牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

牛頭天王への期待

2010-10-07 10:16:31 | 日記
 原始時代、または古代において、世界中の多くの人々が樹木をあがめたり蛇を敬ったりしていたことは、遺跡やそこか出土するものによって、証明されているといっていいでしょう。
 日本においても、縄文式土器の中には蛇像が飾られている場合があります。縄文式土器でいうところの「縄」は木の皮からつくられました。縄を土器の模様にしたのは、縄・土器は神様がもたらしてくれた能力によってできたものだから、神様に感謝しなくてはならないという感謝の気持ちからだと思います。竪穴式住居は木と縄から造りました。縄文人は、建材・食糧などの山の恵みの要に蛇が存在していることを、生活体験をとおして把握していたのでしょう。縄文信仰は「蛇木」を重視した信仰だったと思われます。
 イザナキノミコトとイザナミノミコトという『古事記』に描かれている日本最初の男女の神は、「いざな気」と「いざな身」と、「心身」として理解している研究者が多いと思いますが、わたし個人としては、「いざな木」と「いざな未(蛇)」の「木蛇」と思っています。ヤマト族は、「先住民」の信仰を利用して、自らの氏神信仰の傘下に入れて支配権を強めていこうとしたと思うのですが・・・・・。
 以前にも書きましたが、吉野裕子説に沿って、蛇の古語が「カカ」で、「ハハ」はその変形とすると、「ハハキ国=伯耆国」で、出雲の隣の国、伯耆の国は「蛇木信仰」の国だったと思われます。出雲もその隣の石見(いわみ)も、「ハハキ(蛇木)信仰」の国だったのでしょう。いや、弥生時代の初期まで、日本列島の多くの地域が「ハハキ信仰」だったと思われます。その中心地域が山陰の「出雲国」「伯耆国」「石見国」で、その中でも出雲は代表だったのでしょう。そして、日本列島の多くの地域では「ズーズー弁」に近い発音をしていたのでしょう。
 今、2010年の10月。旧暦ではありませんが、「神無月」と言います。日本の八百万の神々が出雲に集うのです。ですから、出雲にとっては「神在月」となります。なぜ、八百万の神はアマテラスオオミカミが天の岩戸にこもってしまった時のように、高天原に行かないのでしょうか。高天原はヤマト族の「観念」でしかないからです。出雲こそが日本の八百万の神の本当の「聖地」だったからです。
 出雲国は、ヤマト族に最後まで屈せず、伯耆国・石見国がヤマト側に屈した後も独立を保っていたのでしょう。戦争は長期戦になったと思われます。しかし、最後は出雲国はヤマト側に敗れ、「国譲り」となったのでしょう。持久戦のおかげで、出雲地方だけが関西弁でなく、「先住民」の言葉「東北弁に近い発音」を残したと思われます。ヤマト族から見れば「みちのく」の東北も、支配権力が届きにくく、「先住民」の言葉が残った地域と思われます。
 そこに注目して、松本清張は小説を書きました。犯人といっしょにいて殺された者は東北弁である町の名前を言っていました。刑事は東北のその町に行きました。しかし、手がかりはつかめませんでした。刑事は、東北弁に近い言語は東北だけでなく出雲にもあることを知りました。そして、犯人を追いつめていきます。立身出世した犯人の少年時代の厳しい過去が明らかになってきます。『砂の器』というタイトルの小説です。
 話を戻して、出雲国では良質の砂鉄がとれました。以前このブログに書きましたが、「スサノヲ一族」は、その砂鉄を利用して、武器・工具・農機具などをつくっていた一族で、恐らく帰化人と考えていいでしょう。
「山(木々)と蛇」の結びつきだけでなく、「川(砂鉄)と蛇」の結びつきも強くなりました。砂鉄のとれる川の守り神、砂鉄の守り神も蛇と思われるようになったのではないでしょうか。ハハキの神は「新」たなハハキの神となり、「アラハバキ」の神となったという可能性も否定はできないでしょう。「新」たなるハハキの神信仰にとって大切なのは、木々と共に砂鉄のとれる川でした。
「アラハバキ」の「アラ」を「新」でなく、「あらかね」の「アラ」(金属の古語と言う説がある)で説明する研究者もいます。そして、「ハバキ」を履き物に解釈して、「金属の履き物」と説明する人もいるようです。わたし個人としては金属器が入ってこようと、山(木々)と蛇への信仰は日本列島の多くの地域で信仰されつづけ、「ハハキ信仰」が強化されて「アラハバキ信仰」になったと考えます。
 山陰・山陽・近畿など西日本を舞台に日本の宗教史・精神史を見れば、自然信仰と氏神信仰の中間に位置した、「自然信仰の変容態」が「アラハバキ信仰」と考えます。
①自然信仰(自然物ひとつひとつが神である。縄文時代前期)
②自然信仰(自然物に人格的神が宿る。縄文時代中期)
③自然信仰と氏神信仰(権力者の先祖信仰)の共存(縄文時代後期・弥生時代前期)
④氏神信仰(天皇制神道。弥生時代後期・古墳時代)
⑤仏教信仰(超越者・聖者=如来・菩薩などを敬うようになる。飛鳥時代)
⑥仏教と天皇制神道と自然信仰の共存(飛鳥時代後期・・・壬申の乱後)
⑦神仏習合信仰(奈良時代~江戸時代)  
 こういった流れを見ることができるでしょう。
 話を古代に戻して、出雲国が滅んだ後、出雲の人々は中部地方・関東地方に逃げました。高度の技術を身につけていたためその地域の支配層になったことでしょう。「先住民」は「ハハキ信仰」「アラハバキ信仰」であり、税や労役の面では問題があったとしても、宗教・民族的には問題は少なく、出雲族の現地人支配は比較的スムーズにいったのではないでしょうか。しかし、ヤマト族の支配が中部・関東にまで及ぶようになると、豪族たちは表向きはヤマト族傘下の氏神信仰へと変えていき、「アラハバキ信仰」は「みちのく」へと追いやられることになったと思われます。
「蛇木信仰」その変容態としての「アラハバキ信仰」、「牛頭天王信仰」は国家権力によって迫害された信仰であり、今こそ協力しあって「山の神」の価値を示し、復権を目指すべきでしょう。
 釈迦が、生前、「須弥山(しゅみせん)」なるものを本気で信じていたとは考えられませんが、釈迦の死後、仏法を守る山として「須弥山」なるものがクローズアップされそこにいる神々の人気が高まりました。。頂上には、『寅さん』映画でも有名になった帝釈天。さらに須弥山の東西南北には4人の神がいるとのこと。持国天(東側)。 広目天 (西側)。増長天(南側)。毘沙門天(北側)。4人以外にも神々がいて、京都大学付属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』によれば、山の半腹には豊饒国があり牛頭天王はそこの王だったということです。
 後世の仏教においても、山は重要でした。現在でも、仏教寺院のあるところを「山」という場合が多く、その門は「山門」と言われます。しかし、残念ながら、現在、都市部の仏教寺院で「山=林」をもつところはあまりにも少なく、寺院の周りの木々は伐採され、「一木一草」は「観念」だけと成り果てていると言ってはいいのではないでしょうか。権力者の氏神信仰をまねするごとく、極端なことを言えば、遊びつづけて全財産をつかいはたしたバカな曾祖父や父親も「ご先祖様として大切にする」というような間の抜けた「ご先祖様信仰」に支えられて、仏教寺院は大切な樹木を伐採し、土地を管理料を納める墓地に変えてしまったのではないでしょうか。
 砂漠化の時代、牛頭天王はアラハバキ神・帝釈天・毘沙門天等と共に「山(林)の復活」に向けて行動すべきで、「巨旦将来の八つ裂き」なんぞ楽しんでいる時ではないのです。


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1 コメント

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旧天王社(江の島) (gozu)
2010-10-07 10:41:37
写真は、神奈川県鎌倉近くの江の島の旧天王社(現八坂神社)です。

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