる」

「実質2000でも押し紙は大量に来るので、広告は000で料金を貰っている。まるで広告が主で新聞は二の次だ」
※ 押し紙問題(部数詐欺)は社会の周知となり2016年になって是正されたと聞く。


数多あるその世界の話だが、書壇も、論壇も政界、経済界もそんな世界に壟断されている。どうも息潜む庶世とは棲む世界が違うようだ。

一昔前は、法の傍をうろうろする人間は善くない、と云われたり、銀行員には嫁にやるな、など其処に生業を持つ人間の職業的思考と世俗の連帯を掌る人情との予測できる乖離を量ってのものだが、近頃では所得如何で人気商売にもなっている。

果たしてマスの視点でコミュニケーションを繰るその世界はどうだろうか。
色、食。財の欲望に加え、脅し、覗き、予想、を放埓した行為は、何かを麻痺させ劣化させ、自らマスコミカルチャーを以ってしても修復不可能な情緒の欠落など、それらの行き着くところ人間の尊厳を毀損するものに見えてならない。

明治の言論人、陸羯南は何というか・・・

読まない、読んでも解らない、これを商業的にかつ得意とする合理的に論を塔のごとく重ねるのか、それとも聖徳太子の憲法本義である、権力による人間の尊厳の毀損からの守護が、第四権力といわれるマスコミによる毀損危機の事前観察と観るか、小事として疎かに出来ないものである。
また、その発信元には教育者集団、宗教団体などの権力構成者たちも第四権力を利用してそのプロパガンダを発信、増長し、かつ経営にまで侵食している。

その是正こそ、真にマスコミに期待するものであり,木鐸の報道・教養記事となるものだ。

無名浅学の徒のささやかな願いでもある。

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