禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教徒はナショナリズムを克服しなければならない

2019-09-15 15:30:30 | 政治・社会
 日毎のアクセス件数からして、政治向きの話はここのブログの読者にはあまり歓迎されない、ということは承知している。しかし、昨今の嫌韓ブームについて私はどうしても黙っていられない。

 日頃から「空」だの「無」だのと言っている人は、国とか民族にとらわれてはならないと思う。空思想というのは、すべての概念について突き詰めていけばその本質というものはない、という考え方である。つまり、「日本」というもの、「韓国」というものの本質というものはどこにもない。それは「単なる符牒に過ぎない」ということを徹底して知る、それを無差別智と言うのである。空観は必然的に無差別智につながる。仏教とナショナリズムは相いれないのである。

 「韓国は理不尽な国である」と見下すように言うことになんの益があるだろう。唯一のメリットは「溜飲が下がる」というけち臭い了見にあるのだろう。しかし、こちらが見下せば、相手はこちらを持ち上げてくれるはずなどない。お互いに見下し合う、負のスパイラルに陥るだけのことである。前にも言ったが、隣国が嫌いだからと言って引っ越すわけにはいかないのである。仲良くする方が良いに決まっているのだ。

 前々回の記事でも述べたが、徴用工の賠償請求権は消えていない、というのは衆目の一致するところである。日本の言い分は「半世紀前に当時の朴政権との間で決着済であるからそれは韓国の国内問題である」ということだが、問題はそれで韓国の国民感情が納得するかということである。東アジアの安定のため、アメリカが主導して当時の韓国と日本政府が徴用工の頭越しに決着した経緯がある。韓国の裁判所の判決に対して、日本政府と企業と韓国政府が協力して対処法を模索する姿勢があっても良かったはずである。要は、両国が相和していける道を常に探り続けなくてはならない。状況を少しでも良くするためには相手がどのような態度で出てこようともそうするしかないのである。

 時々、「日本は後進国であったそれは朝鮮半島のインフラストラクチャーを整備してあげた。むしろ韓国は日本に感謝すべきだ。」式のお粗末な議論を展開する人がいるが、それは主に朝鮮人自身の労働力によってなされたことである。多少日本から持ち出されたものがあったとしても、日本はそれ以上の収奪をしていたのであって、なによりも人々の誇りと人権を踏みにじったことは簡単にあがなわれるものではない。

 最近はテレビに出てくる知識人と目される人まで簡単に韓国を批判する。とうとう「韓国いらない」などと言い出すメディアも出てきた。日本にはいわゆる「在日」と韓国籍の人々が50万人も住んでいる。その人々に決して肩身の狭い思いをさせてはならないと思う。彼らも我々とともに日本を担っている広義『日本人』なのだから。
コメント
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