禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉の意味を知っているということ

2020-08-06 05:31:12 | 哲学
前回記事の最後で、私は次のように述べた。

「未来は既に決定している。」と言葉では簡単に言えるが、私達はその言葉がどういう場合に真実であるかを知らないのである。つまり、その言葉の意味を理解しているとは言えないのである。端的に言ってその言葉は空疎である。 
 
 たぶん、私の言葉に少々違和感を持たれた人もいるのではなかろうか、と推察している。言葉は理解しているから言えるのであって、理解していないことを言えるはずがない、と漠然と思っている人が多いのではないだろうか。今回は、私達が自分が何を言っているか分からないまま、言葉を発していることがあるのではないかということについて述べてみたい。

 言葉の意味とは何かということはとても難しい。それについて専門家が論じている内容はとても難しくて、私のようなアマチュア哲学者にはとても理解できない。それで、とりあえず「平叙文の意味を理解している」ということに焦点を当てて論じてみたい。平叙文と言うのは、命令文でも疑問文でもない、いわゆる普通の文のことである。意味がなんであるかということは難しいが、その文がどういう場合に本当であり、どういう場合に本当ではない、ということが分かっているなら「文の意味を理解している」と言っても不都合はないのではないだろうか。

 例えば、「雪は白い」という文は、実際に雪が白ければ本当(真)であり、もし白くなければ本当ではない(偽である)、ということが分かっていれば、「雪は白い」という文を理解していると言っても差し支えないように思う。「御坊哲は日本人である」という文はどうか。実際に御坊哲という人物を知らなくとも、このブログを書いている人間が日本のパスポートを持っていれば、この文が本当のことだと理解していれば、この文の意味を知っていると言って良いだろう。

 それでは、「神さまは存在する。」という文についてはどうか? どういう状態が「神さまがいる」と言える事態なのだろうか? なかなかイメージすることが難しい。この時、発言者が神さまは世界の創造主であるという認識しかないのであれば、「神さまは存在する。」は「世界がある」と言うのとは同じことに過ぎない。しかし、それでは発言者は納得しまい。自分はもう少しそれ以上のことを言っているつもりになっているはずである。それは言葉にはいわゆる言霊があるからである。「神さま」と言葉にした以上、その言葉に対するなにか対象が存在すると感じてしまうからである。しかし、その対象がなんであるかあいまいなまま発言しているのなら、発言者は自分でなにを言っているのかが分からないまま、「神さまは存在する。」と言っているのである。

 「世界には始まりがある。」と言うのはどうか? あらゆるものがそこにある場所を「世界」と呼んでいるのならば、私達は「世界の始まり」がなんであるかということを知ることができない。「ビッグバンが世界の始まりである。」という人もいるだろうが、それはいつ?、それはどこで始まったの?と問いたくなる。「空間も時間もない状態」というものが言葉では言えるが想像することができない以上、なにもない状態からなにかが生まれる様子を思い浮かべることができないはずである。なにかが始まるとしても、それは世界の中で始まるのであって、「世界そのものの始まり」という言葉はわれわれの手に余るものに違いない。

 このように考えていくと、われわれは自分では何を言っているか分からないまま、言葉を発していることが多々あるのではないかと思う。

鎌倉風景 本文記事とは関係ありません。
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自由意志はあるか?

2020-08-04 11:36:46 | 哲学
 前回記事で実存的視点と客観的視点(科学的視点)というものをとり上げた。この二つの視点から見るわれわれの世界というものには相当なずれがある。生活上の安全や利便性という点から見ると、客観的視点から見た世界観というものが「正しい」ということになるのかもしれない。しかし、我々が実際に生きているのは実存的視点から見た世界の中であることを忘れてはいけない、ということを前回記事では言いたかったのである。 知識というものが一切なければ、本来のわれわれは実存的視点しか持ちえないのである。

 人々の世界を見つめる視点として、客観的視点が実存的視点よりはっきり優勢になったのは、ニュートンの万有引力の法則辺りからではなかろうかと思われる。ニュートンの法則はきわめて正確かつ精密に物体の運動を予測する。おそらくこの頃から、世界のあらゆる現象は自然法則に従っているという信仰が生まれてきたのだろう。あらゆるものがただ自然法則に従っているということであれば、現時点において未来は既に決定していることになる。もし、無限の能力を持つ超高性能コンピューターがあって、世界のあらゆる物質の状態のデータを入力することができたとすれば、未来に起きるあらゆる事柄を予言することができることになる。

 もしそうだとすると、ここに大きな哲学的難問がわれわれの前に立ちはだかることになる。未来に起こることが全て決定しているのであれば、私が自分の意志で決定したと思っていることも、実は初めから決定されていたことになる。つまり、私達には真の意味で自由というものはないことになるからである。もし、私達に自由意志というものがないのであれば、自分の行いに対する責任というものもないということになる。そこには、すべてがなるようになっているだけという、ニヒリズムが口を開けて待っている。なにか変だ。

 どこが間違っているのだろう。おそらく、客観的な視点から見るならば、はじめから人間に自由などなかったのだと思う。呼吸しなければ苦しいから呼吸しているのである。飢えるとお腹がすくから飯を食う。さびしくなったら、友を訪ねて話をする。ニュートンの法則を持ち出すまでもなく、われわれの行動はもともと因果関係の枠の中にある。因果を昧(くら)ますことなどできない、「不昧因果(ふまいいんが)」である。

 前にも述べたが、われわれが生きているのはあくまで実存的世界の中においてである。客観的世界と言うのは、われわれの生活上の利便と安寧の為に推論によって構成されたものなのだ。ある意味において、それは架空のものと言ってもかまわないと私は考えている。(この辺の事情は過去記事「真理は現前している」でも述べている。)
実存的視点から見れば、私達は立ちたいときに立ち座りたいときに座る。もともと「自由」という言葉はそういう意味だったのである。客観的視点から見て、われわれに自由が無い、と言うなら「自由」という言葉の意味がそれぞれ違うのだろう。
 実存的視点に立つなら、右へ行くも左へいくも私は自分で考えて選ぶことができる。行きたいとこへ行ける。それが自由である。決して因果の制約に縛られるものではない。「不落因果」である。

 無限の能力を持つ超高性能コンピューターがもしあったとしても、決して未来を正確に予測することはできない。それは理論的に不可能である。なぜなら、そのコンピューター自身がこの世界の中にあるので、コンピューター自身の動作状況も情報として入力しなければならないからである。計算結果は永遠に出力されることはないだろう。原理的に厳密な未来予測が不可能だとすれば、「未来は既に決定している。」という言葉はなにを意味しているのだろうか。「未来は既に決定している。」と言葉では簡単に言えるが、私達はその言葉がどういう場合に真実であるかを知らないのである。つまり、その言葉の意味を理解しているとは言えないのである。端的に言ってその言葉は空疎である。

コロナのせいで旅行もままならないが、写真を見て思いを馳せることは自由である。
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