まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

親友が想起する児玉誉士夫氏 2009 3

2020-12-27 16:57:27 | Weblog

『いーさん。オレがゴム印押すと思うか・・』
ロッキード社のコンサルタント?だったという児玉氏が病床にて五十嵐八郎氏に語った言葉である。

五十嵐氏は長野県出身、満州の吉林省興亜塾の当時建国の精神的支柱であった笠木良明氏との機縁があり、その信奉者であった児玉氏と縁を興している。



           



五十嵐氏が語るに、当時浪人していた児玉氏に『大陸でも行ったらどうだ』と笠木氏が促したことから後の上海児玉機関に辿り着くわけだが、戦後の混乱は数多の逸話を残し、其の語り部として五十嵐氏の口から聴くことがあった。

筆者も前コラム中の『笠木会』の縁だが、児玉氏の主催していた交風倶楽部(銀座四丁目の塚本ビル)のメンバーも多く参加していた。神兵隊事件に連座した中村武彦氏も参加していたが、五十嵐氏とは「武さん」とよぶ仲で、小会でも古事記を講義して頂き、池上のご自宅に何度か伺ったことがある。

当時、五十嵐氏は北海道の赤平で炭鉱を経営していた。資金は如何したか分からないが、ニューオオタニーホテルの大谷米次郎氏のことを面白く語ってくれた。
「彼は岸さんの言うことしか聞かない。戦後ドラム缶に金を入れて幾つも持っていた。そこで岸さんから、赤坂に旧宮家の土地があるのでホテルでも建てたらいいといわれ建ったのがあのホテルだ」(ニューオオタニ)


五十嵐氏は神田事務所を設け旧知の運動家、思想家の世話をしている。もちろん笠木氏を終生お世話したのも五十嵐氏だ。

数多の余話だが・・・

「安岡と大川(周明)、先生と戦前は会を作っていたが袂を別けた。だが先生が亡くなったお通夜に一番最初に来たのは月餅饅頭を持参した安岡氏だった。大した男だ」


「満州の資産だった幸徳会館がどういう訳だか三井のものになった。笠木先生と三井に訪ねたら応対したのが江戸(英雄)と大森(曹元)だ。あれは坊主だが三井の用心棒か・・、谷中の全生庵には四元氏に誘われて中曽根が座禅に行っているが、みな三井の仲間か・・・」

 




児玉氏との面白ハナシだが・・

「児玉はペテンが利く(頭が切れる)。二人で歩っているとき急に『いーさん、金持ってるか?』って言うから財布から出したら、向こうから歩いてきた知り合いに借りた金を渡している。
「なんだ・・」
『いゃーアイツは金を無心に来る。いーさんから借りて渡せば、゛児玉も困って見栄張っているのだ゛と思って金輪際無心に来ない』



           

湯布院ホテル山光園よりイメージ
本文とは関係ありません



九州は由布院の旅館の亭主のこと・・・
「俺達を何処かの寂れた旅人と思ったか、ぞんざい応答だった。そこで帰京してh糞入れの小包みに、゛糞食らえ゛と書いて送った。あろうことか亭主から、゛結構な品物を頂戴し・・゛と丁寧に礼状が来た。これには参った。

別の旅先だった・・・
「旅館に着くと児玉が消えた。女房と心配していると『いゃー散歩でね』と戻ってきた。三人で飯も終わり、おもむろに『いーさん散歩に行こう』。財布は女房に預けている。金も無いので安心している。
外に出ると『いい色のいる所がある』「持ち金は??」すると懐からもう一つ財布が出てきた。散歩といって遊び場に目星をつけ、財布は女房に預け、用意周到である。

五十嵐氏は悪戯っ子のようなあの頃を思い出して懐かしんでいる。
「あのゴム印は児玉ではない」
何枚ものゴム印の領収書を書く必要も無い筈だ。何より亡くなる直前にベツトで『オレがゴム印を・・』といった言葉に嘘は無いといーさんは今でも思っている。

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