毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。

絵画にも言語がある

2019-11-30 21:22:38 | 女性イラスト

 絵画には大きく誤解されている点がある。絵画は誰でも見ることができるために誰でも理解できるという誤解である。誤解も甚だしい。例えば私は富士山のふもとで育ち、毎日富士山の姿を見て十八まで育った。足元が富士山の傾斜の一部で、とにかく坂を上の方向に歩くと、富士山の山頂の方向になるのだからこれは誇張ではない。その私がいつも見ていた方向から富士山を見ると、他の地方の人より色々なものが見える。

 このように、同じ風景から受ける感慨も人とは異なる。見慣れた風景には、深く感じることができるといってもおかしくはない。これと同様なことが絵画にも言える。同じ形式の絵画を見慣れた人には、見慣れない人よりは細部まで感じるものがある。あるいは絵画ばかりではなく、音楽などあらゆる芸術に共通な事象である。それにはふたつの意味がある。

 ひとつの例は、現代日本人が受ける浮世絵の感銘と江戸時代の人々の受ける感銘とは異なるということである。当時の人々は浮世絵の景色のちょっとした小物の意味を理解できても、私たちには理解できないということもあろう。物の形状についても同じである。江戸時代固有の、家や景色や髪形について、我々には実物がどのようなものであったか、とっさには連想出来ないのである。そのことが、同じ浮世絵を見ても、受ける感銘が違うのである。すなわち浮世絵に使われている言葉への理解度が当時の人々は深いのである。

  西欧のキリスト教美術も同様である。聖書を理解しているものとそうでないものの理解度は異なるのである。そこまで極端な例ではなくてもあらゆる芸術には、時代や地域による共通性と非共通性から鑑賞者各自の理解度は異なる。

 もうひとつは個性の問題である。漱石は芸術は個性の表現だから、優れた芸術は作者自身にしか理解できないという意味のことを言った。これは極論ではないのかもしれない。それどころか作者自身すら時間の経過とともに理解できなくなるかも知れないのである。すなわち個人でも個性は変わる。

  以上のように作品に対しては理解の幅の狭さから広さまでがある。それをどう理解すべきか、私には永久に分からないと思う。ただひとついえるのは、絵画だからといって誰にでも同じように理解できるというものではなく、言語のように経験と学習が必要である。確かに訓練によって眼識というものは向上する。そのことを安易に考えてはいけないと思うのである。

さてイラストです。少しアニメっぽくなってしまいました。

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2 コメント

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鋭い視点と思います。 (8ちゃん)
2019-12-01 10:25:07
絵画に言語がある、という視点に納得します。美術史家の遠山公一氏は、「ルネサンス期に移動可能な独立した絵画として『タブロー画』が成立するまで、ほとんどの絵画作品は制作された当初の場所にそのままとどまっているのが通例であった」と述べております。ですから私たちはそれらの作品を美術館などで目にする時は、私たちの今の「言語」で作品を見ている事になるのでしょう。参考になりました。
コメントありがとうございます (猫の誠)
2019-12-01 15:42:25
絵画にも言語がある、というのは私には当然でしたが、案外反発がある、と思っていました。理解いただき嬉しいです。

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