桂林の子供達
昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)
官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ
己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
(文中より)
佐藤 慎一郎 先生
寶田 時雄 対談清話より 平成5年作製
《昇官発財》とは
学問の目的は「財」にあり。
学問するところ地位があり。
地位あるところ権力と財を発す。
そのさⅢ 本文
(8)民衆から見た官吏
孔子の弟子F曽子」(前506年~?)は
「官は、宦成るに怠る」(小学)
と言っている。官吏は、その地位や役職が安定してしまうと、とかく怠け心が生じてくるものだと戒めているのである。
北宋の程伊川(1033~1107年)は、宋学の大綱を定めた人であると云われているが、彼も
「官と傲れば、人の志を奪う」(近思録)
官吏となれば出世だとか、保身、世評だとかに心を煩わされて、その人間の初志を失わせてしまいがちなものだと戒めている
民衆の見方からすれば
「何官無私、何水無魚」(俗諺)
魚の住まぬ水はないように、私欲のない官吏はいない、と評している。だから、官吏は
「育児不打送礼的」(俗諺)
贈物を持って来る者を、叩かないのが慣わしとなっているのだという。
清国の官界を見てみよう。
「清国の賞揚は。公私の区別は甚だ分明ならず。かつ会計検査の制度は未だ設けられず、官吏の思いのままに官金を費消することができる。そのため官吏の所得の多寡は、ただその心がけの良否一つにかかっているだけだ。諺に“官をすること三年、以て三代の子孫を養う可じ゛と言っている」と靖国行政法汎論にも、はっきりと書かれている。
三民主義ほ唱えた孫文
では、一体官吏をすれば、どれほど金銭がたまるものか。民衆の見方では
「三年清知府、十万雪花銀」(俗諺)
つまり、三年間清廉潔白な県知事でも、十万の雪や花のような銀貨がたまると云うのである。
これでは。官吏の目的は、民生の安泰でも、国家の繁栄でもなく、自らの具有発射のためであるという思想が、汎濫していくのは当然のことだろう。
そのため官吏たちにとって「官界」とは一大劇場のようなものだ。彼らは、その劇場の舞台の中で、
「逢場作戯」(その場その場に合わせて、芝居をやる)
その場その場に合わせた芝居のせりふを並べたてながら、あらゆる機会を金銭に換算しようとして必死に稼ぐしかないようである。
先に「九儒十カイ(こじき)」のところで、お話したように、「官」と「吏」は、中国社会では、最高にすぐれた人たちに属していると、中国人は分析している。このままでは、中国には明るい未来は、ありえない。
要するに、お役人についての民衆の批判は沢山あるが
「店、脚、何、無罪也該殺」(俗諺)
旅館業者、運送業者、投入、これらの人々は、たとえなんにも罪が無いとしても、当然死刑に処すべき奴らであると云うのが結論のようである。
終章
関連稿につづく