週に一回の課輔班でのバイブルタイムがないと、
こんなに気が楽なのかと、
今更ながら思う。
牧師さんたちは、
週に一回、いや週日の集会も入れると、
何回かの説教を準備していると思うと、
ホントに頭が下がります。
上の写真は私のお話ノート。
まずはパワーポイントで視覚教材を準備。
そこで使う絵をワードに小さく貼り付けコピー。
そして中国語と日本語の聖書を開き、
辞書を引きながら中国語でお話しを書いていきます。
説明調ではなくなるべく会話調に直して。
その方が子どもが楽しく聞けるから。
ストーリーの準備が終わったら、
適応の部分は少し間をおいて、
じっくり祈りつつ、
神さまの語りかけを待ちます。
その間、またパワーポイントに戻り、
組み立てたお話しに合わせて調整。
地図を足したり、
当時の服装や建物、風景などを入れたり、
必要に合わせて文字も入れます。
絵が動くようにすると子どもが喜ぶ。
そして最後に暗唱聖句。
あとは、ひたすら原稿とにらめっこ。
お話しの時は原稿は見ないので、
ほとんど暗記します。
そんな風に反芻する中で、
まず自分がいろいろ気づきが与えられ、
子どもたちに語りたいメッセージも決まってきます。
こんなたどたどしい中国語ではなく、
日本語で語れたらもっと…。
という思いはいつもありますが、
日本語だったらこんなに準備に時間はかけないし、
子どものお話で、
こんなにみことばを反芻することもない。
それに母語だと自由に話せる分、
余分なことを話す可能性も出てくるし。
神さまとしては、
不自由な中国語で子どもに語る私の方が、
神さまのみ旨を伝える器としては、
使いやすいのでは…、
と勝手に思うことにしているけど、
どうなんだろう?
『わたしの恵みは、あなたに十分である。
というのは、
わたしの力は、
弱さのうちに完全に現われるからである。』
コリント人への手紙第二 12章9節