禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「概念」について考えてみた

2022-01-21 11:15:54 | 哲学
 「概念」でググってみると次のように説明されていた、
  • 同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。
  • 対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。
 この説明ですっと理解できる人は、ある程度言語操作に慣れている人に違いない。私が初めてこの言葉を教えられたのは中学校の国語の授業だったと思う。おそらく先生は上のような説明をしてくれたのだと思う。しかし、よく理解出来なかった。不審顔の私達を見て、先生は「まあ、言葉の意味やと思っとけ」と言ったように記憶している。

 正三角形と正四角形の違いは誰にでも分かるだろう。図示されたものを見ても直感的に分かるし、「角が三つ」と「角が四つ」の違いは歴然としている。しかし、正一万角形と正一万一角形についてはどうだろう? 図形を頭の中で思い浮かべることは不可能だろうし、それらの図形が正確に描かれたものを見せられても、私達には判別できないだろう。おそらくどちらも円にしか見えないはずだ。しかし、意味的には「角が1万」と「角が1万1」の区別ははっきりと分かる。この場合における「はっきりと分かる」ということが概念として分かるということである。眼で見て区別できないものも、概念としては区別できる。そのように考えてみると、先生が「まあ、言葉の意味やと思っとけ」と言ったのもそれほど的外れなことではない、概念は言葉がなければ成立しない。

 細菌やウィルスは目に見えないけれど、大抵の人はそれらが別のものだということは知っている。第一に大きさが違う。細菌は約 1~5 μm だが、インフルエンザウイルス. の大きさは 80~120 nm だという。nm(ナノメートル) がμm(マイクロメートル) の千分の一だということは知っていても、すでにμmがあまりに小さいためにその大きさの違いを感覚的に把握するのは不可能で、あくまで我々はその大きさの違いを概念的に知っているに過ぎない。なにを言いたいかと言うと、私達は具体的な細菌やウィルスに直に遭遇することはないということである。現象としては風邪をひいたり下痢をしたりする症状として現れる。そしてその症状を説明する医学論文などによって規定される理論上の概念が細菌でありウィルスなのである。細菌やウィルスだけではない。電子、原子、素粒子だのという科学で扱う概念の大抵は、膨大な理論を背景に持つ理論上の概念である。万有引力にしても、ニュートン以前には存在しなかったのである。それまでは、物はただ下に落ちるものと思われていただけだった。ニュートンが初めて、リンゴが落ちるということと天体の運行を統一的に説明できる万有引力の法則を発見した。しかし、「引力」そのものを直に見たものは誰もいないことには変わりない。あくまで引力というのは万有引力の法則という理論によって規定された理論概念なのである。
 
 概念なしで科学は成立しない、我々は言葉(=概念)で思考するからである。そのような観点から見ると、新約聖書の「始めに言葉(LOGOS)ありき」が西洋思想の根幹にあるということもよく理解できる。この言葉の宗教的意義についてはよく分からないが、西洋ではロゴスが言葉であり理性であるということが象徴的である。「論理」というのは logic の翻訳語であるが、日本人が「西洋人は論理的である」と感じるのは当然であると思う。

 では、日本人は論理的ではないのか? ということについては次回に論じたい。

駅前はムクドリの天下
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