禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的世界観 無常と空 その3

2018-08-06 08:27:41 | 哲学

先日テレビを見ていたら、強制収容所の生き残りの人の証言というのがあって、恐ろしい話を聞いてしまった。その人の妹さん(当時6歳)はガス室送りになってしまったらしい。

「ガス室で死ぬということがどういうことだか分かりますか? そこでは弱い者が強いものの踏み台になるんですよ。ガスで死ぬには十数分かかります。その間ずっともがき苦しみ続けるわけです。誰もがもがき苦しむ中で、弱い者が踏み台になる。ガスは下から充満していきます。かすかに残った空気を求めて、皆他人を踏み台にして少しでも上に這い上がろうとするんです。」

これを地獄というのだろう。しかし、現実にあったことである。弱い者を踏み台にした人もこのことをもって悪人と決めつける訳にはいかない、平穏な社会に生きておれば、おそらく良き社会人としての人生を全うできたはずの人である。ガス室というのは極端な例であるが、人間が人間としての矜持をどこまで持ちこたえるべきかという線引きはなかなかできない。そういう意味で究極的には善悪というものは存在しない。

歎異抄第十三条で親鸞は唯円に対し、「 人を千人殺してみよ。そうすれば往生は間違いない。」と言ったのに対し、唯円は「私のような者の器量ではただ一人でさえも殺すことができません。」と答えたところ、親鸞は次のように述べたとされている。

「 これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし。」

心が善いから殺さないというのでもなく、また殺そうなどと思ってもいなくても、大勢の人を殺してしまうということもある。しょせん人間の所業は状況(業縁)に支配されているのである。そこには善というものもなければ悪というものもまたない。

親鸞は終生「自分は悪人である」との自覚を持ち続けたが、それはおそらく最初は絶対善があるということを信じていたからだと思う。幼い頃は仏教には絶対善を実現する超自然的な力があると考えていた。しかし、比叡山に入って学んでいる間に、仏教というものがどうやらそういうものではないということが分かってきた。また、彼の生きた時代が過酷であったということもあるだろう。日常的に行き倒れの人を見かけるような世相であった。本当に善人であれば、自分より困窮している人を見過ごすことはできないはずだ。ある意味、人を踏み台にしなければ生きていけない時代でもあったのだ。善い人は生きて行けるはずがないのである。そういう意味で、人間には悪人しかいないのである。

親鸞はまた性欲の旺盛な人であったらしい。飢えた人をしり目に自分は喰らい、あまつさえセックスまでしたがる。自分のことを「心は蛇蠍の如くなり」と評している。絶対善があるという前提だと、蛇蠍は邪悪なものの象徴かもしれないが、よくよく考えれば蛇蠍も生きて行かなくてはいけないのである。人も蛇蠍も同じなのは当たり前のことであるが、やはり親鸞は絶望していたのだと思う。親鸞は「絶対他力」と言うが、一切皆空を標榜する仏教には「絶対」という言葉は本来馴染まない。しかし、あえて「絶対」を強調するのは、もう他に選択肢はないという切羽詰まった覚悟を表している。生身の人間は行において善であることは不可能である。救われるためにはもう「よきひとのおおせ」を信じるしかないのである。

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべすと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。 総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。 そのゆゑは、自余の行はげみて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身となれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。】(歎異抄第二条)

絶対善はないとしても、私達はできれば善人でありたいと願っている。しかし、ここまで達成できれば善人であるというような都合の良い基準というものは存在しない。さりとて、「私は悪人でござい」と居直るのも浅薄というものだろう。中道の道というのは安易な結論を提供してくれないのである。私達は無常の中に生まれた愚かで無力な存在であっても、善を希求する姿勢を失ってはならない、親鸞はそう言っているような気がする。



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