禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的世界観 無常と空 その1

2018-07-06 18:30:58 | 哲学

 西洋式庭園と日本式の庭園を比較すると、「西洋式」の方は幾何学的な直線や曲線が多いのに対し、「日本式」は人工的なものを極力排除して、石の置き方一つにしても規則的にならないように配慮される。「西洋式」は幾何学的な美しさを理想としているのに対し、「日本式」はあくまで自然そのものを再現しようとしているかのようである。 

 この幾何学的な美しさが西洋思想に超自然的原理を象徴している。彼らは自らを自然と対峙するものと位置づけ、超自然的原理に基づき自然を合理的なものに作り替えることができると考えるのである。日本式から見れば、この幾何学的美しさという「超自然的原理」は「不自然な作為」と見なされ、極力排除されるべきものとなる。このように庭園一つをとっても彼我の違いは大きいが、その根源をたどるとその違いはやはり神が存在するかしないかによるのではなかろうか。

 が定めた論理である「ロゴス」によって世界は支配されている、と西洋思想は考えるのである。西洋においてはすべて神の差配である。人も馬も犬もすべて神の明確な意思によってつくられたものであるから、それぞれに神の理念である、人そのもの、馬そのものとしてのイデアというものが存在すると考えられる。人間のイデアは人間が生まれる以前から、そして人間が絶滅した後も永遠に不変のまま残り続けると考えられる。

 一方、仏教においては神というものは存在しない。つまりこの世界を超越的に支配する意思は存在しない。この世界の物質を形づくる質料(フュレー)が自然法則だけに従って、流動しているだけなのである。その背後には何らの超越的意思も存在しないので、人も馬も犬もすべて偶然出来上がったものに過ぎない。だから人間のイデアは存在しないし、実は、なにを「人間」と呼ぶべきかということも定かではない。人間と人間以外の境界も明確ではないからだ。すべては偶然的で過渡的かつ流動的であるから、イデアのような不変不滅の理想的なものというものは存在し得ないのである。すべては偶然的で過渡的、いわば不完全なものしか存在しない。

 だから仏教的世界観の中では厳密な意味での個物というものも存在しない。個物と見えるものもそれは比較的安定的なパターンと言うべきものでしかないと見るのである。パターンというのは、例えばそれは水の中に出来た渦のようなもののことである。私たちは「そこに渦がある」と言うが、実は渦の実体というものはそこにはない。単に水がまわっているだけのことである。その水も同じ水ではなく絶えず入れ替わっている。実は人間も同じである。私という人間も一瞬の滞りもなく変化し続けている。外部から空気、水、栄養を取り入れ、代謝しながら排泄を続けている。一個の独立した存在であるかのように見えて、肉体も骨も常に入れ替わり続けていて、実は外部との厳密な境界は存在しない。水の渦に比べれば少しシステムが複雑なだけで、原理的にはそれほどの差はないのである。

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