禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

屁理屈はいくらでも言えるということについて

2020-09-14 06:04:43 | 哲学
 先ごろ、北海道の釧路発関西空港行きの旅客機の機内で、マスク着用を求められた男性が、それを拒否して乗客や客室乗務員を威嚇したため男性を臨時に新潟空港で降ろすというトラブルがあった。 
 その乗客の言い分は、マスクの着用を強制する法的根拠などないのではないか、ということらしい。根拠があるのなら、それを「書面で提示しろ」と要求したらしい。「盗人にも三分の理」という、法で規制されていないことについては、個人の自由は最大限尊重されねばならないと言いたいらしい。こういう考え方をする人を時折見かけることはある。
 確かに、マスク着用は法律によって強制されているわけではない。つまり、マスクを着用しないことは犯罪ではない。そういうことを言い出すと、たばこを吸うことも法律で禁じられているわけではないから、機内禁煙も根拠がないことになってしまう。歌を歌うことも犯罪ではないのだから、機内でいきなり「会津磐梯山」を大声でがなり立てても、それを制することはできないという理屈になる。
 飛行機内では安全運航上の観点から、乗客は乗務員の指示に従う義務があるはずで、おそらくそのような規則がどこかに規定されているはずである。マスク着用そのものに言及する規定はなくとも、飛行機内におけるその程度の規制は航空会社の判断に委ねられていると考えるのが良識ある大人というものであろう。現にほとんどの人々がその「良識」に従っているのである。ところが問題の人は、本気で自分の言い分が正しいと信じているのである。

 ここでちょっと難しい話になるが、言語によって完ぺきな規制を規定するのは不可能だという議論があるのでご紹介したい。哲学者ウィトゲンシュタインの言葉に次のようなものがある。

≪ 私達のパラドックスはこう言うものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行為の仕方でもルールと一致させることができるから」。それに対する答えは、こういうものだった。「どんな行動の仕方もルールと一致させることができるなら、ルールに矛盾させることもできる。だからここでは、一致も矛盾も存在しない」≫(「哲学的探究」201節より)
 
 私たちの行動のバリエーションは実は無限にある、それを言語によってすべて厳密に規定することなどできないと言っているのである。そして、これはなかなか気づきにくいことだが、言葉の解釈の仕方も実は無限にある。 だから、どんな理不尽と思える行為でも、それを正当化するための屁理屈はいくらでも作り出せるというのである。もちろん、それはあくまで屁理屈である。ほとんどの人々は言語上の共通了解範囲内にいるはずで、それこそが言語成立の条件のはずなのである。 
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