低いエンジン音が聞こえ、ドアの開く音がした。
「おはようございまーす。」と元気のいい先生の声と共に
子どもは、バスに乗って幼稚園へと出かけた。
わたしは、少しずつ記憶を取り戻しながら
以前の生活をするようになった。
病院に入院しているときは、記憶が曖昧で
何度も同じことを聞いていたようだった。
しかし一度もとがめることなく、少し笑いながら
初めて聞いたように優しく答えてくれる妻に
本当に助けられた。
家に帰ってからは付き合っていた頃の写真や
結婚式の写真を二人で見た。
そして、大きなお腹に顔を寄せている自分や
生まれたばかりの少しぼやけた息子の写真も見た。
その時わたしは、声を出して泣いたと言っていた。
何もかも失ったと思い、妻に居場所を告げることなく
いなくなったわたしを攻める気持ちもあっただろう。
失ったものは大きかった。
しかし、失っていないものも大きかった。
また、1から始めよう…
慎ましい生活なら何とかやっていける。
以前の会社が生きがいだと思っていた自分は
もう他人のように遠い存在に変わっていた。
白いレースのカーテンが風に揺らめいた。
バジルの葉っぱについた、こぼれ落ちそうな雫が
キラキラと輝いているのがチラリと見えた。
再びわたしは目を覚ました。
うっすらと白い天井が見えた。
「うう…。」思わず声を出してしまった。
すると「大丈夫?」
懐かしい声が横で聞こえた。
頭をゆっくりと少しだけ動かし、その女性を見た。
顔は少しやつれていたが、瞳の大きな綺麗な人だった。
薄い水色のTシャツは、なだらかな曲線を描いていて
白のスカートはわたしの目に眩しく清楚な感じの人だった。
でも誰かは思い出せなかった。
誰だろう…この女性は…
「記憶がないのね…無理に思い出さなくていいよ。
今はゆっくりしてね。本当に無事でよかった…
いっぱい心配したよ…」
その女性はやさしく笑いながらそう言った。
しかし潤んだその瞳からは涙が溢れ
雫が白いスカートを濡らしていた…
白いオーガンジーの向こう側に
うっすらとなだらかな曲線が見えた。
日の光が当たると
より鮮明にその部分が明らかになる。
朝日が差し込み穏やかに流れる時間の中で
わたしは、うっすらと目を開け
現実と夢の間で
その景色を堪能した。
風がその景色を揺らめかせ
思わず息を呑んだ…
もう一度夢を見よう…
瞼をゆっくりと閉じ
深みに落ちていった…