ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

2人のお子さんを育てるご婦人の話を聞いて改めて自分たちはどうであったかと

2018-04-19 02:01:29 | 家族

私が多摩ニュータウンに引っ越して来たのは、昭和47年だったと記憶しております。 清瀬市で生まれた長女が、丁度、1歳になったばかりの時でした。

私は虎ノ門にある建築設計事務所に勤めており、連れ合いも清瀬にいた時の不動産屋さんを辞めました。 私1人の給料での親子3人での生活です。 その1年後に長男が生まれました。

子供たちが小学校に通うようになってから、私自身は事務所を8年で退職し、自立することにしました。 ゼロからのスタートでしたので、取り敢えず先輩の事務所から手伝ってくれないかという話で、高田の馬場まで手伝いに行っておりました。

手元に入るお金が少ないので、学費補助を頂く生活を数年続けることにもなりました。 先輩事務所のお手伝いをするようになって1年目に、人のお手伝いをするために事務所を辞めた訳ではないはずだと考え、全くゼロからのスタートをすることにしました。

少ない貯金も底をつき、母から当面の生活資金として300万円を借りました。 多摩ニュータウンは民有地を区画整理されて、有効利用は未だ手付かずの状態でした。 虎ノ門に通っていた時には、駅まで通う通りにある空き地を見ても、何も感じなかったのですが、土地の所有者を調べ、公図を取得して建築計画の提案をすることになりました。

1週間ぐらいかけて作った計画案と、収支計画表を持って飛び込みで説明に上がりました。 公団の住宅の設計を手掛けていた経緯から、民有地を利用しての賃貸住宅や、先輩事務所が手がけていたスポーツクラブのピープルの誘致を勧めました。

たまたまピープルの副社長さんが、富士銀行の聖蹟桜ヶ丘支店の初代の支店長さんであったことも幸いし、ぜひ多摩市でピープルの施設を造りたいとの意思が強く、結果的に始めた計画した施設が、多摩センターに造られることになりました。

丁度その頃、経済的に豊かでなくても精神的に豊かになれるはずと思って、仕事もないのに朝の6時から9時過ぎまで、テニスをすることになったのです。 テニスはコートの改修工事が始まる前まで、雨が降らない限り毎日3年間続けました。

ピープルの建設以降、皆さんから応援を頂くようになり、次から次へと建設計画が実施されることになりました。 母から借り入れたお金も返済し、生活資金も少なからず送金出来るようになりました。

子供たちが通った塾等は、お絵描き教室、エレクトーン音楽教室、そしてピープルでの水泳教室でした。 泳ぐ姉弟の姿を頼もしく見ていたのは言うまでもありません。

督促状をもらっていた奨学金の返還も、何とか遅ればせながら返せた記憶が、ぼんやりと残っておりますが。



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