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メディアの片隅に生息する新聞記者OBが、独断偏見勝手気ままに綴ります※文中はすべて敬称略。

日米球界の夜明けに生きた人物の死

2010-12-03 | Weblog
富永嘉郎が急性心不全で亡くなった。今年、3月25日、大阪市中央区内の自宅マンションで急死していたことが分かった。
94歳だった。
 
プロ野球ファン、大リーグファンなら、マッシー村上雅則の名前を知っている人はいる。

だが、富永嘉郎の名には、ピンと来る人は少ない。

名将・鶴岡一人監督を擁して全盛時代の南海時代のスカウト部長だ。

平安から南海入りした外野手。ホークス創設メンバーで唯一未だにOBクラブの名簿に登録されている富永嘉郎だ。


 一躍、脚光を浴びたのは1964年。サンフランシスコ・ジャイアンツ1Aフレスノに南海から野球留学していた村上雅則が、実力を認められて、ジャイアンツ入りしたころだった。

9月1日のドジャース戦でデビューしたサウスポー村上は次のように記している。


『4万の大観衆の中,緊張のあまりあがってはいけないと,咄嗟に「スキヤキ・ソング」を口ずさみながらマウンドに進みました。当時「スキヤキ・ソング」(「上を向いて歩こう」 歌・坂本九)は全米ヒットチャート1位に輝いた曲。監督,捕手と内野手がマウンドに集まり「グッドラック!」と励ましてくれました。スタンドの声も言葉が通じなかったのが幸いしてかウォーミングアップは意外と落ち着いて出来ました。初球のサインは外角速球,トム・ハラー捕手の構えたアウトローへパーフェクトのストライク。そして三振,ヒット,三振,遊ゴロに打ち取り私はデビューを無失点。チームは2ー4で負け続投は出来ませんでしたが,日本人で初めてメジャーのマウンドに立った。感激は翌朝の新聞。「日本人初のメジャー・リーガー」。マイナー時代から一転して一流のホテル,一流のレストラン,待遇ががらりと大きく変化。ニューヨーク,フィラデルフィア,ヒューストンと転戦して本拠地サン・フランシスコに帰った時は,空港にアメリカ人は元より日系人の方々が私の快挙を祝福しに集まっていました。この年,8試合1勝1セーブ,防御率1・80」

問題はこの後起きた。

南海入団に際し、球団は村上に米野球留学を約束。1964年、それが実現。同年8月31日、2A、3Aを飛び越えメジャー昇格。日本人として初のメジャーリーガーとなったSFジャイアンツ・マッシー。活躍を認められた村上は、次の年のメジャー契約でサインを求めてきた。
村上はサインした。

これが南海との二重契約問題に発展した。

日本中が大リーグ問題で初めて大騒ぎになったエポックメーキング的な騒ぎだった。

この「ルーールなき」時代に日米両球団に挟まれて、奔走したのが富永スカウト部長だった。

日米プロ野球の苦闘の時代、メジャーと日本プロ野球の夜明けに生きた人だった。

「前日まで、元気で、食事してました。ゲートボールなどして。内輪で家族葬をしました。ええ、プロ野球OBクラブのメンバーでしたから、会長の黒江透彦さんから供花を頂きました」

長男の伸定さん(61)がしみじみ話してくれた。

マッシー村上は2年間のメジャーで5勝1敗9セーブ。防御率0・99.
日本では南海に戻り、阪神、日本ハムを経て103勝82敗30セーブを上げた。


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