禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

絶対矛盾的自己同一とはなにか?

2014-04-20 16:00:40 | 哲学

ある時、鈴木大拙が西田幾多郎に「絶対矛盾的自己同一という言葉はどこで区切るのか?」と問うたところ、西田はそれは全体で一語であると答えた。そんな話を何かの本で読んだ記憶がある。


だとするなら、「絶対矛盾的自己同一」というのは禅語ではないのかと、その時思ったのである。それが哲学用語であるというなら厳密な説明が要請される。「絶対」「矛盾」「自己」、それらの言葉が何を指しているかが明瞭に示されなくてはならないはずである。しかし、「全体で一語」などと言われると、老師が「世界をウムと一気に了解せよ」と言っているのと同じように感じてしまうのだが、私の偏見だろうか?

もしそれが禅語であるとすれば、その意味するところは明白である。禅による世界把握は「あるがまま」という一語に尽きるからだ。「あるがまま」とは一切の概念のフィルターを通さないでものを見るということである。「一切皆空」とか「即非の論理」とかいうのもすべて同じ脈絡の中にある。その中でも「絶対矛盾的自己同一」には西田特有のダイナミックな世界観が顕著に表れている。

<< 過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。>>

上記の表現は、非常にダイナミックで一見説得力がありそうだが、哲学的にも禅的にも問題がある。

哲学的にこのようなことが言えるためには、過去とか未来が明瞭に把握されていなければならないはずだ。過去と未来がどのように対立しているというのだろうか? それは果たして対立するものなのか? 私には西田がそのような視点に立ちえたとは思えない。 いまだに時間そのものを俯瞰しえた哲学者はいないからである。

一方禅的な視点から見ても問題がある。「あるがまま」は概念のフィルターを通さない見方であるのに、過去・現在・未来という枠組みをもとに説明しようとしている。禅者は見えないものを見えるとは言わない。我々には決して未来が現在にそして過去になる過程というものは見えていない。「現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、…」というようなことは決してないのである。禅者ならただ「恁麼(いんも)」というしかないだろう。恁麼というのは「そのように」という意味である。

「絶対矛盾的自己同一」という述語はどうも仰々しい、「あるがまま」とか「あるがままに」とかに置き換えても意味がそのまま通じてしまうと言ったら言いすぎだろうか。

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