禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教が問題としているのはつねに実存である。

2019-03-01 09:11:03 | 哲学

 前回記事で、西洋哲学では存在というものに対して、本質(何であるか)と実存(現実かどうか)の二面からアプローチする、と言うように述べた。では、仏教(特に禅)ではどうかというと、本質はほとんど問題にされない。仏教で追及するのは実存だけである。一応、己自究明というのは「自己とは何か?」と本質を追及しているような形式で表現されるが、この問いは決して「自己とはXXである」というような形式の解答は期待されていないのである。

本質とはそのものとして欠くことができない要素のことで、人間ならそれを人間たらしめているもののことである。山田君と鈴木君は顔かたちも体格も性格も違うが、同じ人間だと判断されるのは二人とも人間としての本質を持っているからだとされる。いわゆるプラトンのイデアと考えて頂けばよい。しかしここで、仏教は「一切皆空」を標榜していることを思い出していただきたい。空観というのはあらゆるものに境界を認めないというものの見方である。人間と人間以外の境界も認めない。つまり、究極的には、人間や犬それに机や畑‥‥、それらすべてのものの本質というものは存在しないというのが、龍樹の主張である。概念によってすべてを規定しようとする西洋哲学と、仏教はこういう意味で大きく違うのである。

ゆえに、仏教においては本質存在に関する問題は存在しない。問題にするのはつねに実存であり、それが己自究明ということである。だから、禅の公案も当然問題にしているのは実存であり、その表面的な形式に関わらず、本当のテーマとなっているのは常に、「己」、「今」、「ここ」にまつわることでしかない。例えば、有名な公案「百丈野鴨子」について考えてみよう。馬祖大師の「雁はどこへ行った」という問いに対して、「向こうへ飛んでいきました」と答えた百丈に対して、馬大師は百丈の鼻を思いきりひねりあげて「ここに居るじゃないか」とたしなめた。己の実存について問われているのに、「雁」だの「向こう」だのと答えてしまったからだとすればつじつまが合う。 

( 関連記事 )  => 実存は本質に先立つ

 

幕山頂上から真鶴半島を望む ( 本文とは関係ありません。) 

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