クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

中之条・蟻川岳周回  H-26-10-24

2014-10-25 14:41:35 | 中之条・小野上・みなかみ・沼田・渋川
昨今、小渕問題で急に騒々しくなった中之条の蟻川岳に行く事にした。切っ掛けは中之条・折田
町長が町会議長に辞表提出と伝えられたがこの議長さんの名が原沢今朝司と報じられたから。
この原沢さんはかってご自身のHPの一部に中之条の山に関する案内ページを開設していて
(今は存在しない)ハイク初心者の爺イはこれを頼りに中之条の山に行くようになった
経緯があるので急に思い立った次第。

r-35の何時も寄っていたコンビニが解体工事中なのを見て戸惑いながらも「植栗」信号を
右折してr-232に乗り換え、龍ヶ鼻橋でR-353を突っ切り伊勢町下を直進してr-145、
右に名久田小が見える「平」信号を左折してr-231。
暫くでこの「観音の湯」への道標で左の道へ。



前方に熊野神社の赤鳥居が見えるところの小さな四つ角を右に切り返すように進み、
台地へ上っていく。



民家の間を進むと又小さな四つ角、そこに初めて登山口の案内道標。



このY字分岐は案内に従って左を選択して車一台ギリギリの細道。



蟻川波右衛門墓の前を通過して登山口の駐車場。5台は入れそうな広場(10.02)。



道標に従って山手に進むが忽ちの内に猪の侵入防止らしい厳重な電牧に遮られる。



どこかにゲートがある筈と思ったが左は窪が近いので右に大きく回る。
最初から取り付き予定地点が狂ってしまったが電波を捉えにくい濃い樹葉の下では
何となく苦戦の予感。
大分、北に進んだところでゲートが開いているところを発見して入り込む。



雑木林の中はこんな感じで登路らしき踏み跡は見当たらないが歩ける隙間は十分。



この付近では傾斜はこの位なので苦しくはない。



やがて進路に杭を発見、何かの境界かもしれない。



下を気をつけて見ていくと「群教」の杭や朽ち果て寸前の木枠。



急速に傾斜が強まると



前方に岩帯出現。これは乗り越えたほうが良かったらしいが左に回る。



尚も岩帯が続くが左を巻く。ここで西に巻き過ぎて尾根の反対の窪への斜面に来てしまう。



修正して尾根らしきポイントに到着。この辺は地形図に現れない細かい山襞が重なって
いるので一つの小尾根は直ぐに次の尾根の斜面登りに早代わりする。



目の前に石宮。登路に間違いないのだが上っていくと何時の間にやら厳しい斜面登り。



赤テープのある尾根に這い登る。目標の石畳の尾根まであと100m。



漸く見覚えのある石畳の様な岩尾根。かってここに猿の集団が日向ぼっこしているのを
見たことがあるが今日はそんな野生動物の気配は全く感じない。



岩尾根はかなり前方まで続く。



その先は真っ直ぐな登り道。



再び岩場を越えるといきなり本日始めての紅葉が現れた。



頭部に白マークの付いた木枠段の急登を経ると



石組の石宮前に到着。ここが通称の「南峰」らしい(11.19)。



石宮奥に頂上への道標。



ここからは右側が切れ落ちたヤセ尾根。



小さな突起を越えると



右が開けて鉄塔が頂上を越えている山。



再び小突起。



ここは想定外の紅葉場所。







突起を降りて一旦鞍部、そして最後の登り。



古い標識に迎えられて頂上着。周辺の細い草も寝ていない様子から見るとここに
来る人は極めて少ない模様(11.41)。



紅葉も僅かに見られる。



台地の西端に三つの窓が開き三神を祭った三連の石宮と大日如来が西向きに建っている。
かつては西からの参道が本道だったのかな?



三角点は三等で点名は「蟻川岳」で 853.02m。



南は霞でよく見えないが北から北東に掛けての山々。







本日の爺イ。



陽だまりでゆっくりと軽食の後、西周りコースで下山開始(12.14)。
地形図上、ここからは二筋の尾根があるが東側のは下り始めが崖同然のため
一旦西に向かって途中から嵩山を見据えて西南に下る西側尾根を辿る。
但し、出だしは草むらで塞がれているので落ち着いて足探り。



幸いにも藪は僅かに5mで消滅してはっきりした尾根道が現れる。往路と違って
露岩は無いが傾斜がきつくて滑りやすい。



100m進んでからは左目に向きを変えて窪すれすれを進む。やがて見覚えのある
左雑木林、右檜林の道。



その先で珍しく露岩が現れるが厳しくはない。



こんな林の中を進むが尾根が広くなる先は必ず尾根別れがある。最初のは未だ左を選択。
二つ目の尾根別れはそろそろ林道を目指すので右を選択。後は進路を微調整しながら
下るが途中まで見えていた境界杭の類は何時の間にか消えてしまっている。



やがて右下に林道とその先にある車道が見えたので適当に斜面下り。



林道からの出口には霞網のようなものが張られていた。どうもこの山には余り
入ってはいけないのかな?



ここから駐車場所まで2k位、車道を進むと二股分岐に広域農道の表示、左に入る。



道が登りになってその頂点に分岐。



ここに蟻川登山口への道標。つまりさっきの下山ルートは登山道の認定は無しだな。



ここから駐車場所へは長い登り道、途中に炭焼き窯。未だ先は長い。



漸く出発点に帰着(13.33)。未だ時間が早いので付近の探訪を試みる。



車は其の侭置きっぱなしで往路で見た蟻川波右衛門の墓地へ。途中で最近は見ることが
珍しくなったマムシ草の赤い実。



さてこの蟻川波右衛門さんは中之条が誇る有名な刀工。以下は中之条町史・吾妻郡史より。
蟻川家はもとの姓は神保、吾妻郡伊参村大字蟻川の住人で郷士である神保重真の分家で、
神保孫市を祖とするとの事。この孫市さんの子に吉左衛門がいて、この吉左衛門が後の
蟻川波右衛門尉藤原政吉と名乗る刀鍛冶になった。この方は最初、群馬郡権田村の権田伝左衛門
という刀工について学び、1740年に郷里伊参村大字蟻川に於いて伊賀守金道(四代目金道)から
上州吾妻郡蟻川波右衛門尉藤原政吉の称を許され、一躍天下の刀工となった。
資力もあり、村民の信望のあつい人物であったが、1761年に病没した(六十七歳)。
戒名は「源海龍泉居士」 
この波右衛門さんの子が初代若狭守(政吉二代)となるわけであり、幼少から父について
技倆を錬り、三十七歳の時、父の波右衛門が死亡し、政吉二代を襲名し、
「上野住蟻川若狭守藤原政吉」と名乗る。1774年没で戒名は「若岸本州居士」。
その子、若狭守二代(政吉三代)は1817年没で「鉄叟鉢□居士」。
三代若狭守(政吉四代)であるが天保年間に出村して沼田土岐侯に抱えられ、その後さらに
川越の松平家の抱え鍛冶となり松平家の前橋移転に伴って前橋に移住し、その子孫が
千代田町の「蟻川銃砲店」。

で、墓地を訪ねたが墓名碑が読み取れないので推測で記す。



墓は四基並んでいて一番手前が
多分若狭守二代(政吉三代)の墓、理由は側面にはっきりと政吉三代の文字があるから。



二番目は唯一、正面の戒名が明確に読める。「若岸本州居士」とあるから波右衛門さんの
子で初代若狭守(政吉二代)のものに間違いない。



三番目は全く読めないが色々の資料からの推察は波右衛門尉藤原政吉の父親の神保孫市さん。



一番奥のも判読が難しいが僅かに「龍泉」の文字が読めるので波右衛門さんのもの。



墓地を辞して一旦県道に戻り、往路と反対に左折して「赤坂の釜淵(カンブチ)」に寄る。
四万のように「甌穴」としないのはその規模が小さいからかな?



赤坂川畔に降りると上流は何の変哲もない渓流だが



突然に様子が変わり確かに釜淵らしくなる。昔の説明では「山水絶勝ノ地ニシテ奇石恠厳森然
トシテ羅列スーー渕形楕円ヲ為シ泡沫珠ヲ跳ラシ第二泓ト第三泓トノ間ニ巨石担然トシテ
常ニ遊人キタリテ鑑賞セリ」とあり町指定の天然記念物。












未だ時間はあるので「囀り石」に向かって県道を北に進む。途中でさっき登った蟻川岳、
中々の見栄えだ。囀り石はしゃべり石として地名にもなっているが文字から謂えば
「さえずり石」なんだがな。林道を使ってショートカットでr-53に合流。



直ぐに囀り石の看板が目に付く。



「囀り石」は道路に面した廃屋寸前の無人の民家庭にあった。



南側から



東側から見る



岩の上部には石宮。



この岩にまつわる伝説。
「その昔、親の仇を探して旅をしていた男がこの地を通りかかり、この石を寝床として一夜を
明かすことにした。夜中、男は人の話し声で目を覚ました。耳を澄ますと、声はなんと石の中から
聞こえていた。しかも話の内容は男の目指す仇のことであり、その仇の居場所まで話していた。
男はこれぞ神仏の助けと信じ、その場所へ赴き、見事に仇をとることができた。
その後もこの石は幾度も声を発し、人々の役に立つことを話したので、土地の者は石の神として
この石を祀った。しかしあるとき、この石の近くを訪れた旅人が石の声を聞き、驚いて石の角を
刀で斬りつけてしまった。以来、この石が声を出すことはなくなったという」と言うわけ。


ここから僅かの北にこの道標。地形図にも細線がループに描かれている。



車を置いて中に入ると100mの間に何枚か手作り案内板。



やがて民家の石段脇に巨木。



根の部分。



見上げるとこんなもの。



資料によると 「囀石のモミ(町天然)」。樹齢800年
幹の周囲7.8m.樹高37m.枝張り
東西15m.南北8m。樹勢は旺盛な巨木で あるが幹が腐食ウロになっている。かって
はこの木の持ち主を「モミの木大尽」と呼んでいた。
そんなことで中之条一回りは終了。


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1 コメント

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昔、通学路から毎日見ていた山でした (せき)
2017-12-02 21:57:01
蟻川岳は小学生だった時に、通学路から見ていた山です。
自分が登山しているいうで、本当に懐かしく、そして達成感がありました。
ありましたございます。

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