禅僧は瞑想と坐禅の違いをよく強調されますが、はじめに悟りを開いて仏教を起こしたのは、お釈迦さまではないのですかといいたいところです。
誰がコメントされたかは分かりませんが、wikipediaに「坐禅はMeditation(瞑想)と翻訳される場合があるが、目を閉じて思考する瞑想と坐禅は別概念であると。
一般的に禅宗のお坊さんは、上記のようなことを話される場合が多いようです。
今日の仏教の源であるお釈迦さまは、いわゆる厳しい修行をされてもなお悟りを得られることがなく、菩提樹の下で胡坐を組んで、いかにしたら多くの人々の苦しみを救うことができるだろうかと、瞑想を始められたといわれています。
悟りを開いたお釈迦さまの姿(目は半眼になっていたという姿)を見て、目は半眼にするものだと弟子の方々が、書き記したのでしょう。
私は自分の体験から、お釈迦さまは瞑想をされたとき、力が抜けて目が自然と半眼になったと思っています。 半眼は意識するものではなく、力が抜けてくれば究極的には、目は自然と半眼になると感じています。
力を抜いてリラックスし、上半身を頭のてっぺんが天から引っ張られるように、胡坐を組んで座り、長く吐く呼吸だけに意識を集中することによって、ある意味では「無心」や「無」に近づくものと感じています。 それが座禅の基本だと思っております。 これは臨済宗・黄檗宗の場合です。
ただし禅宗の中でも曹洞宗では、壁面の一点を半眼で見つめるというのが、座禅の基本です。 私は、この意識の集中の方法は、とても難しいと感じています。 呼吸は普通呼吸になります。