このまま推移すれば2,3日ぐらいしか持たないでしょう、と言われていた91歳の母は、4日目に入った12時半に、この世から去っていきました。 私が到着する15分前でしたが、3日間母の傍で過ごしておりましたので、不思議と涙は出ず、天に帰っていったという感覚でした。
立ち会った看護士の方の話から、最後まで苦しまなかったですね、という一言もありましたが、すーと息が止まり、心臓の動きも静かに止まっていったそうです。 年をとってからは、このような最後を迎えられたのも、本人の日頃の生活態度にあったのかなとも思いました。
青春時代の娘の頃は、硬派で女番長をやるような人で、後年、一の子分であったとされた京都の常子おばさんが、我が家に来た時には、母は、常子、常子と呼び捨てにしては、あれしろ、これしろと命令口調で、こちらがはらはらするぐらいでした。 常子おばさんも、そのように母に言われても、嬉しそうに、はい、はいと言いながら従っていました。
気が強かったために、いつも父と喧嘩が絶えなかった夫婦関係。 その間に挟まれた私達姉弟3人は、そんな雰囲気に耐え切れず、早く家を出て行きたいと思っていました。 先日、殆んど病院に来なかった弟も、久しぶりの母の寝顔をみて、すごく、穏やかでいい顔になったね、と話していました。
私は、母にはいつも、父があちらのほうで忙しく、迎えにはなかなかこれないので、もう少しこっちで頑張っていてほしい、と言っていたよ、と話しますと、また、相場でもやって金儲けに忙しいのかね、という話のやり取りをすることも多かったです。
娘が、パパは猫のリュウちゃんもいないし、もう誰もかまう人がいなくなったね と話し、なんとなくさびしい感じもいたしました。
立ち会った看護士の方の話から、最後まで苦しまなかったですね、という一言もありましたが、すーと息が止まり、心臓の動きも静かに止まっていったそうです。 年をとってからは、このような最後を迎えられたのも、本人の日頃の生活態度にあったのかなとも思いました。
青春時代の娘の頃は、硬派で女番長をやるような人で、後年、一の子分であったとされた京都の常子おばさんが、我が家に来た時には、母は、常子、常子と呼び捨てにしては、あれしろ、これしろと命令口調で、こちらがはらはらするぐらいでした。 常子おばさんも、そのように母に言われても、嬉しそうに、はい、はいと言いながら従っていました。
気が強かったために、いつも父と喧嘩が絶えなかった夫婦関係。 その間に挟まれた私達姉弟3人は、そんな雰囲気に耐え切れず、早く家を出て行きたいと思っていました。 先日、殆んど病院に来なかった弟も、久しぶりの母の寝顔をみて、すごく、穏やかでいい顔になったね、と話していました。
私は、母にはいつも、父があちらのほうで忙しく、迎えにはなかなかこれないので、もう少しこっちで頑張っていてほしい、と言っていたよ、と話しますと、また、相場でもやって金儲けに忙しいのかね、という話のやり取りをすることも多かったです。
娘が、パパは猫のリュウちゃんもいないし、もう誰もかまう人がいなくなったね と話し、なんとなくさびしい感じもいたしました。
母親は一家の中で、大黒柱ではなかもしれないけど、家族を繋いでいてくれる糸のような存在ですからね。それでも、私よりもずっとずっと長く、お母さん様の体温を感じていらして、羨ましかったです。お母様もまた、息子さんの体温を感じることができて、お幸せだったと思います。
私も母が亡くなりましたが、また、あちらで会えると思っています。
体は仮の姿で、魂(生きる元気)は天に帰ったということでしょうか。 3日間一緒に過ごしたせいか、悲しみよりもなんとなく、清々しい気分ではあります。 思い出したときには、涙を出すこともあるでしょうが。