創価学会中心のハイテク兵器を使ったテロ「集団ストーカー」の告発

統合失調症に見せかけ殺人を行う無差別テロ。テロ目的ならまさかと思う事をやるのが軍事的常識。被害者の言を疑えば思う壺です

日本のケインズ備中松山藩の改革者山田方谷という人物。1

2014年03月12日 | その他、趣味、関連情報

関連記事:

鬱陶しい集団ストーカーネット工作員の印象操作について。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/eda1870e077684190aa7700eec52d45f
「ハングリーであれ。愚か者であれ」 スティーブ・ジョブズの講演
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/7047be3d80328857c1df3e79df19ab5a


※電磁波、BMI兵器による被害詳細と技術解説、ガスライティング被害と手法の詳細解説記事まとめ
http://blog.goo.ne.jp/green5771/c/9b0d3c46a9ab63bd0053faed3f7493ee




ネット工作員が何が何でも居合や剣道やってる私を危険人物というレッテルを
貼ってるので、スティーブ・ジョブズに続いて私が今、研究中の江戸期の
藩政改革者山田方谷について紹介したいと思います。
私は民族主義ナショナリズムを持ってるから、武士の世界に興味を
持ってる訳ではなく、現代日本社会で生きていく上でも非常に有意義なものを
日本史の中に見つけたからです。吉田ドクトリンから始まる戦後日本が
あえて捨ててしまった非常にもったいない文化です。


まず、山田方谷wikiから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7

以下、私のもの。

 山田方谷は文化2年2月21日(1805年3月21日)、備中松山藩領阿賀郡西方村生まれた。現在の地名で言えば、岡山県高梁市中井町西方である。名は球、通称安五郎といった。方谷は号である。

 備中松山藩は表高5万石で譜代大名の板倉家が治めていたが、備中板倉家は徳川家康の代に京都所司代として朝廷の統制や大坂の豊臣家の監視を担った名奉行板倉勝重、重宗父子の嫡流である。奏者番や奏者番兼寺社奉行を多く輩出していた譜代大名でもエリート家であった。

 山田方谷の父は五朗吉といい、母は梶といったが、農民の身分で菜種油製造販売の商工業も営んでいた。また、山田家は元々毛利家の家臣で関ヶ原の戦いののち毛利家が減封された結果、郷士となった家だったが、方谷の曾祖父の代に事件を起こして一時期郷士格を剝奪され所払い(立ち退き)に処され、祖父の代に赦免された後は、親類で庄屋のかたわら酒造業を営む室家を頼って家名再興に励んでいた。室家は備中英賀郡中津井村(現岡山県真庭市)にあり、この室家から将軍吉宗のブレーンとして享保の改革を補佐した儒学者の室鳩巣の父室玄僕が出ている。

 父・五朗吉は若い頃は室家で働き、仕事が終わると室家の長老の戸を叩いて学問を教えてもらう等家名再興に勤しみ、長じて公懿という号を持つなど学識があった。その上、年貢以上の供物を藩に納めていた事から、長百姓(村役人)に任じられていたのみならず、藩主勝職から御目見格の扱いを受けていた。「御目見格の扱い」とは藩主に拝謁出来る資格を与えられている事だが、正規藩士に近い扱いを受けていたという事である。

 当然ながら、五朗吉も母・梶も方谷に対して非常に教育熱心であった。幼児の頃から書や句読(漢文の読み方)を教え、四歳の頃に作州木山神社(岡山県真庭市木山)に詣で、拝殿で額字を書いて奉納したものが木山神社に現存している。五朗吉は方谷が漢文の誦習を怠けると「夜遅くても起きて教え下さった長老に申し訳がない」と戒めたという。方谷は後年、深夜読書で疲れが出て居眠りをしてしまうと五朗吉の訓戒を思い出して座り直したと語り、父の教えがなければ毎日子供達と遊んで、読書、学問の大事な事など理解出来なかったと述べている。

 五歳になると隣の新見藩二万石(現岡山新見市)の藩儒丸川松隠の回陽塾で朱子学を学ばせた。丸川松隠は寛政の改革を行っていた老中首座の松平定信から昌平黌(昌平坂学問所)の改革を託すために仕官を誘われたが断り、代々仕官して来た新見藩の藩校思誠館督学教授になった人物である。

 昌平黌の改革とは「寛政異学の禁」と呼ばれる幕府の正学を成立以来の朱子学に統制するための改革の事であるが、寛政(1789年~1801年)当時、儒学は陽明学や古学派、折衷派など朱子学以外のものも盛んになっており、幕府の封建教学である朱子学を教えていた林羅山を祖とする林家に人材が出ず不振に陥っていた。それを改革するため、幕府は柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲、古賀精里(栗山、二洲、精里を寛政の三博士と呼ぶ)を迎えて林信敬を補佐する教授陣を強化し、湯島聖堂と呼ばれていた林家の私塾の改築を始め、「正学」(程朱の学)以外の儒学を「異学」として教える事を禁じた。また、湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせ、定信の改革に消極的であった信敬が急死した後は、岩村藩主松平乗薀の子衡(述斎)に林家を継がせて大学頭とし、湯島聖堂から学問所を切り離して名を昌平黌と改めて幕府直轄としたのである。松隠はこれらの改革のために松平定信から招聘の打診を受けたのであるが、もともと尾藤二洲、古賀精里と共に大坂の儒学者中井竹山の門弟だった。この中井竹山を通して招聘を受けたのである。

 さて、方谷であるが、その利発から松隠に孫の如く可愛がられたそうである。六歳の時に新見藩主関長誠(成煥)に召されて、長誠の前で字を書かされたというから余程期待されていたのが分かる。9歳の時には有名な逸話を残している。松陰宅を訪れた客の一人が、勉強している方谷に「学問をして何しようとするんだね」とからかうように尋ねると、「治国平天下」と即座に答えたと言う。「治国平天下」とは朱子学の教典「大学」の内容で、「大学」の思想を簡単に説明すると「修身・斉家・治国・平天下」というものである。意味は「天下を平和にしたいと思う者はまず国をよく治め、国をよく治めようと思う者はまず一家を整える。一家を整えたいと思う者はまず己の心を正しくし、身、道徳を修める」というものである。「大学」は朱子学で最初に学ぶ基本思想であるが(他に「中庸」「論語」「孟子」の三書が必須教典)、方谷は「大学」で学んだ事をそのまま言ったのだろう。しかし、その志は生涯変わらないものとなる。

 また、高梁市のサイトの「山田方谷を語る 二 丸川松隠に学ぶ」によれば、朱子学のみならず歴史や漢詩の勉強もし、13歳の時には三国志の諸葛亮(孔明)を詠んだ詩を作ったという。漢詩の出来や書の見事さは感嘆すべきもので、松隠の娘婿の丸川竜達が衝立にして回陽熟の玄関に置いていた。これが後に、方谷の高弟となり、藩政改革や藩、幕府外交を補佐する事になる二松学舎大学の祖三島中洲が方谷を知るきっかけとなったという。

 文政元年(1818年)年八月、方谷が14歳の時であるが、母・梶が歳40で逝去した。五朗吉も梶も働き者で当時の美徳である質素倹約を尊び、奉公人と同じ食事を摂り、早朝から深夜まで働いていたが、おそらくそれ故に40歳で逝去したと考えられる。過労がたたったのだろう。ちなみに、丸川松隠は天保2年8月4日(1831年9月9日)に73歳で病没する。

この時、方谷は回陽塾で寄宿生活を送っていたが、梶が逝去する十日前、病状の深刻さを聞いて六里(24km)を歩いて帰宅した。しかしながら、教育熱心な梶は方谷に「学業を途中で投げ出すような事をしてはなりません。急いで先生の元に帰るように」と厳しく叱った。方谷は枕元で泣きじゃくっていたが、梶は最後まで方谷と山田家を思い決然として方谷を帰塾させたという。ちなみに、この梶の行動は「孟母断機の戒め」という孟子に関する故事に因んだものである。これは前漢末の儒者劉向の「列女伝」に載っているものだが、その主旨は、孟子が若い頃、学業半ばで家に戻って来た時、孟子の母は織っていた機(はた)の糸を断ち切って、「学業を中途で放棄する事は女の生きる道の機織りを止めるのと同じ事です」と叱って帰らせたというものである。梶も五朗吉同様に学識のあった人で、「孟母断機の戒め」を実践する事で方谷に自分の亡き後の山田家の事を託したのであった。

しかしながら、14歳の方谷の方は梶の亡き後、ショックでしばらく悲嘆に暮れていた。その結果、回陽塾での勉学が疎かになったらしい。心配した丸川松隠は方谷を呼んだ。そして、「お前は一生の心のすわりをどのように心得ているのか」と問い、両親のこれまでの苦労を話して聞かせたという。松隠から教戒を受けた方谷であるが、おかげで奮起する事ができ、決意の漢詩を作って松隠に見せた。「述懐」という題名で、松隠の教戒を受けて心境を綴ったものである。

「述懐」
父は私を生み 母は私を育ててくださり
天は私を覆い 地は私を載せている
私は男児である よく考えなければならない
ぼんやりとして 草木とともに枯れてはならない
世の中を救う仕事は成しがたく
年月の流れ去るのは早いものだ
私が柱を背にもたれかかって深い物思いの中で苦しみうめいていると
私を知る人は 深く考え過ぎるという
流水はとどまることなく人は老いやすい
私の胸はふさがって 鬱々としている
父母の恩と天地の恵みというのは限りがない
いつになったらこの恩に報いることができるのだろうか

漢詩を読んだ松隠は方谷の詩を添削した上、「陽気発するところ、金石また透る、精神一到何事か成らざらん(思う念力岩をも通す、精神一到して努めれば何事も出来ない事はない)」と朱子の言葉を加筆して激励した。方谷は感激し、以来、師からもらったこの書を書院に掲げて拝んだという。

しかしながら、翌年の文政2年(1819年)の七月、二度目の不幸が方谷を襲う事となった。今度は父・五朗吉が病死する事になったのである。享年、40歳であった。梶と同じである。

五朗吉は梶亡き後、5歳の次男平人を抱えながら家業を続ける事に疲労困憊しており、家業を縮小せざるを得なくなったのか、経済的にも困っていたらしい。そもそも、農業の傍ら菜種油の製造や営業を行うのは非常に重労働で、梶を亡くした後一人で経営するには無理があった。そして、方谷に家業を継がせようかと思い悩み、松隠に相談の書簡を出してしていた。それに対して松隠は、「(以下、書簡の抜粋)今二の足を踏んでは、これまでの丹精が無駄になってしまいます。「孟母断機の教え」を実践された亡き母上の願いもあります。今一段の土台が出来ましたなら、大坂へも遊学させたいとも思ってりますので、どうかじっくりと熟考下さい。衣食の事など御心配無用です」と返信した。松隠は要するに、梶が「孟母断機の教え」を実践したからには、大坂への遊学費はもちろん、生活費の面倒も見るので方谷に学問を続けさせたいと書いているが、方谷の将来をよほど期待していたのだろう。また、松隠なりに山田家の事を深く思ってアドバイスした事が解る。

松隠からの返信を読んだ五朗吉であるが、結局、家業を続ける事を決心した。そして、梶の実家の西谷家から近という後妻を娶って、方谷が出来る限り勉学を続けられるようなんとか取り計らった。しかし、その後すぐに病死する事になるので、かなり無理をしたと考えられる。五朗吉は亡くなる前に松隠に遺書を書いた。そして、方谷の将来の事や遺産整理の事などを依頼した。遺書によれば、遺産の3分の1は方谷の学費として松隠に与えられ、家業は近と五朗吉の弟辰蔵が継ぐ事が書かれてあったが、自分の亡き後も方谷に松隠から学問を学べるよう処置しておいたのである。しかしながら、辰蔵は病弱で翌文政三年(1820年)には重労働の家業が続けられなくなってしまう。その結果、親族が協議し、方谷が回陽塾を辞めて家業を継ぐ事に決定される。松隠は五朗吉の遺志や山田家の将来を考え、出来る限り方谷に学問を続けさせるつもりであったが、山田家の現状を考えるといかんともしがたい事であった。

この時期は方谷にとって苦難と悲しみの時期だったと言ってよい。五朗吉も梶も方谷に英才教育を施したが、決して裕福な環境にあった訳ではなかったのである。しかし、二度の不幸に見舞われた方谷はむしろ強くなっていた。方谷は家業経営から多くを学び、後の藩政改革において武士では決して発想出来ないアイデアを生み出すための経済学を独自に体得する事になるのである。ちなみに、思慮深い五朗吉は方谷が家業を継ぐ可能性も考え、家業と学問を両立させるための「訓戒十三箇条」を書き残していた。次の通りである。

一、母への孝養をつくして昼夜怠らぬこと。
一、弟の教育に油断しないこと。
一、朝は六時に起き、その日やらなければならない仕事を検討し、仕事を終えたら自分の修行を怠らないこと。
一、夜は一〇時に床に就き、学問修行と家の仕事のほかに、無駄な夜更しはしないこと。
一、先祖をうやまい、祭典を怠らないこと。
一、勤倹質素を守り、家庭を安らかにし、また米穀や銀子の出し入れに関して、酷薄な計らいをしないこと。
一、容姿はきちんと整え、言語はまじめで嘘をつかずに、徳をつみ、行ないに励むこと。
一、飲食、衣服、器具などの無益な趣味に心を用いないこと。

一、賭博やみだらな歌や酒宴遊興などの戯事に無駄なお金を使わないこと。男女のあいまいな間柄には、とくに警戒すること。
一、悪友と交遊し、利益に誘われ、欲に心をくらまさぬこと。
一、郷里に困窮した人や病人がいれば、心を込めて尋ね、交情を篤くして睦みあう心がけを忘れないこと。
一、家の内外の掃除や家屋の破損に心を配り、火のもとに油断しないこと。
右一三箇条をかたく守り、家政を整え、慈母への孝養と幼弟の撫育とに専心し、孔子の教えを宗とし、先賢の志に従い、学業の道に怠ることなく日夜励むこと。

文政3年(1820年)、16歳の方谷は家業を継ぐために西方村に帰って来た。そして、翌文政4年(1821年)には新見藩士若原氏の16歳の娘・進と結婚し、後年「両親を失い、10年間は鋤鍬と算盤のみ手に取り、農業や商業に奔走し・・・」(「石川又二郎宛書簡」)と回想する生活を送る事になる。この様な多忙の中、学問も独学で続けたというから正に苦学と言って良い。妻進と継母近と力を合わせて家業経営を行ったのであるが、長年経営に携わり家業に精通していた五朗吉と梶をほぼ同時に失ったので、18歳までは一刻も早く熟達するために菜種の仕入れ方、油の製造方法、営業手法の研究に没頭した。その上、五朗吉の訓戒を守り近隣の人々と誠実に交際したので、「安五郎さん」と親しまれるまで信用を得たという。その努力はすぐに結実する事になる。文政6年(1823年)、19歳の時には「先生すこぶる家業に詳しく、日にはかりを操りて農民商人と交わる。後年一藩財利の権を握り、ずるい役人や商人のごまかしを受けざりしものは、この素養ありしによる」(「山田方谷全集」)というレベルにまで達する事を得たという。ちなみに、会津藩士で会津藩の外交を担い、維新後は教育者となった秋月悌次郎(韋軒)も後に方谷と議論した結果、家業経営の経験こそ藩政改革成功の要だと知ったと感嘆を以て述べている。以下の通りである。「議論が風発して、一々肯綮(物事の急所、かなめ)に当る。その中でも一番感じたのは、布帛や米穀は勿論のこと茄子や胡瓜のその時の値段まで口にして意見を立てる。それによって方谷の実務に精通した偉器だということを知ったし、その松山藩政に実効を奏したのは、陽明学ではなく、むしろ方谷の茄子や胡瓜の値段までも心得ている結果であったということを知った」。

また、方谷は学業も疎かにしなった。家業が終わると深夜まで勉強していたという。元々方谷は神童の聞こえが高かったので、その篤学の評判は早くから四方に広まり、文政八年(1825年)12月、21歳の時に松山藩主板倉勝職の耳に入った。そして、勝職から「農商の身にて文学心がけよろしき旨を聞き、二人扶持(一日に玄米1升(年間約500キロ)が支給される)をくだしおく。これより、おりおりは学問所(藩校有終館)に出頭し、なおこの上とも修業し、ご用に立つよう申しつける」との沙汰を賜わる事になった。五朗吉が既に勝職から御目見格の扱いを受けていたが、方谷はこの命によって士分格になったと言って良い。五朗吉の家名再興の宿望がより現実のものになったのである。当然ながら、方谷の親族達は大いに喜んだ。そして、これを本格的に家名再興のチャンスと捉えて方谷を時々家業から外し、京都に数度に渡って遊学をさせる事にした。二人扶持は遊学のための奨学金でもあったからである。

最初の京都留学は文政10年(1827年)、二十三歳の時であった。師は当時朱子学者として名のあった九条家の家司寺島白鹿で、期間は同年春から年末までである。丸川松隠の勧めだったという。松隠は元々中井竹山に学ばさせたかったのだが、この時既に没していたので、竹山に学ぶ前の京都遊学中知己となった寺島白鹿を推薦したのではないかという。出発に際して、松隠は「斯文の淵源(儒学の根源)探り求めて帰る事を期待する」という遊学中の課題を漢詩にして方谷に送っている。

方谷は他にも藩主の勧めで当時名声の高かった鈴木憮泉の門にも学んだ。鈴木憮泉は山崎闇斎、浅見絅斎の学ー崎門学ーを奉じる西依成斎の門人で、崎門学派の朱子学を講じたが、崎門学とは水戸学、国学と共に幕末の尊王思想に影響を与えた朱子学である。湯武放伐(中国史においてー特に殷の湯王、周の武王の故事を指す、次の天子となるべき有徳の諸侯などが、無道な暴君や暗君を天下のために、討伐して都から追放するという行為)を否定し、武力で豊臣家から政権を奪い取った徳川幕府の権力は天皇の裁可によって正当化されるという主義を取るものである。また、山崎闇斎は門弟に詩文をたしなむ事を禁じ、教科書も朱熹(朱子)の「四書集註」、朱熹、呂祖謙の撰になる宋代哲学の綱要ともいうべき「近思録」等に限定して、朱子の精神を叩き込むという朱子以上に朱子的な朱子学を教えた。一方で、山崎闇斎は朱子の理気の説で神道を解釈し、神道と儒教を結合した「垂加神道」も創っている。

方谷はこの鈴木憮泉の塾で春日潜庵と学友となった。春日潜庵は後に公卿久我家の諸大夫となり、梁川星巌(漢詩人)、梅田雲浜(崎門学者)ら尊王攘夷志士と共に三条実万、近衛忠煕、鷹司輔煕、久我建通ら公卿を補佐し、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結した幕府と対立した結果、大老井伊直弼の安政の大獄によって弾圧される事になる。春日潜庵は方谷と同様、高名な陽明学者にもなるが、鈴木憮泉の門弟でありながら陽明学を学んでいたという。

また、方谷はこの遊学中に松隠から出された課題を解くのに非常に悩み、蘭渓禅師という人物の下を訪れている。そして、座禅にふけったが、方谷は禅理に通じていた事でも知られている。方谷が禅に興味を持つようになったのはこの禅師との出会いがきっかけだったかも知れない。

一回目の京都遊学から帰って来たのは、先述した様に文政10年(1827年)の末であった。翌文政11年(1828年)は方谷がいなくなって家業に支障が出ていたのか家業経営に没頭する事になるが、方谷は京都遊学を「家をすて、身を忘れ、家業をかえりみず、慈母(近)の恩に背き、妻子の愛を投げ捨てて」(三度目の京都遊学中に弟平人に送った書簡の一部)まで行ったと言っている。しかし、方谷が学問に励む理由は「亡き父の遺志を継がねばならず、藩主の恩にも報いなければならず、まことにやむにやまれない」(同前)事だったから、家業経営を行いながら藩校有終館に通い、学問も同時に研鑽せねばならなかった。とはいえ、利益と名誉を追求する家業経営と学問の両立は儒学の性質からなかなか困難だった。一回目の留学中に松隠から出された課題が解けなかった事もあり、学問に専念する必要を切に思いながら多忙な日々を送っていたが、やがて二度目の京都遊学を決心する。そして、文政12年(1829年)3月23日、再び師の寺島白鹿の許へ出発した。九月までの留学である。

二度目の遊学では勉学がかなり進んだようで、五月に方谷は松隠に宛てて課題に対する回答を中心とした書簡を送った。ちなみに、この書簡は若き日の方谷の精神を知る上で貴重なものとされている。

まず、松隠の出した課題「斯文の淵源(儒学の根源)を探り求める」に対する方谷の答えであるが、「天人の理を究め、性命の源に達し大賢君子の境地にまでのぼる」事によって初めて出来るという自覚に到達したという。「天人の理を究め、性命の源に達」するというのは儒学(朱子学)の最高の目標である。そして、そこに学問の道を定めたという。他にも以下の事を綴っている。

「道が明らかでなく、徳が進まないのは、気質が邪魔しているのであり、次に人欲が邪魔しているのです。ですから、学問をする者は、まず気質を変化させる事から始めなければなりません。球(方谷の諱)の気質が暗昧柔懦(物事に暗く愚かで、気が弱く意気地のないこと)であることを、父母はとても心配していました。幼い頃より先生の門に入り、誦読(そらんじて声に出して読むこと)がある程度出来る様になった頃、父母を亡くすという不幸に会い、それ以来、俗人と交わり、名誉と利益を追求して来ました。そのため、暗昧は暗昧のまま、柔懦は柔懦のままとなっています。この気質を変化させるためには、家業をいったん止めて考えを整理して深めること、書を読み先人に学んで実践することにこした事はありません。というわけで、再び京都に来て師に着き、四書五経の理解に力を入れて、常に実践しようと努めているのです」。

方谷がいかに家業経営と学問の両立に苦悩していたか分かる。四書五経の理解と実践によって方谷が変えようとした気質は高明剛毅な気質であったが、鋤鍬と算盤を手に取り、農業や商業に奔走して名誉と利益を追求する家業経営の中で「天人の理を究め、性命の源に達し大賢君子の境地にまでのぼる」事がいかに相矛盾する事だったのか容易に想像出来るだろう。それゆえ、方谷は家業をいったん止めて京都に遊学したのであった。文武両道の志の厚い方谷はこの年弓も学んだが、これも気質を変えるための行動だったのではないかと思われる。ちなみに、方谷は後の藩政改革において家業経営で培った経験や知識、見識と儒学の道で到達した境地で得た徳や政治哲学を深いレベルで融合して成功させる事になる。一見、相矛盾すると思われる事でも、より高次元で止揚出来るという事を方谷の藩政改革から学ぶ事が出来る。

文政12年(1829年)9月、遊学から帰国した方谷は12月23日、藩主勝職より名字・帯刀を許される事となった。京都遊学の努力が実り、正式に松山藩士に列せられて、遂に五朗吉の遺志であった家名再興を果たしたのである。その上、同月28日には八人扶持で中小姓格を賜り、藩校有終館の会頭を命じられた。藩校には学頭(校長)、会頭(校務主任ー教頭格)、句読師、助教等の教職があったが、いきなり教頭格になったのである。歳24歳であった。藩主の恩に報いたと言って良いが、藩校有終館の会頭になってからの仕事こそが真の義務であった。

翌天保元年(1830年)年六月であるが、方谷は城下本丁に邸宅を賜った。そして、12月には有終館会頭を辞職するが、これは京都や江戸に遊学するためだったらしい。しかしながら、翌天保2年(1831年)、三度目の遊学を計画していたちょうどその時の2月10日、その邸宅が火事になってしまうという事件が起きた。この火事は方谷が賜った邸宅のみならず、藩校有終館を焼いた後、松山城下までも延焼させる事となった。この火事で方谷は家財と蔵書の全てを焼失させてしまう。この火事の際、方谷は城下本丁の邸宅にはおらず、西方村の実家にいた。一説には妻の進が方谷の遊学を止めさせようと放火した可能性もあるという。この頃の進は年々ヒステリックになっていたというからである。

蔵書の全てを失ったのは非常に深刻な事であった。しかしながら、「天人の理を究め、性命の源に達し大賢君子の境地にまで」のぼろうと志している方谷の思考は全く建設的であった。京都の師の寺島白鹿に次の要旨の書簡を送っている。「幼い頃から文事に専念してきたのですが、10余年の業績がいまや灰燼となってしまいました。天意とは申せ、実にみじめなものです。ですが、存亡得失は世のつねです。すばらしい彫刻作品や篆刻(書画の落款印など、実用以外の趣味的な印を彫ること。とくに職人に任せず、文人墨客が自分でやることをいう)の技術であっても、時が来れば滅びるのです。惜しんでくよくよすることなどないのです。天は、私の事業の陳腐さを嫌って、事業を一新させようとしたのかもしれません。いまこそ奮起して、旧染(古くからしみ込んでいる慣習)による汚れを一洗し、高く一つの方法を打ち出して、天意に答えなければなりません」。

城下町まで延焼させた方谷であるが、藩から城下町の松連寺という寺で30日の謹慎を申し渡された。この刑について適当かどうかであるが、「江戸の火事と火消」(山本純美著)によれば、「地方凡例録」によると「自火の場合、多くは禁固刑で、寺で謹慎といった形がとられている」、しかし、「その失火については代官、勘定奉行の酌量の余地があったらしく、この量刑が必ず行われていたわけではない」、「延焼の範囲でみると、寺社門前では10間以上は江戸へ報告し、その火元は3日間押込、延焼間口10~50間は10日、50~100間は20日、100間以上は30日と重くなるが、あまり厳密ではなかった。小さい火事なら火元は自分で寺に入って謹慎し、焼け跡に小屋掛けなどができれば寺を出てこられた」、「こうした出火についての各地の規程には、町奉行、地方についての勘定奉行、寺社奉行などで統一性はなかった」という。方谷の場合、江戸では自火に該当し、30日の謹慎というからには100間(約182m)以上延焼の扱いで自火としては重かった、つまり刑として適当だったといっていい。

謹慎が解けた天保2年(1831年)七月であるが、方谷は藩から2年間の遊学の許可を得た。そして、京都の師である寺島白鹿と鈴木憮泉の許へ三度目の留学に出立したが、八月、再び不幸が起きる。丸川松隠が74歳で逝去したのである。松隠は火事の時も方谷に一片の詩を添えた書簡を送り、「易経」乾卦の「亢竜有悔(最も高いところに昇りつめた竜は、これ以上昇ることができず、後は落ちることしかできないので、その後のことを考えて慎みを持っておくべきという)」を引用して、「くよくよしないように」と励ましていた。方谷が寺島白鹿に前向きな書簡を送れたのも、松隠の訓戒が少なからず影響を与えたからと言える。松隠が年だったとはいえ、方谷の悲しみは切実だった事だったろう。

方谷は鈴木憮泉の門で元岡山藩士の馬来南城、富松萬山、春日潜庵、立誠堂を開塾していた相馬九方らと親交を深めていたが、日出藩(豊後国速見郡日出2万5000石木下家)の儒学者帆足萬里の門人小川弘蔵と出会った事で転機が訪れる。遊学前後から朱子学に満足出来ず、暗中模索していた方谷は萬里の著書を読んで「読むごとに非常にびっくりして、もっともだと感じ入って、思わず机をたたいて、すばらしいとほめたものだ」と感嘆したという。ちなみに、帆足萬里は江戸後期を代表する儒学者だったが、同時に理学者(自然科学者)でもあった。この頃、日出藩家老となって藩政改革に従事していたが、儒学者であった帆足萬里が蘭学を通じて本格的に自然科学を学ぶようになったのは文政年間(1818年~1830年)からである。40歳代だった萬里は藤林普山の「訳鍵」を手に入れてオランダ語を修得し、ヨーロッパの天文学書や自然科学入門書、医学書などを読んで、その紹介とともに批判や独自の見解も加えた没後刊行の「窮理通」全八巻を著す事となる。明治維新の後であるが、オランダのグイド・フルベッキが「窮理通」の説を聞いて江戸時代の科学の進んでいたことに驚いたという。その他、国学、仏典にも通じていたが、天保15年(1844年)には王室・覇府・諸侯の三編よりなる、幕藩体制に関する諸改革案を論じた「東潜夫論」を著し、医学でも漢方と洋方の折衷論を述べた「医学啓蒙」を弘化3年(1846年)に著している。

方谷は小川弘蔵を通じて藩政改革を行っていた帆足萬里から書簡で教えを請うたものの、返事は来なかったようである。しかしながら、萬里の書を読んだ方谷は「知行合一」の命題を持つ陽明学を志すきっかけとなったという。

一応、帆足萬里の藩政改革について触れておくが、その前にこの時期の幕府の経済問題や諸藩の財政問題について記しておく。江戸時代の幕藩体制は「米本位制」である「石高制」を経済的、政治的原則としていたが、「石高制」は年貢を米で徴収し、それを売却して現金に換える事で成り立っていた。しかし、米価は江戸時代を通じてほぼ一定、1石1両前後(0.5~1.5)で推移していたにも関わらず、この頃の諸色(米を除いた食物や日常品)の価格は高騰して米の実質価格は下落していた。「耕地面積の拡大」や「新しい農機具の開発」、「農業技術の発達」などの要因によって農業の生産性が飛躍的に向上し、農民一人当たりの収入が増えたために、米だけじゃなく様々な生活必需品以外の品物を買うようになったからである。このニーズに応えるために、物流を担う海運業も飛躍的に発展したが、幕藩体制を支える石高制は米価の相対的下落によって屋台骨が揺らぐ事となった。諸藩の状況はより深刻で、江戸藩邸の維持や参勤交代が武家諸法度で義務付けられていた上、天災による凶作や大火などが頻繁に発生して年貢米の削減や歳出がかさみ、幕府からの手伝普請を請け負う事もあったからほとんどの藩は財政破綻していた。それゆえ、江戸時代中後期以降はどこの藩も藩政改革が急務となっていたのである。

さて、帆足萬里の藩政改革についてであるが、天保3年(1832年)から同6年(1835年)2月のたったの3年弱に過ぎなかった。改革を進めている内に特に老輩からの反発にあい、政策を提示しても協力しなくなったからだという。こういう反動は改革者が必ず遭遇する事で、それだけ組織の旧弊を変革して新しい方針に適応させるという事が困難だという事だが、それでも萬里は一応の成果は出している。天保五年正月の段階で藩の倉庫には米2629石、大豆937石(専売制を取っていた)、金290両、藩札20貫700匁の余剰が出来ていたという。

萬里が家老に就任した時の日出藩であるが、綱紀が退廃し、参勤交代のための費用はもとより、藩士への扶持米にすら窮する状態であった。よって、萬里はまず財政を整理し、その後諸般の宿弊を取り除くという方針を立てた。そして、役所から倉庫の諸帳簿を自宅に運ばせ、公務が終わった後に詳細に調べ上げた。これにより、役人達の不正経理がことごとく発覚したため、執政以下の家老に責任を問うてほとんどを退役させて、関わった役人達も同様に罷免、更迭させるという果断な処置を取った。そして、藩士中の自分の門人の中でも才幹のある者を要職に付けた上、役人達の信賞必罰を徹底させた。日出藩も財政破綻してギリギリの状態であったから、財政再建までは萬里の改革に委ねざるを得なかったのだろう。腐敗した役人達を一掃した後は、節倹の諭を藩内に下し、家禄はもちろん衣服、飲食、音信、贈答の細かい事に至るまで制限して、士民に質素倹約の風土を養わさせようとた。萬里の藩政改革の方針は松平定信の寛政の改革の影響を受けた「緊縮財政」による「財政健全化策」であるが、天保12年に始まる水野忠邦の天保の改革も帆足萬里の改革と同様の政策を行っている。ちなみに、山田方谷の藩政改革は領内経済を成長させ、領民を豊かにする事によって財政再建を行う事になるが、家老始め藩中に質素倹約を命じた事は一緒である。財政難の要因の一つに武士達が平和の世の中に馴れ奢侈に流れた事があったから、財政再建のために扶持米を削って質素倹約を行うというのはどこの藩も同じであった。

萬里は節倹の方策を1年、翌天保4年(1834年)まで続けたと思うが、歳計は歳出の方が多く財政赤字は未だ解消されなかった。「思うが」と書いたのは、史料(「大分偉人伝」大分県教育会編)に詳しく年が書かれていないが、藩政改革の3年弱の間に財政収支が合わず、更なる改革を打ち出す年があったからで、天保5年(1835年)には財政赤字が解消されるのでその年は天保4年と推理したからである。財政赤字が未だ解消されていない事を知った萬里は更に支出を切り詰め、一切の遊戯を厳しく禁じた。その結果、天保5年(1835年)には財政収支が好転するのである。財政問題が解決した後であるが、萬里は窮民救済の制度を作らせるために各町村に勧誘し、基金を作らせようと

 

大分県六大偉人綜合年譜46

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 方谷はこの時15歳。5歳で丸川松陰の門に入り、9歳の時には四書五経の大学を治めていたが、家業を継ぐべき叔父が虚弱だったために、21歳まで家業に専念する事になった。しかし、学問の道も諦めず、家業が終わると深夜まで勉強していたという。後述するが、この家業の経営の経験が方谷が備中松山藩の藩政改革を行った際に活きる事となる。
方谷は当時の士分の改革者のほとんどが倹約中心の改革に縛られていた常識を覆して藩札の刷新や殖産興業と言う現代の経済政策にも通じる改革を行う事になるが、この様な発想が出来たのは、家業の経営を通じて経済産業に精通する事が出来たからだろう。

 家業を継いだ方谷であるが、父・五朗吉は学識もありそれ故、方谷の家業経営の信用が上がるにつれてその学識の高さも評判となると、やがて藩主勝職の耳に入る事となった。
 方谷の令聞を聞いた勝職であるが、方谷の志を誉めて二人扶持を与え表彰した。士分ではないものの、士分の扱いになったと言ってよい。父・五朗吉の地道な努力が実を結んだのである。
 当然ながら、方谷の親族達は大いに喜んでこれを本格的に家名再興のチャンスと捉えた。そして、方谷を家業から外し、学業に専念させるために京都に数度に渡って留学をさせる事に。京都では公卿九条家の家士で儒学者の寺島白鹿に学んだが、文政12年(1829年)に帰郷すると、板倉勝職は正式に方谷を登用する事に決し、名字帯刀を許して八人扶持とした上、藩校有終館会頭を命じた。藩校には学頭(校長)、会頭(校務主任ー教頭格)、句読師、助教等の教職があったが、方谷はれっきとした藩士になったのみならず、いきなり藩校の教頭格に任命されたのである。歳24歳の時である。勝職がよほど期待をかけたと思いたい所だが、勝職は癇癖持ちで酒乱で藩政にろくに興味を持たず、藩財政を悪化させた人物として伝わるので、

これで方谷は山田家代々の念願だった家名再興を実現させた訳だが、方谷は出世よりも純粋に学究を動機として学問に情熱を注いでおり、その後も留学を重ね、京都だけではなく江戸にも行き、幕府の昌平坂学問所の儒官佐藤一斎の塾に入門した。
一斎塾では後に藩主真田幸貫に命じられて「海防八策」を著し、洋学の第一人者として勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、坂本龍馬など多くの開明派志士達を生んだ松代藩士佐久間象山と共に塾頭になったが、象山の性格が傲慢で狷介だったために、仲は良くなかったようである。
後年、方谷の最も有名な弟子で、越後長岡藩の藩政、軍制改革を行い、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍として数に勝る新政府軍を大いに苦しめて幕末史に英名を残す事となる河井継之助が山田方谷に弟子入りした際、象山に関する談話の中で、確執の理由を封建の世では雇われるのが宿命なのに、象山には「温良恭倹譲」の一字がないと語っている。河井継之助も同様に佐久間象山とは反りが合わなかったらしい。佐久間象山という人物は

さて、昌平坂学問所では朱子学以外は教えてはならなかったが、佐藤一斎の見識は陽明学にも及んでおり、陽明学も若干教えていた。それが山田方谷の思想に強い影響を与えた。
方谷は王陽明の「伝習録」を中心に、大塩平八郎の乱で有名な陽明学者大塩平八郎の著した「洗心洞箚記」も愛読していたようである。この陽明学こそが山田方谷の改革の原動力となったのだが、陽明学について若干説明したい。

陽明学は南宋時代に出来た朱子学が、明代に支配イデオロギーに変化しつつあった
事に対する、原点回帰とアンチテーゼとして王陽明が唱えたもので、思想的特徴に
「心即理」「至良知」「知行合一」という概念がある。「心即理」とは朱子学の
「性即理」という概念に対する反論である。朱子学は孟子の性善説を採用していて、
心を「性」と「情」に分別し、「性」とは天が付与した純粋な善性であり、「情」とは
感情によって私欲等に変化する心の動きとした。「理」とは事物を支配する「性」、
「情」の上位概念で、朱子は「性」即ち天賦の善性のみを「理」とし、そして、「理」の
概念は、人に内在する「性」だけでなく、外界全ての事物も「性」を持つと言っている。
これが朱子学の「性即理」である。

これに対して王陽明は、性・情合わせた心そのものが理に他ならないと唱えた。
心の内にある性(理)を完成させるためには、外的な事物にある理を参照する必要はなく、
天賦の善性ある「性」と感情によって移ろい易い「情」の合わさった心を、本来、
万人に備わっている良知へと磨き、それに従えば良いという物で、これは朱子学の概念の
「理」に含まれる外的権威の経書や政治的権威まで否定する危険性を孕んだものであった。

「致良知」とは本来、万人に宿っている天賦の善性である「性」、「情」を私欲によって
曇らせず、孟子が言う所の万人が天賦にして持っている善悪、是非の判断能力「良知」へと
磨く事を言う。良知に従う限り、外界に存在する既成の善悪の観念に束縛されず、その行動は
善となるというもので、良知とは何かを知る事でもある。

「大学」にある「格物致知」の解釈を朱子学では「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、
外界に存在する理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を以て物事の善悪を判断すると
したのに対し、陽明学は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として外界にある「理」は
全て「性」、「情」の合わさった心にあり、それを正すことによって知を致す、すなわち
「良知を致す」事によって「理」と合致させると解釈した。

「知行合一」とは朱子学における「知先知後」に対するアンチテーゼであり、
「知(良知)」とは認識を言い、「行」とは実践を指す。心の外に理を認めない陽明学
は経書等の外的知識によって理を悟るのではなく、先天的に万人に宿っている良知に
従うのであるから認識と実践とは不可分と考える。例えば、美しい花を見て(知)、
美しいと思った(行)時は認識と実践は一体となっている。ここから発展させて、
道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであるから、
もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、
とする。

後年の方谷の藩政改革において、陽明学がどの様に発揮されたであろうか。
知行合一の思想通り、藩校有終館学頭として知識を藩士に教授していただけではなく、
リスクをおかして藩宰相となり藩政改革を実行したという事や、儒教で育成された
武士階級が商人には課税もしなかったほど商工業を嫌っていた時代にも関わらず、
方谷はそのような固定観念を無視して、商工業を取り入れた改革を重点として
推進した事にあると思う。 

また、陽明学というのは、「致良知」や「知行合一」の教えによって、過激な行動な
行動を取らせる事が多く、時にそれが不毛としか言えない結果をもたらす事があるようだ。
大塩平八郎や吉田松陰は熱烈な陽明学徒であったが、その行動と死は一見すると非常に
無謀だった様に思える。しかしながら、彼らの行動は多くのフォロワーを作り出し、
尋常でない影響を与えた。陽明学は、いわゆるカリスマ的リーダーシップを作り出すのである。

ただし、優れた知性や判断力、及び成熟した人格を持っていないと、その行動は本当に
無駄で終わる危険性があり、方谷は陽明学のこの欠点を熟知していた。そのため、方谷は
朱子学も同時に尊重し、その事によってむしろ、陽明学を活かす事が出来たのである。
方谷が藩政改革を実現させ、幕末維新の混乱の中で備中松山藩のかじ取りをうまく行えた
のは、陽明学の欠点を克服したからに他ならない。陽明学の欠点を克服した事で、領民から
神の様に慕われ、備中聖人と言われる様なカリスマ的リーダーシップを発揮する事が
出来たのである。



続く
日本のケインズ山田方谷という人物。2
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/6d3e9e0d59e4fa4b9330efe2e3043ddc




※なお、私は元々一サラリーマンで実家は庶民レベルに過ぎませんが、
なぜ、少なくとも政治家や自衛隊の三佐で統合幕僚学校候補くらいの
人間を狙わないのでしょうか?「やりにくいから出来ない」。
それが集団ストーカー・電磁波テロの何たるかであって、真相です。
つまり、無差別テロだからです。無差別テロであれば、猟奇殺人鬼達が
やり易く、「むかつくカモ」だと思える者が狙われます。




<層化の裏に共産圏関連過去記事>
鬱陶しい集団ストーカーネット工作員の印象操作について。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/eda1870e077684190aa7700eec52d45f
(取り急ぎ)創価etcの自称防犯活動と被害者統合失調症認定の謎について
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/452f4d12dedb4bcb2c0941ad5ec3ede8
池田大作のノーベル平和賞挫折とフランスでのセクト指定
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/e1aa3b7d38520d7cff774919daf6dd6b
【重要情報】前回記事でのコメントのやり取り。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/404a544444470bb3a8e50fa0693de233
中国高官が祖国を捨てる日
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/27ebe37aed68db08d884615cf035962c
電磁波兵器実在の新ソース
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/55161e4bfc1498be188725f769db3fe9
世界中で集団ストーカーを起こしている根源とは?
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/de7850fec770af6bb514da173278f0be
国防軍創設の意義について
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/26b4f9b6ceac0ceab3d6328da6ac9e10
自公政権の行方を分析
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/a7d33cd95f0390e29253956d636e03e2
韓国で集団ストーカーをドラマ化
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/c7b761c8107ad719137d745c17422141
中国共産党と創価学会との関係
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/888d6dbe4247eca562f17c6054e5ef7c
【創価学会が集団ストーカーをやっている決定的証拠】 洗脳された創価の二―ト大騒ぎ
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/62dcc73ead5e8c2fa8157ff7c6da4656
1999年に『週刊現代』に連載された高沢皓司氏の「オウムと北朝鮮の闇⑨」抜粋
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/8c6e6325adedd6c009b1a2eccb260ee4
新宿区危機管理課に防犯パトロール要員個人登録について相談
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/5862c78b5277ace9ab495a15f6248f28
オウム事件の真相と創価学会の真相(簡単なまとめ)
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/30dd614170546a9bb327499ef37675a0
池田大作死亡説ーもし死んでいたら見えてくる事
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/bbc745916f84d24c1fe002265832e199
池田大作名誉会長の講演 in USA
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/d687450ee0afa4b71b747ffc09f89bb0
集団ストーカーの犯行予告ー飯能の創価学会員桑原に読ませられた漫画
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/c7e88a50d7d93de22592b60b1e220709
取手駅通り魔事件の犯人は層化信者
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/9b501bd0273125af05077654b1e970b4
浦沢直樹氏の「MONSTER」 ー サイコパス洗脳と遺伝子工学
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/a238796701ebc6dd1075fdd3c3490d70
オウム事件で北朝鮮などの黒幕が暴かれず尻尾切りにされたカラクリ
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/31f648debbd384f3686a5018d3035e88
層化と朝鮮学校教育との類似性、ルーマニアの国旗と層化旗
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/260b5a9d82ce09854a48613ec984ac87
仏教の罪ー三業について
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/73372a5c20090b36fe8b89e05326cd31
絡まれました。 + 層化の大好きな三国志演義の計略ついて。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/17909c067d0ae2d411f6bd832359fd70
聖教新聞「寸鉄」特集とマツダ派遣社員の12人殺傷事件
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/fa285f18d69c83f4a83efd6ffe71a410
集団ストーカーテロの根源的原因ー「軍事独裁体制」
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/2a8f276ab4896331510b43c86b71e36f
ユダヤ陰謀論の目的真相と毛沢東思想、反日亡国論ーそして日本占領が成功した暁には。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/5cbec17f4180cf50ed51287316a95e03
電磁波犯罪から見える共産ファシズムーマルクスの唯物弁証法
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/ab0d2d22d2a390d7727bc637d39813bf
論考「創価学会の裏に北朝鮮」 
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/1fbe542ceddde7cc5313a3bf0eeb8fb8
層化の裏は共産圏だと思う(ユダヤ陰謀論に対する見解)。
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/7ccd46f2567c4a2bc862f122a3f0a14c
討論「日本と国際インテリジェンス戦争」ー層化は共産圏の謀略組織+統一教会が集団ストーカーを一緒にやってる事について
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/3b2e07cdd6f067896b72dbdd2901edb4
創価学会広宣部の存在と創価学会員の語った奇怪な全体主義的思想
http://blog.goo.ne.jp/green5771/e/448ad01ed3014270a7fa41a65dc6a58c


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ハングリーであれ。愚か者... | トップ | 日本のケインズ備中松山藩の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

その他、趣味、関連情報」カテゴリの最新記事