禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人は何のために生きるのか?

2015-02-22 11:48:59 | 哲学

もう半世紀も前のことだが、山田無文老師が講演の中で次のように語っていたのを覚えている。

   「人は何のために生まれてきたのか? それは遊ぶためじゃ。」

その頃の私は、老師が何を言っているのか全く分からなかった。それで話の内容も全然覚えていない。ただ、老師の意表をつくような「遊ぶため」という言葉だけが印象に残っているのである。

ほぼ同じころのことだが、私は夏休みに紀州興国寺を訪れ修行の真似事をしていた。ある日、そこの師家である弧峰軒目黒絶海老師に茶飲み話に誘われた。その席で、「老師さんは嫁はんももらわんと毎日坐禅ばっかりで、そんなんは面白ないんとちやうの?」と訊ねてみた。今から思えば冷や汗ものだが、天下の師家に対してタメ口である。「老大師様」とお呼びすべきところを、私は「ろおっさん」と呼んでいた。

しかし、悟道の達人は田舎者の高校生の非礼など全然問題にしない。破顔一笑して、「面白くって、面白くって、しかたがないねぇ。」と答えたのである。何がそんなにおもしろいのか、その時の私には全然わからなかった。だが、参禅の際にはそびえたつ不動の山のように見えた老師が、相好を崩して子供のような笑顔で答えられたのが今でも頭にこびりついている。

後になって、無文老師の言葉は梁塵秘抄からの引用であったことが分かった。

   遊びをせんとや生れけむ、
   戯れせんとや生れけん、
   遊ぶ子供の声きけば、
   我が身さえこそ動がるれ。

長い間両師家の言葉の意味が分からなかった私であるが、この歳になってみて少しわかるような気がしてきた。子供が遊ぶとき、実は自分が遊んでいるということさえ忘れて遊んでいる。ただ状況に全身全霊で応じている、それが子供の遊びである。

僧堂の生活は坐禅、読経、作務の繰り返しで、息つく間もないほど忙しい。ぼけっとしている暇などないのである。初めは追い立てられるような毎日だが、そのうち一つ一つの行事に没頭するようになる。没頭してみて初めてそこに自分の主体性が自由になっていることに気がつくのである。それが「遊ぶ」ということ「面白い」ということの真意なのであろうと思い至るようになった。

「人は何のために生きるのか?」という設問は、正面から問うにはあまりにも抽象的すぎる問である。地に足がついている問とは言えないのだ。人は何かのために生きるのではない、なにかをすること自体が生きることなのである。以前引用したことがあるフランクルの言葉を再度取り上げてみたい。

<< もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。 >>(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)

我々は人生に対し問う立場にはない、われわれが人生から問われているのである。人生からの要請に対し、具体的に悩み具体的に行動する。それが主体的に生きるということに他ならない。

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