毎日のできごとの反省

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ある顕彰碑その2(忠霊塔)

2020-01-10 19:20:23 | 歴史

 前回「ある顕彰碑」に書かれていた言葉は、実は「忠霊塔」に付随するものであったことを、改めて昔の写真を見返して思い出した。写真は全て平成十六年に撮影したものである。顕彰碑の他にもセットで「忠霊塔改修の詞」が掲げられているのであるのにも気づいた。その要点となる一部を取り出して下記に記す。

 

忠霊塔改修の詞

 この忠霊塔の本体は、旧御殿場町当局、在郷軍人会会員および町民の絶大な御支援御協力奉仕によって、昭和十七年夏に起工して翌年夏に功成ったものであります。時あたかも十七年六月のミッドウェー海戦を境に戦局は急転を告げ、軍需資材はむろん、日常生活物資も窮迫その極に達し、所要石材等の入手難から遠く茨城の産地に赴き、諸種手を尽くして資材を確保、加之輸送もまた意の如くならない中を万策を講じ精魂の限りをこめて建立して下されたものであります。

中略

 昭和五十年終戦三十周年を記念して関係者相議り、先ず塔の両そでに殉国英霊の芳名を刻むことを一決、続いてこの機会逸せず碑石その他を改修して聖域を整備することとなりました。

 

昭和五十年十一月十六日

 

 顕彰碑の本体である、忠霊塔は昭和十七年の夏、すなわち国民にとっては、大東亜戦争大勝利の連続であった緒戦の時期に計画建設されていたのであった。ミッドウェー海戦の大敗などと言うことは戦後知られたのであって、当時は連戦連勝であると信じられていたのである。

だから緒戦の勝利に酔っていたと言われている時期にもかかわらず、殉国の英霊を供養する、忠霊塔なるものを建設したということは、大東亜戦争が、日清日露の戦争と比べても、大変な国難であることを国民は直観していたのに違いない。

 

 顕彰碑は、昭和五十年の忠霊塔改修にともない設置されたものであり「忠霊塔改修の詞」にある通り、改修の際に,忠霊塔の両そでに御殿場町出征の英霊の名前を刻したのである。ちなみに顕彰碑には三百九十余柱とあるが、近傍に建てられた木杭には、戦没者三百六十八柱と墨書されている。この違いは大東亜戦争戦没者とそれ以前の戦没者も含めたものの違いかも知れないが、真相は不明である。

 いずれにしても、当時の御殿場町の人口は一万人程度であったから、町民の三十人に一人が戦没した。当時の一家族は十人近いのも稀ではなかったから、三~四家族に一人は戦没者がいたのである。考えてみれば当時の日本の人口は一億に満たず、三百万人余の犠牲者を出しているから、御殿場町の戦没者数は全国平均的なものであったろう。ちなみに忠霊塔は小学校校庭の四角の一辺を成す、陵墓にも似た小山の裾を利用して建てられており、階段を含めれば高さが10mを超える壮大なものである。すぐ近くには浅間神社がある。

 

 さむらい小平次さんより「このような碑が作られ、いまだに撤去もされないのは御殿場の土地柄との関係があるのではないか」という意味の貴重なコメントをいただいたので、元市民として、今の御殿場市民が忘れたであろう、小生の知ることを簡単に記す。

 戦前富士の裾野は陸軍の演習場があつた関係だろうと思われるが、戦後米軍が進駐して基地の町となった。要するに戦前から軍隊との関連は強かったのである。榴弾砲の弾着があるたびに、薄っぺらな小生の家のガラス窓は、ビリビリと震えた。弾着地点からは十キロは離れていたのにである。繁華街の一角には、米軍様専用の歓楽街があった。

 小生などの子ども達は米軍ご用達の飲み屋に、道端のカタツムリを集めて売るバイトをした。エスカルゴ、というわけです(^^♪。だから米兵などは無教養の馬鹿だと思っていた。しかし金髪の米兵の落とし子がいたくらいなので、怖い連中だとも思っていた。

 演習場で薬莢拾いのバイトをしていたおばさんが射殺される事件も一度や二度ではなかったと思うが、何ら問題にもされなかった。対策は何と演習時間の町民への周知徹底だけだった。小生の記憶には米兵の射的遊びの犠牲者だと信じるだけの傍証はある。現在の沖縄の米軍の比ではない。だから人道的米軍などということは、到底信じないのである。そんなこんなが御殿場の風土にはあった、と今にして思う次第である。

 

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