禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

言葉は浮遊する

2018-03-09 20:49:54 | 哲学

【 人は、名前について問うことが出来るためには、既に幾らかのことを知っている(幾らかのことが出来る)のでなくてはならない。それでは、人は何を知っていなくてはならないのか? 】(「哲学探究」第30節より)

" 言葉=ロゴス " という図式は言葉が不変であるという思い込みからくるのだろう。私たちはなにかの「名」を思い浮かべた時に、この世界の中にアンカーを打ち込んだような手ごたえを得るのである。この世界は無常であり何一つとして変化しないものはないが、私たちが思考するためには変化のない足場が必要となる。その足場が言語であろう。

     名前について問うことが出来るためには、なにを知っていなくてはならないか?

おそらくほとんど何も知らなくていいと思う。なんでもいいのだ、この世界の中のわずかな差異、かすかな揺らぎを見出すことさえできれば、どんな些細なことに対しても、名を訊ねることはできるし、なんなら名づけることもできる。

  祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
    娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

誰もが知っている『平家物語』冒頭部分である。この美しい調べが平家物語の世界観を際立たせていることは間違いない。しかし、このフレーズが表現しているものを子細に検討すると、意外に空疎なものであるということもまた否定しがたい事実である。

まずたいていの人は「祇園」と聞いて、京都の祇園を想起するのではないだろうか。私はそうだった。京都の祇園なら、鐘は建仁寺辺りだろうか、瓦屋根の家々が立ち並んだ夜更けの街に「ごぉ~ぉ~ん」という音が鳴り渡る、そんな光景が浮かんでくる。

しかし、そうではないのである。祇園精舎は京都の祇園ではなく、お釈迦さまが説法していたお寺で、それはインドにある。そこに鐘があるかどうかは分からないが、もしあったとしても日本や中国のお寺のような鐘ではなく、ベルと言った方が良いような代物ではないだろうか。たぶん音も「ごぉ~ぉ~ん」ではなく「カーン、カーン」となりそうな気がする。沙羅双樹にしても熱帯性の植物であるから、平家物語の作者は見たことがないはずだ。

要するに作者は、祇園精舎も沙羅双樹についても具体的なイメージをほとんど何も持たないまま、「鐘の声」がどうの「花の色」がこうのと述べているのである。そして、それを読む私たちはそれぞれ自分の経験に基づいて、勝手な解釈を試みる。ちなみに私は、鐘が建仁寺なら、花はムクゲを連想していた。

なにを言いたいか。先に私は、言葉を世界の中に打ち込まれたアンカーに例えた。しかし、私たちはアンカーが打ち込まれた地点がどこであるかを結局知らないままなのである。なのに、世界の定点をアンカーはしっかととらえているように私たちは錯覚しているのである。 


【お詫びと注意】 

「哲学探究」第30節の趣旨を私が取り違えていることを、ある方から指摘されたので、そのことをお知らせいたします。 
当該節において、ウィトゲンシュタインが「必要とされる知識」というのは名前の対象そのものに付随する属性情報ではなくて、そのものが直示された時に了解するための背景となる前提知識のことであるということです。 
山田夫妻に「これが太郎です。」と紹介された時に、ああそうかと納得するための前提条件としての知識がなんであるかということを問題にしています。名づけのルールなどもその一つで、日常の言語ゲームを通じて無意識のうちに初対面の太郎君を受け入れる前提知識が形作られているということです。 
この記事はあくまで、私独自の問題意識によるものとして受け止めて下さい。

コメント (5)
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