付録1-2継手・仕口の実際 土台・1階床組-1

2020-03-18 11:07:22 | 継手・仕口

PDF「継手・仕口の実際 土台~2階床組~軒桁」A4版26頁

付録1-2 継手・仕口の実際

1.土台まわり・1階床組   2.通し柱と2階床組  3.軒桁・小屋梁の継手・仕口

                    (付録1 継手・仕口の基本原理  2019年2月投稿記事へのリンク)

参考 木材の特性とその活用:背と腹

斜面に育つ樹木は、谷側から山側に反るように育つ。谷側を背、山側を腹と呼ぶ。背側は年輪幅が狭く固く、腹側は年輪幅が広い。このような傾向は、日本のような急峻な地形で育つ樹木に著しい。曲げの力を受ける胴差・梁などでは背を上側にして(上側に反り気味に)用いるが、出梁のような場合(片持ち梁)には、腹を上側にして使う。このような木材の特性は、現場で様々に工夫され、利用されてきた。 図は齋藤兵次郎著 日本家屋構造  明治37年発行より

                                     

                                            

1.土台まわり・1階床組             (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

1)柱と土台の仕口(一般箇所)   柱は土台にほぞ差しで固定する。

                               (作図は仕上り4寸角を想定して描いています。)

①長(なが)ほぞ差し柱の根元に長ほぞ(長さ3寸:9㎝程度)を刻み、土台に設けたほぞ穴にはめ込む。柱に横から力がかかると、土台に接する柱の木口ほぞが転倒に対して抵抗する。ほぞが深いほど摩擦が大きくなり抜けにくい。そのため、ほぞとほぞ穴は、きつめに加工する(ただし、きつすぎるとほぞ穴が割れる)。

②長ほぞ差し・込(こ)み栓(せん)打ち長ほぞ差しとした上、込み栓打ちとすると、さらに抜ける心配はなくなる。込み栓打ちは木材の弾力性を利用しているため、金物に比べ、なじみがよく、緩むことがない。込み栓は、堅木で造り、先細に加工する。丸棒型と四角棒型とがある。込み栓の穴は、刻みの段階で設けるのが丁寧な仕事であるが、組んだ後で設けることもできる。告示第1460号では、引張り筋かい(片側)を入れた軸組の柱下部は、長ほぞ差し込み栓打ちでよい。

③短(たん)ほぞ差し短ほぞ差し(長さ1寸:30㎜程度の短いほぞ)の柱は、ほぞの抵抗が小さく、横からの力で抜けやすい。短ほぞ差し+補強金物(かど金物、山形プレートなど)とすることが多い。告示第1460号では、部位に応じて金物の種類を指定している。 短ほぞ差し+補強金物は、横揺れが反復するとほぞの抵抗が小さいため、金物取付け部に負担がかかり、釘が緩む可能性が大きい。

注 ほぞ:枘  突起物をいう。臍と同源。古くは「ほそ」と発音したと言われる。果実の「へた」も「ほぞ、ほそ」と言う。

 

2)土台をT字型に組む仕口と柱の取り付け

 土台がT字型に組まれる箇所は、通常、土台と土台の仕口、土台と柱の仕口が重なる。

 

①平ほぞ(横ほぞ)差し・柱 重(じゅう)ほぞ       (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

②平ほぞ(横ほぞ)差し・割楔(わりくさび)(し)め・柱 短ほぞ

片方の土台に造り出した横向きの長いほぞを平ほぞまたは横ほぞという。

柱に刻んだ重ほぞ重ねほぞともいう)で、土台の平ほぞを縫う。 重ほぞがの働きをして、土台と土台および柱の三者が堅固に接合される。 補強は不要。

平ほぞを相手の土台にあけたほぞ穴に差し、ほぞの端部を割楔で締め固める方法を平ほぞ横ほぞ差し割楔締めと呼ぶ。土台相互は強固に接合される。しかし、この箇所に立つ柱のほぞは、土台の平ほぞにあたるため短ほぞになる。法規上は柱と土台の接合に補強を求められる。

ほぞの先端にあらかじめ鋸目(のこめ)を入れておき、ほぞを差したあと、鋸目を打ち込み、接合部を密着させる方法を割り楔締めと呼ぶ。ほぞ穴を外側(楔を打つ側)に向かってわずかに末広がりに加工しておくと、を打つとほぞの先端蟻型に広がり、さらに堅固に接合される。

 

  

             

③腰掛け蟻掛け・柱 長ほぞ差し一般に多く用いられる方法。 片方の土台に、腰掛けを設けた蟻型を造りだし、他方に刻んだ蟻型の凹型に掛ける方法を 腰掛け蟻掛け(または、腰掛け蟻)と呼ぶ。柱の根ほぞ長ほぞ差しが可能。

④大入(おおい)れ 蟻掛け・柱 短ほぞ差し+補強金物簡易な方法として多用される。 大入れ材の全形を相手側に刻む方法。 腰掛けのような受けがないため、基礎が平坦であることが前提となる。

短ほぞ差し+補強金物は、横揺れが反復すると、ほぞの抵抗が小さいため、金物取付け部に負担がかかり、釘が緩む可能性が大きい。             

 

3)隅部の土台の仕口、隅部の柱の取付け  土台の隅部は、軸組の安定を保つために、きわめて重要。

(1)土台を優先する(土台を直角に回す)場合

 

①平ほぞ差し・柱 重ほぞ一方の土台端部を柱幅ほど外側に出し、T字型の土台の場合と同じ方法で納める。土台を表しとする場合(真壁)に適する。土台相互、柱の三者が堅固に接合される。大壁仕上げとする場合は、土台を表しとして、土台より上部を大壁にすれば可能である。 平ほぞ差し割り楔締め・柱短ほぞも可能だが、強度の点で、平ほぞ差し・柱重ほぞが適切。

②小根(こね)ほぞ差し割楔締め(目違(めちが)い付)・柱 扇ほぞ通常のほぞより幅の狭いほぞ小根(こね)ほぞと呼ぶ。 小根ほぞ差しは、ほぞを刻んだ側(差す側)の土台が捩れやすい。目違いを設けて捩れを防ぐ。

隅部は、土台の端部であるため、通常のほぞ穴を刻むと割れて飛ぶ恐れがある。土台のほぞを小根ほぞ、柱の根ほぞを短ほぞとすれば納まるが、ほぞ穴が割れ飛びやすい。これを避けるために、短ほぞの形状を、力が木目に沿って流れないように扇形(端部に向かって逆蟻型)に刻む。これを扇ほぞと呼ぶ。割れやすい材(ベイマツなど)には不向き。法規上、筋かいが足元に取付く場合は、金物補強を求められる。

 

 (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

③向う大留(おおど)め(目違(めちが)い付)土台の隅を留めに納め、土台の木口(端部)を見せない方法。基本はに同じ。目違いを設けた方が確実。良材でないと、留めがきれいに仕上がらない。見えがかりを重視した仕口で、真壁向き。

 

大入れ・小根ほぞ差し割楔締め・柱 扇ほぞ柱が捩れに耐えられない(アンカーボルトに頼る)。柱には法規上補強金物が求められる。

⑤片蟻掛け・柱 扇ほぞ通常の蟻型では受ける側(下木)の端部が割れ飛ぶため、位置を内側に寄せ、蟻型も半分にする。最近使用例が多い仕事。柱が捩れに耐えられない(アンカーボルトに頼る)。柱には法規上補強金物が求められる。

 

 

(2)隅部で、柱を優先させる場合  土台を回さず、隅柱の側面に土台を納める。通常真壁仕様で用いるが、大壁使用でも可。

 

①蟻落とし土台の端部に蟻型を造り出し、柱に同型の凹型を刻み、土台を据えた後、柱を落として納める。土台が捩れないように、通常は胴突(どうづき)を設ける。二方に蟻型を刻むため、胴突の深さを調節して蟻型同士のぶつかりを避ける。 そのために、柱は4寸(120㎜)角以上必要。二方の土台に胴突付の蟻で取付くため、柱の引き抜き、転倒に対して強い。 玄関の柱、土台幅より太い柱などを土台に納めるときにも用いる(農家の大黒柱)。

 

(3)段違いの土台と柱の取付き      (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

      

①寄せ蟻および蟻落とし段違いの二方向の土台に柱を蟻落としで納める。高い方の土台は、柱の土台を納める位置に逆蟻型を、その下部に土台の蟻型が全部入る大きさの穴を刻み、土台の蟻型をその穴に一旦入れた後、柱を下方へ寄せて落とし込むので寄せ蟻という。落とし込むと、穴は隠れる。低い方の土台は、通常の蟻落としで納める。

②小根ほぞ差し 割楔締めおよび蟻落とし玄関まわりなどの土台に段違いがある場合に用いる。低い方の土台に蟻落としで柱を立て、小根ほぞを刻んだ土台を横から差し、割楔で締める。胴突を必ず設ける。横から差すため建て方で苦労するが、強度は確実。

 

(4)礎石(石場)立て独立柱と土台の取付き      (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

①小根ほぞ差し 割楔締め ②小根ほぞ差し 込み栓打ち ③小根ほぞ差し 割楔締め、小根ほぞ差し 込み栓打ち 併用:柱に二方向から横材を取付けるときの基本的な方法で、土台以外でも常用する。 材の上側に造る小根ほぞ上小根(うわっこね)、下側に造るのを下小根(したっこね)と呼んでいる。柱の内部でほぞ穴が上下で交叉する。 捩れ防止のため、必ず胴突を設ける。

 

(「1.土台まわり・1階床組-2」へ続きます。)

 

   


付録1-2 土台と1階床組-2

2020-03-18 11:06:59 | 継手・仕口

付録1-2 継手・仕口の実際

1-4)土台の継手       (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

a)土台を布基礎の上に据える場合:通常は下記の継手が使われるが、次項b)の(ぬの)継ぎ、金輪(かなわ)継ぎを用いることもある。

 

      

①腰掛け 鎌継ぎ(腰掛け+鎌継ぎ): 腰掛け鎌継ぎを組み合わせる。竿部分+鎌部分の全長は、 最小でも4寸(120㎜)必要(4寸鎌)。鎌に引き勝手を付けるとよく締まる (点線)。全長が長い方が、直線を保つ効果が大きい。

②腰掛け 鎌継ぎ(目違(めちが)い付):材下部の捩れを防ぐため、目違いを付け加える。よりも確実。

 

 

           

③腰掛け 蟻継ぎ:一般に多く見られる継ぎ方。 竿がないので、継いだ二材を直線に保ちにくい。           

腰掛け 蟻継ぎ(目違(めちが)い付)材下部の捩れを防ぐため、目違いを付け加える。 

 

  

⑤蟻継ぎ丈1寸程度の蟻型だけで継ぐ簡易な方法。強度は弱い。

⑥全蟻継ぎ:材寸いっぱいの蟻型を設けて継ぐ簡易な方法。 材相互の不陸を起こしやすい。

⑦腰掛け+補強金物(かすがいなど): 横ずれを起こしやすく、金物が緩めば材が離れる。きわめて簡易な方法。    

 

b)土台下に布基礎がない場合(土台を独立基礎上の束柱で支持する場合など)梁・桁と同様と考える。

 

   

①布継ぎ:二材同型の(かぎ)型に刻み、合わせ目の空隙にを打つと二材が密着する。きわめて堅固。桁・梁などにも用いる。

 

  

②金輪(かなわ)継ぎ(2階床組で解説)を縦使いにした継手だが、部分にも目違いを設ける。きわめて堅固。Bを水平に移動しを打つと、AB二材が密着する。桁・梁などにも用いる。 

     

       

追掛(おっか)け大栓(だいせん)継ぎ(2階床組で解説)上木を落とし込み二材を密着させ、横からを打つ。きわめて堅固。 

以上の①②③は二材を堅固に接合する方法。普通は、腰掛鎌継ぎが一般的。架構を立体化するためには、少なくとも③追掛け大栓継ぎの利用が望ましい。

二材を密着させる方法として、現在はボルト・ナットによる締め付けが多用されるが、多くの場合、木材の収縮に対応できず、時間を経ると緩むことが多い。

これに対して、木製の割楔)を打つ方法は、弾力性・復元性(と打ち込まれる材がともに木材であるため、双方に弾力性・復元性がある)と相互の摩擦を応用したもので、打ち込み後の緩みが生じることはきわめて少ない(ただし、貫と柱の仕口に使われる楔は、振動により、しばしば緩むことがある。⇒清水寺の床下は、常に点検がなされている)

 

                 写真は土台T字仕口:腰掛け蟻、継手:腰掛け鎌継ぎ(目違い付き)                                

④腰掛け鎌継ぎ(前項参照):使われることが多い継手だが、継手だけでは架構を一体化できない。継手に無理がかからないように注意する。たとえば、束柱相互が貫などで一体に組まれている場合には、継手に無理がかからないため、使用が可能である。

⑤腰掛け蟻継ぎ(前項参照):簡便である。                                                                 

 

 

5)材の割付け(規格材を使う場合)

①材端部の傷みの部分(両端それぞれ約15~30㎜ 計30~60㎜程度)は使えない。

②継手または仕口の長さの分、両端で相手の材と重なる部分がある。

したがって、材の規格長さ ≧{材端の傷み(約15~30㎜)+継手・仕口長さ ~ 継手・仕口長さ+材端の傷み(約15~30㎜)} 下図に一例を示します。

 

6)土台と大引の組み方・仕口、床束

a)大引の天端(てんば)を土台と同じ高さに組む :土台も根太を受ける。大引を土台と同時に組む。

   

 

b)大引を土台に載せ掛ける土台際(どだいぎわ)根太掛けが必要。柱通りの大引は土台際に束が必要。

  

 

大引を土台天端と同面に納める(天端(てんば)同面(どうづら)) 

        

①腰掛け 蟻掛け腰掛けで上下の動きを止め、ではずれを防ぐ。通常行われる方法。

②大入れ 蟻掛け全蟻を造り出し、大入れで土台に掛ける。確実な方法。図のが小さいときには不可(土台4寸角、大引3.5寸角とすると、aは0.5寸:15㎜程度しかない)。

 

  

③大入れ大入れだけで納めると、収縮により、はずれることがある。 図のが小さいときには不可。                   

④蟻掛け:簡易な方法。蟻首がとぶ(折れる)恐れがある。 

b)大引を土台に載せ掛ける大引の土台にかかる部分について、上記(a)②、③、④が用いられる。確実なのは大入れ蟻掛けである。                           

 

7)大引と床束の取付け

 

①目違いほぞ床束頂部に目違いほぞを造り、大引からのはずれを防ぐため大引に彫ったほぞ穴に横からはらいこむ。

②吸付き蟻床束の頂部に蟻型を造りだし、大引下端にその逆型を刻み、 床束を横からはらいこむ。よりも確実な方法。

 

    

 

③びんた(鬢太)出し 釘打ち材の一部を欠き取り、残った部分をびんた鬢太)と呼ぶ。びんづら鬢面)とも言う。床束の頂部をびんたにして大引の側面にあて、釘打ちで留める。床の振動で釘が緩む可能性もあるが、一般に行われる丁寧な方法。土台隅に使う向う大留めびんたの利用。

④かすがい留め現場あたりで長さを決め、床束の頂部を加工せず、大引下にはらいこみ、かすがいで留める。よく見かける簡易な方法。床の振動で緩む可能性が高い。

 

床束は、束石礎石)を適宜配置し、場所ごとに高さを現場あたりで据えつける方法が一般的。基礎工事時点、基礎同様の精度で礎石を設置すれば、床束も加工場であらかじめ刻んでおくことができる。なお、大引面に不陸が生じた場合には、束の下部にを二方向から打ち込み調整する。

 

 

図版等ブログ内掲載記事:補足「日本家屋構造」-1・・土台まわりの組立てかた

 


付録2-1 通し柱と2階床組-1

2020-03-18 11:06:33 | 継手・仕口

付録1-2 継手・仕口の実際  PDF「継手・仕口の実際 土台~2階床組~軒桁」A4版26頁

2.通し柱と2階床まわり

   参考 実施設計図 矩計図に記入すべき寸法

図面の寸法指示は施工手順に応じた分りやすい指示が必要。
一次的な寸法:主要基幹部:軸組部の位置を先ず明快な寸法(ラウンドナンバー)で示し、次いで二次的な寸法:仕上げ床面位置等を、主要基幹部(土台天端、梁天端など)からの明快な数値(ラウンドナンバー)で示す。 →「確認申請」図書に記入の数値が゙、ラウンドナンバーである必要はない。

 

1)通し柱・管柱の役割

2階建て以上の建物では、一般に、通し柱と管柱を併用する。 

その配置は、平面:間取りを考えるときに、全体の架構を考えながら決定する(平面:間取りを決めた後に架構を考えると、無理が生じることが多い)。

通し柱:建物の隅部や中央部に立て、側面に二~四方向から横架材:胴差・梁が取付く。横架材の取付けのためには、仕口加工の点で、最低12㎝(4寸)角以上が必要である。 通し柱の役割は、1・2階を通しての垂直の基準となり、横架材の組立てを容易かつ確実にするためにあると考えてよい。現行法令は、原則として、隅柱通し柱とすることを求めている(施工例第43条5項)。ただし、この規定から通し柱を設けると軸組の強度が上がる、と理解するのは誤り。 軸組の強度は、通し柱への横架材の取付け方(仕口)に左右される。

管柱(くだばしら) :1階においては土台胴差・梁の間、2階においては胴差・梁軒桁・小屋梁の間に立てる柱を言う。外力(荷重など)を効率よく伝えるため、通常は1~2間(約1.8~3.6m)間隔。管柱も隅柱と同寸(4寸:12㎝角以上)にすると、強度、壁の納まりの点で良好。平面の凹凸とおりに柱を配置する必要はなく、押入れ、床の間、棚などでは、半柱で造れる場合がある。

 

2)通し柱、管柱と横架材の組み方

胴差・梁に用いる材の長さには限界があるため、架構にあたり、①通し柱間に横架材を取付ける、②横架材継手で延長する、③前二者の併用、のいずれかを選択することになる。  

具体的には、次の方法が考えられる(図は胴差と梁を天端同面の場合。胴差への梁の架け方は次項参照)。

    

架構法A:総2階の外隅柱、または2階部分の外隅柱通し柱とする。 胴差・梁は、必要に応じて継手で延長し、1階管柱で支える。

架構法B:総2階または2階部分の外隅柱と、中央部付近の柱を通し柱とする。胴差・梁は必要に応じて継手で延長し、1階管柱で支える。 

架構法A架構法Bは一般的に用いられる。

 

   

架構法C:総2階の外隅柱、または2階建部分の外隅柱通し柱とし、 さらに、2~3間ごとに(通常、間仕切りの交点)通し柱を立て、通し柱間に継手なしで横架材を組み込む。江戸・明治期の商家・町家に多い。必要に応じて(横架材が長い場合など)、1階に管柱を立てる。横架材を表し仕上げにする(継手を見せない)場合に有効。確実な仕口が求められる。確実な仕口とした場合、架構は堅固になる。刻み、建て方に日数を要する。

架構法D:梁間中央に通し柱を並べ立て、両側に向けを出し、両端部を管柱で支える。 切妻屋根の場合、棟通りの通し柱棟木まで伸ばし棟持(むなもち)とすることがある。 2階にはねだし部分やバルコニーを設ける際に応用できる。山梨県塩山、勝沼周辺の養蚕農家に多く見かける(例 塩山駅前にある重要文化財「甘草屋敷」)。

 

3)胴差・床梁・小梁・根太の組み方(床組):床伏の考え方

(1)床梁・小梁の位置  

床梁:通常1間(通常は6尺:1,818㎜)間隔以下に配置する。

小梁:丈45~60㎜程度の根太は、小梁を@0.5間(通常3尺:909㎜)以下に設けて支持する。

床梁、小梁の位置は、階上・階下の間仕切位置とずれないことが望ましい。仕上げにフローリングなどの方向性のある材料を使うときは、根太、小梁の方向の検討が必要。したがって、床梁、小梁の配置は、平面:間取りと並行して検討する。

 

(2)床梁・小梁の高さ:胴差に床梁・小梁をどの高さで納めるか 

 

組み方A 梁・小梁を、胴差の天端同面(てんばどうづら)に納める矩計の計画が容易であり、階上の管柱の取付けにも問題が起きない。階下に管柱がない場合は、胴差の丈≧梁の丈であることが必要。

根太の納め方 胴差・梁・小梁に乗せ掛ける。根太は連続梁と見なせる。柱際に際根太が必要になる。

①-a 丈75㎜程度以下の根太の場合は小梁が必要。 

①-b 丈75㎜程度以上の根太の場合は胴差・梁へのかかりで床高を調整できる。根太のスパン(梁間隔)が6尺(1,818㎜)程度以下であれば、小梁は不要。

 

② 胴差・梁・小梁間に落とし込む根太は単純梁となるので、通常は、根太の支持間隔は6尺(1,818㎜)程度以下、丈は75㎜程度以上必要になる(荷重と根太間隔による)。際根太は不要。根太による床高調整はできない。 

 

組み方B 梁を胴差に乗せ掛ける胴差の丈<梁の丈の場合も可能。階上の管柱と梁の取合いに注意が必要。           

ア)梁の端部胴差の内側に揃える:階上管柱を、胴差上に立てることが可能。ただし、柱と梁の取合いに注意が必要。→後掲6)(2)②で解説 

 

 

イ)梁の端部胴差の外側に揃える:階上管柱梁の端部に立てることになり、確実ななほぞがつくれず(短ほぞの扇ほぞになる)、不安定になるため、台輪を梁上に乗せ台輪に柱を立てる。

 

 

ウ)梁の端部胴差の外側まで出す:胴差の仕口も確実になり(渡りあご)、柱も梁上に長ほぞで立てることができる。梁の端部が表しになり、大壁仕様には向かない。なお、梁を外側に大きく出せば、2階を張り出すことができる(前項架構法D参照)。

いずれの場合も、根太の納め方には、①梁に乗せ掛ける方法(連続梁と見なせる)②梁間に落し込む方法(単純梁となる)があるが、ともに際根太が必要になる。

 

4)胴差・梁・桁の継手

胴差・梁・桁は曲げの力を受けるため、継手位置は、曲げモーメント、たわみが最大になるスパン中央部を避け、管柱から5寸~1尺(150~300㎜)程度持ち出した位置が適当。

力を伝達できる継手は追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎなどに限られる(その場合でも、建て方時は不安定なため、管柱から5寸~1尺5寸:150~450㎜程度の位置で継ぐ)。

①追掛(おっか)け大栓(だいせん)継ぎ       (作図は仕上り4寸角を想定して描いています。)

   

曲げのかかる材(胴差・梁・桁・母屋)を継ぐときに使われる確実な継手。 継いだ材は1本ものと同等になる(継手を経て応力が隣へ伝わる)。上木下木からなり、下木を据えたあと、上木を落としてゆくと、引き勝手がついているため両材が密着する。次いで、肉厚の厚い方からを打つ(2本のは打つ向きがちがう)。建て方の際、上から落とすだけでよく、また材軸方向の大きな移動も必要としない(多用される理由)。

側面に継ぎ目線大栓の頭が見える。管柱の根ほぞ、頭ほぞは長ほぞが適切。継手長さは8寸(24㎝)以上、長い方が良い。手加工では、上木と下木のすり合わせを行うため、1日1~4箇所/人という。現在は加工機械が開発されている。

 

②金輪(かなわ)継ぎ          (作図は仕上り4寸角を想定して描いています。)

 

曲げのかかる材(胴差・梁・桁・母屋)を継ぐときに使われる確実な継手柱の根継ぎ(ねつぎ)(腐食した柱の根元の修理)などにも用いられる。継いだ材は1本ものと同等になる。

継がれる2材A、Bの端部の加工は、まったく同型で、上木、下木の別がない。二方向の目違いの加工に手間がかかる。 A、B2材を図1のように置くと、目違いの深さ分の隙間があく。両材を寄せて目違い部分をはめると中央部に隙間ができる。そこに上または下からを打ちこんでゆくと、目違い部がくいこみ、図2のようにA,B2材が密着する。側面には、目違い付き継目線が見える。

追掛け大栓継ぎとは異なり、側面から組み込むため、建て方前に、地上で継いでおく方が容易。建て方時に継ぐには、追掛け大栓継ぎが適している。

 

③腰掛け 竿シャチ継ぎ(目違い付)

 

下木を据え、長い竿を造り出した上木を落とし、上面からシャチ栓を打つ。シャチ栓の道を斜めに刻んであるため(引き勝手)、を打つと材が引き寄せられ圧着する確実な継手。

材相互が密着して蟻継ぎ鎌継ぎよりも強度は出るが、応力を十分に伝えることはできず、曲げモーメントは継手部分で0:継手箇所を支点とする単純梁になると見なした方が安全である。目違いは捩れ防止のために設ける。

 

④腰掛け鎌継ぎ(目違い付)+補強金物     ⑤腰掛け蟻継ぎ+補強金物

     

④腰掛け鎌継ぎ(目違い付)+補強金物:土台の継手参照。丁寧な仕事の場合は、引き勝手をつくり、上木を落とし込むと材が引き寄せられる。目違いは捩れ防止のために設ける。蟻継ぎに比べると、曲げがかかっても継手がはずれにくい。ただし、応力を十分に伝えることはできず、継手箇所を支点とする単純梁になると考えた方がよい。補強金物は、平金物が普通で、簡易な場合はかすがいが用いられる。の方がねじれに強い

⑤腰掛け蟻継ぎ+補強金物土台の継手参照。応力を伝えることはできず、継手箇所を支点とする単純梁になると見なせる。材長の節減、手間の省力化のために用いられる方法であるが、曲げがかかると鎌継ぎに比べ、継手がはずれやすい。 

注 ④鎌継ぎ⑤蟻継ぎが胴差・梁に用いられるようになるのは、耐荷重だけを重視する工法になってからである。元来は、主に、土台母屋などに使われてきた継手である(丁寧な場合には、母屋にも追掛け大栓継ぎを用いている)。

 

(「2.通し柱と2階床組ー2」に続きます。)


付録1-2 通し柱と2階床組-2

2020-03-18 11:06:08 | 継手・仕口

付録1-2 継手・仕口の実際

2-5)通し柱と胴差・梁の仕口

(1)隅の「通し柱」の場合

①小根ほぞ差し 割り楔(くさび)締め・小根ほぞ差し 込み栓打ち  (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

 

隅の通し柱へ胴差・梁を取付ける確実な仕口。 

割り楔締めほぞを柱に貫通させ先端にを打ちこむ。ほぞの先端が広がり抜けなくなる。

込み栓打ちほぞを柱に貫通させ柱の側面から込み栓を打つ。栓によってほぞが抜けなくなる。

割り楔・込み栓には堅木(カシなど)が用いられる。割り楔・込み栓は、木材の弾力性・復元性を利用する方法で、確実に(きつめに)打ってあるか否かで強度に大きな差がでる。

柱内でほぞが交叉するため、ほぞ小根(こね)にする(上小根(うわっこね)、下小根(したっこね)

どちらを上小根、下小根にするかは任意。胴差側を下小根、梁側を上小根にすれば、梁天端高さ≧胴差天端高の場合に対応できる。

図は梁を割り楔締め、胴差を込み栓打ちにしているが、その選択は任意(両方割り楔、または込み栓でも可)。柱は最低でも4寸角以上必要。

 

②小根ほぞ差し 鼻栓(はなせん)(端栓)打ち       

  

図のようにほぞの先端を柱の外に出し、柱面に沿い栓を打ち (鼻栓打ち)、ほぞを固定する確実な方法。注 鼻=端  真壁仕様に用いられるが、ほぞが飛び出す分、材長が必要となる。米マツなどの割れやすい材には不向き。

①、②とも、柱と胴差・梁はほぼ一体化し(胴差・梁端部はほぼ固定端となる)、半ばラーメン状になり、胴差・梁にかかった曲げに対して、柱も共に抵抗することになる。

 

③傾木(かたぎ)大入れ 全短ほぞ差し+補強金物 ④傾木大入れ 小根短ほぞ差し+補強金物

  

「在来工法(法令仕様の工法)」で見かける方法。端部加工が短いため、材は長く使える。傾木大入れとほぞだけでは柱から容易にはずれてしまうため、羽子板ボルトなどで補強する。ボルトの取付けナットは、材の木痩せと曲げの力の繰り返しにより緩むことが多い。 補強金物を用いても、胴差・梁は柱に緊結されないから、胴差・梁は単純梁となる。

 

(2)中間の通し柱の場合

二方~四方から胴差・梁が取付き、それぞれ二方差(にほうざ)し、三方差(さんぽうざ)し、四方差(しほうざ)と呼ぶ。 

①竿シャチ継ぎ・(やと)い竿シャチ継ぎ(目違い付)   (作図は仕上がり4寸角を想定して描いています。)

 

柱への胴差・梁の仕口であるが、柱を介して左右二方の材が継がれるので「・・・継ぎ」と呼ぶ。中途の通し柱へ、胴差・梁を確実・堅固に取付けることができる。 柱の刻みの関係で、柱は4寸角以上必要。四方差しの場合は、できれば4.5寸~5寸角。胴差と梁に段差がある場合も使用可能

一材に竿を造り出し、柱を介して反対側の材に差し込み、シャチ栓を打ち相互を固める。シャチ栓を打つ道に、柱側に向け僅かな傾斜を付けてあるため(引き勝手)、栓を打つと両側の材が引き寄せられ、柱と胴差・梁が密着する。栓はカシなどの堅木。胴差・梁の端部がほぼ固定端となり、半ばラーメン状の架構となる。

竿の部分を造るには長い材が必要になるため、竿部分を別材で造る雇い竿シャチ継ぎがある。

なお、図の三方差しの場合、胴差を取付ける前に梁を差し、割り楔の代わりに込み栓を打つ方法:胴差の胴突内に隠れるので隠し込み栓という方法もある。(後出 日本家屋構造鴻の巣」)

また胴差も竿に対して側面から込み栓を打つ方法もある(この栓は外から見える)。効果は竿シャチ継ぎと同じ。

傾木大入れよりは手間がかかるが、この仕口を必要とする箇所は、通常、全軸組の中で限られており、軸組強度の点を考えれば、決して余計な手間ではない。

シャチ栓込み栓割り楔は、木材の弾力性・復元性を利用しているため、年月を経ても緩みが生じにくく、接合部自体も緩む可能性は小さい。

梁天端>胴差天端の場合の四方差し

   

 

②傾木大入れ 全短ほぞ差し+補強金物 ③傾木大入れ 小根短ほぞ差し+補強金物 ④傾木大入れ+補強金物⑤胴突き+補強金物 注 補強金物:羽子板ボルト、短冊金物、かね折金物、箱金など

②③④⑤は前項(「隅の通し柱の場合」)の図解参照。 取付けた胴差・梁は単純梁と見なされる。

補強金物の場合、金物の取付けボルトや釘は、材の木痩せや繰り返しかかる外力によって緩みやすく、荷重の伝達の不具合、建物の揺れを起しやすい。金物の緩みは隠れて見えないことが多いが、内装材のひび割れ、床・敷居の不陸などで現れることがある。コーススレッドを使用すると、緩みは避けられるが、木部が割れる恐れがある

 

6)胴差と梁の仕口、胴差・梁と管柱の仕口     

(1)胴差と梁が天端同面(てんばどうづら)の場合

 ①胴突き付 腰掛け蟻掛け  ②大入れ蟻掛け(解説図省略)

  

いずれも柱根ほぞ・頭ほぞは長ほぞ差し普通に行われる方法。柱ほぞは短ほぞ差しよりも、長ほぞ差しの方が適切である。込み栓を打てばさらに確実。

短ほぞ差しの場合は山型プレート、平金物などによる補強が必要。筋かいの取付く箇所では、ホールダウン金物を必要とする場合がある(告示第1460号)。

図Aは、胴差丈≧梁丈、天端同面の場合胴差下に管柱があるときは、胴突きを梁丈いっぱいに設けることができる。下に管柱がないときは、胴突きの丈を小さくして腰掛けの効果を確保する。

     

図Bは、梁丈≧胴差、天端同面の場合。下に管柱がなければ梁下端がこぼれる。梁の胴突きを管柱にのせかける。

大入れ蟻掛けで取付けるには、天端同面の場合は、胴差丈>梁丈でないと梁下端がこぼれるまた、下に管柱がないときは、胴差への梁のかかりが1寸(約30㎜)程度必要。必要な梁丈により胴差の丈を決める。梁は単純梁と見なされる。いずれの仕口も、金融公庫仕様は、胴差と梁を羽子板ボルトで結ぶことを指定。

 

(2)胴差に梁をのせ掛ける場合(梁天>胴差天)

①大入れ蟻掛け(解説図省略)梁が胴差にかかる部分だけ大入れ蟻掛けとする。普通に行われているが、安定度が劣るため羽子板ボルトより補強することが多い。上階の管柱の取付けが難しい。梁は単純梁となる。台輪を設けるか(前出 組み方B-イ)、梁を胴差外側まで伸ばし扇ほぞで立てる。これを解決する確実な方法が次の②である。

②胴突き付き蟻掛け+上階柱蟻落とし

      

梁端部全面に胴突き付き蟻を刻み胴差に掛け、上階の管柱を蟻落としで落とし込む。根ほぞは長ほぞが適切。下階の管柱は、胴差に長ほぞ差し。下階に管柱がなくてもできる。図は胴差に左右から梁が架かっているが、外周部など片側だけの場合も可能。見えがかりもよく、真壁仕様で用いられる仕口。

上下の管柱、胴差、梁が一体に組まれるため、梁端部は固定端に近くなる。上下の関係を逆にした納め方も可能である。 胴差端部に胴突き付き蟻型を造り出し、1階管柱に架け、残りの蟻型に胴突き付き蟻の逆型を刻んだ梁を落し込み一体化させる。

 

7)胴差・梁の継手と材の必要長さ

 

 

参考 「日本家屋構造」 所載の「2階梁と通し柱の仕口 鴻の巣」(付録1より再掲)

「・・右図の如く、横差物を大入れに仕付け、その深さは柱直径の八分の一ぐらいにして、(い)(い)の如く柱のほぞ(・・)穴左右の一部分を図の如くのこし他を掘り取り差し合す。この如くなしたるものを鴻の巣(こうのす)といふ。また鴻の巣をその差物の成(せい)(丈)の全部を通して入れることもあり。これ全く柱の力を弱めざるのみならず、その差物の曲(くるひ)を止め、かつ(ろ)の穴底に柱を接せしめほぞ(・・)を堅固ならしむるなり。
本図は二階梁の三方差にして斯くの如き仕口にありては、一方桁行はシャチ継ぎとなし、梁間の方を小根ほぞ差とす。(は)の込み栓を(に)の穴中より差し、かつ(ほ)の切欠きに(へ)の下端を通して梁の脱出(ぬけいで)するを防ぐものとす。」

日本家屋構造は、明治37年(1904年)に初版が刊行された木造建築の教科書で、著者は当時東京高等工業学校の助教授であった斎藤兵次郎である。この書は、「実務者」(*)養成の学校の教科書であり、明治期の木造建築についての教育内容を知ることができ、同時に、当時の木造建築の技術状況も知ることができる。 
*「頭と手を使い、実際にものをこしらえる人びと」のことで、「実業者」とも呼んでいる。
 

 

参考 柱の長さの検討
軸組部分の最下部は土台最上部は軒桁まわりであり、その間をどのように構成するかを考える。
市販の材木を使用する場合、土台~軒桁の高さ:柱の長さはほぼ決まる。市場流通の柱材正角材の規格長さ:3m(10尺)、4m(13尺)、6m(20尺)・・ 注 現在の木材規格は、通常の建物に間に合う寸法として、江戸時代に確立した規格を踏襲。 ただし、関東間向けであるため、関西間・京間(およびメートルグリッド)には適さない。

3mものは、通常の大きさの部屋を確保するときの管柱(比較的大きな部屋を設けるときには天井を高くするために4mものを使う)、6mもの通し柱4mもの土台、大引、小梁などの横ものとして使いやすい長さ(2間の間に渡せる)である。JAS規格相当品(同等品)でも、寸法規格は同じである。

通常の建物:1階の管柱に3m材、2階までの通し柱に6m材を使用。1階管柱に4m材を用いると通し柱は特注。


  

管柱の必要長さ =根ほぞ長さ+土台天端~胴差・梁下端の長さ+頭ほぞ長さ
通し柱の必要長さ=根ほぞ長さ+土台天端~軒桁・小屋梁下端の長さ+頭ほぞ長さ

根ほぞ(柱下部の土台あるいは胴差・小屋梁などに取り付けるためのほぞ)・頭ほぞ(柱上部の胴差・梁、軒桁・小屋梁などに取り付けるためのほぞ:いずれも長ほぞの場合は、ほぞの長さは最低3寸(9㎝)必要。 短ほぞ(1寸程度)は横および引き抜きの外力に対して不安。

必要な柱の長さ=見えがかり寸法(土台天端~胴差・梁下端)+最低6寸
また、材の端部には傷みがある場合があり、両端の1寸程度ずつは使えないと考えておく。 

 ∴3m材の最大可能見えがかり寸法=3m-ほぞ分18㎝-材端傷み分6㎝=約2.76m
   4m材の最大可能見えがかり寸法=4m-ほぞ分18㎝-材端傷み分6㎝=約3.76m
   6m材の最大可能見えがかり寸法=6m-ほぞ分18㎝-材端傷み分6㎝=約5.76m

 

8)梁と小梁の仕口

 小梁は、通常、天端を同面納めとする。

①大入れ蟻掛け小梁の断面の大小にかかわらず確実に納まる。単純梁と見なされるが、蟻掛けがあるだけ、②大入れよりも曲げに強い。

②大入れ:断面が小さい場合は大入れでも可。

 

9)根太と梁・小梁の仕口

(1)梁・小梁にのせ掛ける 根太用材の市販品の材長は3.65m、4mであり、乗せ掛ける場合は、連続梁と見なせる。

丈の小さい根太の場合(幅3.6㎝×丈4.5㎝、幅4.5㎝×丈5.5㎝など):乗せ掛けて釘打ち

丈の大きい根太の場合(幅4.5㎝×丈10.5㎝など):a)渡りあごを設けて釘打ちは梁を傷めず確実な納め。b)梁・小梁を欠き込み釘打ち:梁を傷める恐れがある。床仕上げの高さは、欠き込みの深さで調整する。

乗せ掛ける場合は、ともに、柱の際(きわ)には、際根太(きわねだ)を必要とする。

 

 

根太は、梁・小梁の上で継ぎ、特に継手は設けない。(そ)ぎ継ぎ(接続面を同じ角度に斜めに切り、重ねて継ぐ)にすると不陸が起きにくい。

継手箇所に近いスパンは、それ以外のスパンよりも、たわみが大きくなる(連続梁の特徴)ので、根太の継手を同一の梁・小梁上に並べて設けず、千鳥(互い違い)配置とする。

 

(2)梁・小梁と天端同面納め

根太は単純梁と見なせる。断面の小さな材は使えない。 スパンが3尺(909㎜)程度でも、幅1.3~1.5寸×丈3~3.5寸(40~45㎜×90~105㎜)以上の材が必要。

一般に大入れで取付けるが、単純梁になるため、荷重によりたわみで仕口に緩みが生じる恐れがある。刻みはきつめに造ることが求められる(釘打ちを併用しても、釘がきしむことがある)。荷重が大きいときには、1.5寸以上の幅の材を蟻掛けで納めると固定端に近くなり、同じ荷重でも、大入れに比べてたわみにくくなる。

下図は、激しい振動が加わる体育館の床: 丈120×幅60の根太を蟻掛けで掛ける(筑波第一小学校屋内体育館の床組の一部)

  

 

10)安定した架構を造る:通し柱・管柱と胴差・梁の組み方

普通に手に入る木材で、強度的に安定した架構を造るには、木材の性質を踏まえた確実な継手・仕口を用いて構成部材を極力一体化させることが最良である。

比較的簡単な継手・仕口と補強金物を用いる場合でも、一部分への応力集中が生じないように架構全体を見渡しながら構成部材を極力一体化させるように考える必要がある。

ここで紹介している継手・仕口は、経年変化の確認:実地での改良が積み重ねられてきたものであり、現在でも加工が可能である(多くは機械加工ができる)。

通常用いられるのは、架構法A、Bである(9頁の図再掲)。

  

 

ブログ内記載記事:補足「日本家屋構造」-3・・軸組まわり:柱と横材:の組立てかた(その2)12.08.07


付録1-2 軒桁まわり

2020-03-18 11:05:38 | 継手・仕口

付録1-2 継手・仕口の実際     PDF「継手・仕口の実際 土台~2階床組~軒桁」A4版26頁

3.軒桁、小屋梁の継手・仕口

1)軒桁の組み方:どの高さで組むか

(1)京呂(きょうろ)組の場合

組み方A 軒桁に小屋梁をのせ掛ける。一般的な方法。小屋梁に丸太太鼓落とし平角材のいずれを用いても可能。

 1)小屋梁を軒桁の内側に納める        2)小屋梁を軒桁の外側にまで渡す(仕口:渡りあご

    

一般に、丸太あるいは太鼓落としを用いる場合は1)が多い(補強を要求される)。2)の方が、強度的には確実(補強不要。ただし、梁の木口が外側に見えるため大壁造りには不向き)。

 

組み方B 軒桁と小屋梁を天端同面で納める小屋梁平角材を用いる場合に可能。

         組み方Bの例                                                                    

 

(2)折置(おりおき)組の場合

組み方A 小屋梁に軒桁をのせ掛ける梁は丸太太鼓落とし平角材いずれも可。 

組み方B 小屋梁に天端同面で落としこむ小屋梁が平角材の場合に可能。

 

         

2)軒桁の継手

軒桁は、京呂組折置組にかかわらず、連続梁と見なせるが、荷重のかかり方は異なる。

(1)京呂(きょうろ)組の場合小屋梁を受け、大きな曲げがかかることを考慮した継手が望まれる。

①追掛け大栓継ぎ ②金輪継ぎ(土台の継手に記載) ③腰掛け鎌継ぎ+金物補強 ④腰掛け蟻継ぎ+金物補強  

竿シャチ継ぎ(軒桁の継手参照)も可能だが、使われることは少ない。

 

(2)折置(おりおき)組の場合

垂木を経て屋根荷重を分散的に受けるだけであるため、曲げの大きさは京呂組に比べ小さく、断面は母屋程度でも可能。ただし、軸組の桁行方向の変動を考慮した断面とする必要がある。

①追掛け大栓継ぎ ②金輪継ぎ ③腰掛け鎌継ぎ+金物補強 ④腰掛け蟻継ぎ+金物補強    

一般的にはが多用される①追掛け大栓継ぎを用いると強い架構になる。

 

3)小屋梁の継手               

①台持(だいも)ち継ぎ  :一般に多用される継手。   

 

柱あるいは敷桁(敷梁)上で継ぐときに用いられる。丸太太鼓落とし平角材のいずれでも可能。太鼓落としの場合は、後出の図参照(追掛大持ち継ぎと記してある)。

稲妻型に刻んだ下木に同型の上木を落とし、材相互のずれはダボ、捩れは目違いを設けて防ぐ。上下方向の動きでのはずれ防止のため、継手上に小屋束を立て、屋根荷重で押さえる。あるいは図の点線位置で、ボルトで締める。敷桁には渡りあごで架ける。

②追掛け大栓継ぎ平角材に用いられる確実な継手。柱あるいは敷桁から持ち出した位置で継ぐときに用いる。継がれた2材は1材と見なすことができ、曲げに対して強い。

③腰掛け鎌継ぎ+補強金物継がれた材は、継手を支点とした単純梁と見なせる。                

 

4)軒桁と小屋梁の仕口     

(1)京呂組の場合

組み方A 軒桁に小屋梁をのせ架ける。

①兜(かぶと)蟻掛け 軒桁内側に納める場合      

   

一般的な方法で、丸太梁平角材いずれにも用いる。基本的には大入れ蟻掛け(目違い付き)である。

丸太梁で、垂木彫りを刻んだ後、木口の形状が兜のように見えることから兜蟻掛けと呼ぶようになった。小屋梁ののせ架け寸法は、垂木が軒桁に直接掛けられるように決める。柱と軒桁は長ほぞ差しが最良(込み栓打ちは更に確実)。法令は、羽子板ボルトでの固定を要求(梁に曲げがかかったとき、あるいは梁間が開いたときの蟻掛け部分のはずれ防止を意図)。実際は、曲げによるよりも、架構の変形により起きる可能性が高く、架構:軸組を強固に立体に組めば避けられる。また、屋根(小屋束・母屋・垂木・野地板)が確実に取付けば、梁のはずれは実際には起きにくい。 垂木を表しの場合は、垂木間に面戸(めんど)を入れる。

 

②相欠き渡りあご 軒桁外側に梁を出す場合    

    

丸太梁平角材いずれにも用いられる。法令・金融公庫仕様でも補強を要しない仕口であるが、外面に木口が表れるので真壁向き。 垂木を掛けるために、鼻(端)母屋が必要となる。鼻母屋軒桁の間に面戸板が必要。鼻母屋の継手は腰掛け鎌継ぎで可(軒桁・面戸板・鼻母屋で合成梁となるため、追掛け大栓継ぎの必要はない)。 垂木表しの場合、垂木の間にも面戸板が必要(図は省略)。

軒桁の小屋梁位置下に管柱があるときは、頭ほぞ重ほぞとし、軒桁・小屋梁・鼻母屋を縫う方法が確実。柱がない箇所では、鼻母屋上部から大栓を打ち、鼻母屋・小屋梁・軒桁を縫う。 小屋梁の脇で、鼻母屋と軒桁をボルトで締める方法は、経年変化で緩む可能性が高い。

 

組み方B 軒桁・小屋梁天端同面 

(大入れまたは胴突き付き)蟻掛け 

 

梁が平角材の場合に用いる。図は胴突き付きの場合。 天端同面納めは、軒桁丈≧小屋梁丈の場合可能。

法令では、梁に曲げがかかったとき、あるいは梁間が開いたときの蟻掛け部分のはずれ防止のために、羽子板ボルトでの固定が要求される。①の注を参照  垂木表しの場合は面戸板が必要(図では省略)。

図では、軒桁を追掛け大栓継ぎで継いでいる(一般には、刻みの簡略化のため腰掛け鎌継ぎ+金物補強が多用されるが、強度的には追掛け大栓継ぎが優れる)。

 

(2)折置組の場合

組み方A 小屋梁に軒桁をのせ掛ける

相欠き 渡りあご

    

丸太梁平角材いずれにも用いられる。図は小屋梁が平角材の場合。相欠きと渡りあごによって、梁と軒桁がかみ合うため桁行方向の変形に対してきわめて強い。この効果を確実に維持するために、軒桁の継手は、追掛け大栓継ぎが望ましい。補強を要しない仕口であるが、外面に木口が表れるので、大壁仕様のときは検討を要する。

柱寸法の節約、刻みの簡略化のために、柱の頭ほぞを短ほぞとして金物補強とすることが多いが、図のように、柱の頭ほぞを重ほぞとし、小屋梁・軒桁を一体に縫うと軸組は一段と強固になる

太鼓落とし梁の場合は、次項参考の図を参照。

 

組み方B 小屋梁・軒桁天端同面納めの場合

 ②(大入れまたは胴突き付き)蟻掛け

梁が平角材のとき可能な方法。 小屋梁丈≧軒桁丈が必要。 図は、小屋梁と軒桁の丈を同寸の場合。

梁の丈>軒桁の丈のときは腰掛け蟻掛けとする。柱寸法の節約、刻みの簡略化のために、柱の頭ほぞを短ほぞとして金物補強とすることが多いが、長ほぞの方が軸組は強固になる。垂木表しのときは面戸板が必要。法令は、軒桁に曲げがかかったとき、あるいは柱間が開いたときの蟻掛け部分のはずれ防止のために、金物補強を要求。

実際は、架構:軸組を強固に立体に組むことで避けられる(従来、金物補強がなされなかったのは、開口部に差鴨居を入れるなど、架構を立体に組む工夫がなされていたからと考えられる)。また、屋根(小屋束・母屋・垂木・野地板)が確実に取付けば、梁のはずれは起きにくい(前項兜蟻掛け参照)。

 

参考 太鼓落し梁の仕口分解図  日本家屋構造 斎藤兵次郎著 より

  

  

 

5)小屋梁と小屋束、小屋束と母屋の仕口

小屋束母屋の幅と同寸角。 小屋束間隔が大のときは、丈を大きくする(梁と考える)。

小屋束の根ほぞ(小屋梁との仕口)と頭ほぞ(母屋との仕口)長ほぞが望ましい。一般に多用される短ほぞ+かすがいは揺れや引抜きに弱い。

 

6)二重梁、つなぎ梁

小屋束・二重梁・母屋は、小屋束の頭ほぞを重ほぞとして一体化する方法が良。 つなぎ梁端部は、小屋束に対してほぞ差しほぞ差し込み栓またはほぞ差し割り楔締めにすれば確実)。

 

7)母屋の継手

母屋は、垂木を経て分散的にかかる屋根上の荷重による曲げの力に対して耐える必要がある。また、小屋束、母屋の構成で桁行方向の変動にも耐えなければならない。

通常使われる継手は次のとおり(いずれも図は省略)。①追掛け大栓継ぎ ②腰掛け鎌継ぎ ③腰掛け蟻継ぎを用いることが多いが、強固な小屋組にするには、①②が望ましい。特に、丈の大きい母屋を用いるときはが適切。②③を用いるときには、各通りの継手位置は、できるかぎり千鳥配置とし、垂木位置は避ける。

 

8)垂木の配置、断面と垂木の継手

垂木の継手:垂木は母屋上で継ぎ、殺ぎ(そぎ)継ぎとすると不陸が起きない。

 

10)垂木の母屋への納め方:垂木彫り

       

 

垂木が軒桁・母屋にかかる部分を、垂木の幅・垂木の勾配なりに彫り込むことを垂木彫りという。

軒桁・母屋の側面に刻まれる垂木彫りの深さを口脇(くちわき)、勾配なりの斜面部を小返(こがえ)りと呼ぶ。軒桁、母屋上端の小返りの終わる位置を小返り線という。

図A小返り線を軒桁、母屋のとした場合で、口脇寸法={軒桁・母屋幅/2×勾配}となり、口脇寸法は整数になるとは限らない。

図Bは一般的な方法で、口脇寸法を決め(たとえば5分)、小返り線を逆算する。この場合、軒桁・母屋芯位置での垂木の下端は軒桁・母屋上にはなく、宙に浮く。 軒桁・母屋芯(通り芯)位置での垂木下端の高さを(とうげ)と呼ぶ。 図Aでは材の上に峠が実際にあるが、図Bでは仮定の線となる。

通常、設計図(矩計図など)は図Aで描くが、現場では図Bで刻む。特に指示する場合は、口脇寸法を明示する

 

参考 日本の建物の寸法体系

寸法の単位
a.柱間単位は「1間」
メートル法の使用が義務付けられている現在でも、木工事では尺表示が使われることが多い。住宅の場合、通常、柱間単位は1間を標準とする。関東では1間=6尺(通称「江戸間」または「関東間」)、関西では1間=6尺5寸(通称「京間」)が普通である。ほかにも、地域によって異なる寸法が柱間単位として用いられており、また、建物により任意に設定することもできる(大規模の建物で標準柱間を9尺とする、など)。 注「京間」では、畳寸法を6尺3寸×3尺1寸5分として柱~柱の内法を畳枚数で決める場合もある。

メートルグリッドを用いることも可能。ただし、木材の「規格寸法」に留意する必要がある。 
  
1間に満たない寸法に対しては、1間の1/2、1/3、1/4、1/5、1/6・・・を用いるのを通例とする(工事がしやすい)。
  
b.尺とメートルの換算
一般に、1間=6尺=1,820㎜とすることが多いが、正確ではない。1尺=10/33m≒303㎜、1間=6尺≒1,818㎜である。

木工事は、現在でも、通常「尺ものさし」:指金(さしがね)で施工し、大工職は1,820㎜の指示を6尺と読み替えることが多い。一方、基礎工事は「メートルものさし」で1,820㎜の指示どおり施工するから、1間につき2㎜の誤差を生み、現場での混乱の原因になる。正確な指示が必要。

 

 ブログ内記載記事:補足「日本家屋構造」-4・・・小屋組(その1) 2012.09.26               


「付録1-2」と 本blogへの投稿終了について

2020-03-18 11:05:12 | ご挨拶

投稿者よりご挨拶申し上げます。

「付録1-2 継手・仕口の実際」としてまとめたのは、ブログ開設者がすでにこのブログに投稿している多くの図版を、新たに記事として編集しなおしたものになります。元の記事については、各項目の末尾に、投稿記事へのリンクをかけたタイトルを付けました。

 

「付録2-1 継手・仕口の実際」の元になったテキストは、(一社)茨城県建築士事務所協会主催の建築設計講座 2004年・2005年版のテキスト「知っておきたい日本の木造技術 ー 木造軸組工法の基本と実際」約290頁になります。 解説文および全「継手・仕口図」はブログ開設者の作成によります。 上記のテキストは、今年1月まで掲載をしていました「日本の木造建築工法の展開」の元データでもあります。

 

「付録1-2」について、昨年「付録1」の投稿後に作成を考えたのですが、煩雑な編集が必要なため、なかなか作業に取り掛かれませんでした。ようやく投稿ができ、ほっとしています。

 

突然ですが、blogトップを「継手・仕口の実際」として、 本ブログへの投稿を終えることにしました。

今思えば、病気療養中の記事と逝去のご挨拶がブログ記事の最後になってしまうのが、私としては辛かったのだと思います。

念願だった「継手・仕口の実際」も投稿でき、また隔週で投稿している「筑波通信」は、切りよく3年度目が終了しました。

しばらくお休みを頂いて、新しいブログに場所を移して、「筑波通信」を再開したいと思います。

その折には、本ブログのブックマークにリンクをかけます。

(追記:このブログはこのままの状態を保ちます。言葉足らずだったようで恐縮です。   03.27)

 

本ブログ中での、編集ミス、誤字脱字等、ご容赦のほど願います。 

今まで、ありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。                                     

      2020年3月18日                        投稿者  下山 悦子


「私に聴こえるもの、見えるもの」1983年度「筑波通信№12」

2020-03-10 10:23:10 | 1983年度「筑波通信」

PDF「私に聴こえるもの、見えるもの」A4版6枚

   「私に聴こえるもの、見えるもの」   1984年3月

 仕事をしながら聴くともなくFM放送をかけていたところ、いわゆるシンガーソングライターと言われているある人が、次の音づくりのためにスタジオにこもっています、と話しているのが耳に入った。要するにレコードづくりなのだろうが、しかしそれは、彼らが演奏をして、それを単純に録音するという話ではなさそうで、もちろん単に作曲をしているということでもないようだった。察するにそれは、種々な音を、最新の録音技術:エレクトロニクスを駆使して、変形、変調、あるいは増幅縮小し、かつそれらを合成し、彼の言う音をつくりだすことであるらしい。そして、その合成の結果、彼がよしとしたその音がレコードなりテープに(最終的に)収録され売りに出される、ということのようであった。たしかにこれは、通常の概念での演奏ではなく、まさしく音づくり以外の何ものでもない。もしもスタジオの音づくりの場面ではなく、いわゆる普通の意味での演奏のときはいったいどうするのだろうか、と一瞬疑問がわいた。そういうことは一切しないのか、それともカラオケでもながすのか、あるいはスタジオでやったと同じ操作をコンピュータに覚えこませて、その場で合成させるのか。

 聞くところによれば、最近のレコードやテープは、概して、いわゆるライブ版と言われるもの以外(これだって怪しいものだが)こういったいわゆる音づくりのやりかたでつくられるのだそうである。変形、変調などはともかく、一小節だけのつけはずしなどお茶のこなのだそうである。だめな部分だけ、つけ代えることができるという。こうなってくると、演奏会で聴く音楽と、レコードで聴くそれは、まったくちがうジャンルなのだと言ってもよいだろう。

 

 それにしても、ここ二十年ほどの問の音響技術の進み具合は大変なものだ。 Hi-Fi (High Fidelity:高忠実度、高再現性)などという耳新しかったことばも、今ではすっかり日常語の仲間入りをしてしまっている。いかにして原音に忠実に録音し、そして再生するか、録音再生の音域をいかに拡げるか、ゆがみひずみをいかに少なくするか、などといった点はとっくに克服されてしまったらしく、今では再生の段階で自分の好みの音をつくるのだそうである。その意味では原音に忠実というのではもはやない。よく、いわゆる暴走族とくくられる若者たちがシャリシャリしたような音をさせて音楽をかけているのに出あうことがあるが、それがこれである。カラオケが、エコーをかけて、だれが歌ってもうまく聴こえるようにしているのもこれである。ことばのとおりにHi-Fiだったら、カラオケはとても聴いていられないだろう。

 最近では、音を一たんいわば多くの点に分解して信号化し、再生時には再びそれを合成するというデジタル方式なる録音法が開発されたそうである。まじりあった音も、このやりかただと分離されて記録されるから、それぞれの音が鮮明に澄んで録音されるらしい。これだと、点を多くすればするほど鮮明になる理屈である。

 私には、その理屈は、一応理屈としては納得はするものの、いまひとつ合点のゆかない所がある。私は、今はやりのワープロの印字を対比して考えているのである。ワープロの印字も、いうならばデジタル方式で、いくつかの点で構成されている。今のほとんどのワープロの印字では、その点の数が少ないから、なんともみっともないごつごつした字になっている。この点の数を多くすれば、あるところから先は、一見したかぎりでは人の目をごまかすことができる。これは理屈である。実際、朝日新聞の文字は、これもワープロ同様にいくつかの点で構成されているのだが、虫めがねででものぞいて見ないかぎり、それに気づかない。分解する点の数が多いからである。私がこの通信で使っているのは、昔ながらの活字によるタイプライターである。この活字をいくつかの点に分解しなおして印字したとき、たしかにその点の数を増加させてゆけば、あるところから先は、その点に気づかなくなるように思える。しかしそれは、元の字に忠実だと言えるだろうか、これが私の合点のゆかない点、疑問なのである。ある一つの面積を算出するのに、それを点の集積であるとの考えかたは、その昔微積分の初歩で習ったことだが、しかしそのとき、求めるべき実体は、その点が無限である、として求められたのであって、有限の段階でやめたわけではなかった。だが、ワープロの印字は、多分これからさき、もう少し点の数は増えるにしても、一見したところ点の集まりには見えない、というあたりでその分解をやめてしまうだろう。

 近ごろの印刷では、昔の活字・活版に代って写植:写真植字が大勢を占めようとしている。いわゆる写植オフセットというやりかたである。伸縮自在だから、たとえば辞典類の大判、小判を一つの原版から容易につくることができる。ところがこれも、元はと言えば写真、つまり粒子の集まり、このごろは解像力のよいレンズ、印画紙ができてきたとはいえ、一見したかぎり点に見えないだけで、点の集まりであることには変りないから、縮少したりするとボテッとしてくる。実際に活版本と写植本とをならべて比較すると、たちまちにしてその差が分るはずである。これはグラビアによる写真と新聞紙上の写真のできあがりのちがいと同様で、新聞写真は多数の点に分解されているのだが、いくらその点の数を密にしてみても、グラビア(グラビア印刷:チェコのカール・クリッチが発明した印刷法。写真印刷に適している。)にはかなわないのと同じなのだ。

 

 だが、ここで見てきたような印刷・印字の場面でのデジタル分解ならまだ救われるというものだ。なぜなら、点に分解する前の字なり写真の元になる生の姿が実体として(目に見えるかたちで)存在するからである。ところがこれが音となると、たしかにある実体はありそうに思えるけれども、いわば目に見えるかたちでそれを確定することができない。音を周波数のちがいであるとして定義したところで、それは単に音というものが空気の振動であり、その振動のちがいが音のちがいをつくりだしているという説明にすぎないのであって、それは決して私が聴いている音のリアリティではないのである。

 そういう意味では、デジタル録音の音が澄んで明解である、というのは、はたして原音に忠実ということになるのだろうか、という疑問を私は抱くのである。それが澄んだ録音になるというのは考えてみればあたりまえであるわけなのだが、原音ははたして澄んでいたのだろうか。この問題は、原音とは何を指しているか、ということに帰結するだろうと思われる。すなわち、楽器が発している音をいうのか、それとも、私たちが聴いている音をいうのか、このどちらを原音と考えるかである。

 いろいろと考えてみると、いわゆるエレクトロニクスを駆使してのここ二十年ほどの音響技術・Hi-Fi化の進歩は、まず全てが、この音源側の音についてのHi-Fi 化であって、聴く側のそれではなかった、ということに気がつく。音源側のHi-Fi化が聴く側のHi-Fi化に等しい、という何らの保証も、またその検証もないままに、技術は進んできてしまったのではなかろうか。不幸なことに、私たちが聴いている音の実体を目に見えるかたちで表わすことができないことをいいことに、私たちは高忠実度録音の名のもとに、実はまったく別種の、造成された音を聴く破目になっていたのかもしれないのである。

 

 私がこのように思うには、それなりのわけがある。

 私の知人に昔ながらの蓄音機を持っている者がいて、それでSP版のレコードを聴いたことがある。それはまったくの古典的蓄音機で、回転はゼンマイ仕掛け、音の増幅は例の朝顔形のラッパ、電気とは無縁の、エジソンそのままのやつである。それでたしかバイオリンの曲を聴かせてもらったような記憶があるのだが、正直言ってそれはかなりのショックであった。もちろん最近のLPなどとちがってザーザー雑音が入るのだがそのなかから聴こえてくるバイオリンの音色は、まさにほんもののバイオリンのそれなのである。簡単に言えば、リアリティそのものなのだ。バイオリンという楽器の音を聴いているのではなく、バイオリニストが弾くバイオリン曲を彼のそばで聴いている趣があるのである。つまり、音楽が聴けるのである。その意味で、私には、これほどの高忠実度録音はない、と思えたのだ。これは当然だと言えば当然で、機械が吸いこみ刻みつけたものは、機械の吸いこみ口で機械がとらえた音であって、音源の音でも、また分解・分析した結果の音でもない、いうならば生の音に近いものだからである。まじりあった音。にごった音(そのように聴こえる音)も、ただそのままに機械に吸いこまれ刻みつけられ、それが今、ほぼ復原されて私に聴こえているのである。

 

 そうしてみると、エジソンのあと、録音再生の面でさまざまに行われてきた技術革新は、はたしてエジソンが夢見て、そして望んでいたことと、まったく同じことを目ざしていたのかどうか、疑問に思えてくる。

 さきに、楽器の発している音を原音とするか、それとも私たちに聴こえている音を原音とするか、それが問題である、と書いたけれども、ことによると、こう区別することに疑問を持たれる方があるかもしれない。つまり、楽器の発する音を聴いているのであって、発するものと聴こえているものとは同一ではないか、と。だから、楽器の発する音を精密にとらえればよいではないか、と。ところがこれは明らかにちがうのだ。

 補聴器というものがある。聴力を補うために、音を増幅してくれる機器である。これを使ってみると、驚くべき事態に当面する。ありとあらゆる音の全てが増幅され、その全てが均等に聴こえてくるのである。音量を少なくしていっても、この均等に聴こえるということは変らない。これは、私たちが通常耳にしている事態とはまったくちがった異常な世界なのだ。このことは補聴器を使ってみなくても分る。最近では、よく音楽会のライブの録音や生が放送されることがあるが、それを聴いていると、会場内のざわめきやせきばらいの声の多さ、大きさに驚かされる。会場内では絶対にあのようには聴いていない(聴こえていない)はずなのだ。これも、均等に音を伝えてくるからである。かつての蓄音機が、生の音に近いものを伝える、と書いたのも、それは、現代の録音よりもより生ではあるが、そこでもまた補聴器同様に、音を均等に拾っていて聴こえないものまで聴こえてしまうはずだからである。

 つまり、実際の場面では、私たちは、全ての音を均等には聴いていないのである。といって、私たちが聴いていない(聴こえていない)音が存在しないのか、というとそれはちゃんと存在していて、補聴器でもかければ、いやでもその存在に気づかされる。

 つまり、現代のエレクトロニクスを駆使した音響技術が、原音の録音再生の高忠実度、精密化を競った結果、私たちが聴いているもの、あるいは私たちに聴こえているもの、に対してはまったく忠実ではなくなってしまったのである。これは、本来(たとえばエジソンの時代には)音楽とは、まずもって私たちあっての音楽であったのに、少なくともこの技術の場面では、私たちぬきの、音になってしまった、と言うことに他なるまい。そうであるとき、音楽家と称する人たちが、今私は音づくりをしています、と言うというのも、無理からぬ話なのかもしれまい。

 だが、音楽とは、そもそも、単なる音響でしかなかったのだろうか。

 私がここで言いたかったことは、音なり音楽なり、あるいはそれに係わりをもつ技術というものに対して、音というものを私たちと乖離した存在として見なす見かたで理解され、追求されているということ、そして、それの結果として(その追求が精度をあげればあげるほど)、私たちが私たちの耳で聴く、音楽を楽しむ、という局面でのリアリティに対する精度は、逆に悪くなってきているのではないか、ということについてであった。簡単に言ってしまえば、音としての精度を上げれば上げるほど、私たちが聴いているもの、私たちに聴こえているものの実像から、どんどん離れていってしまっている、ということなのである。

 しかも、このような状況は、なにも音についてだけなのではなく、私たちをとりかこむおよそ全てのものに対しても、同様な考えかた、追求のされかたが横行し、人問と人間以外のものがみな全て、乖離した存在として扱われる傾向にある。コンピュータの隆盛は、コンピュータの宿命であるデジタル方式の思考に拍車をかけ、人とものは分離され、そして人もものもまた点に分解され、そこで描かれる点描が、あたかもそれが実像であるかのごとくに扱われる。私たちが聴いているもの見ているもの、そのリアリティは、知らぬまにみなその点描にすりかえられてしまうのだ。それでいて、それらのデジタル的分解が実像と等値であるとの保証は、未だかつてだれもしていないのである。

 かくして、いまや、いったい何が私たちにとっての実像、つまりリアリティであったのかさえ判別しかねるほど、虚像が充ちあふれ、その虚像にもてあそばれるような世のなかになってしまっているように、私には思えてならない。

   ・・・・・今の世では、かつてなかったほどに

   物たちが測落する――体験の内容となり得る物たちがほろびる。

   それは、

   それらの物を押しのけてとって代るものが、魂の象徴を伴わぬような用具に過ぎぬからだ。

   拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。そういう外殻は

   内部から行為がそれを割って成長し別のかたちを定めるなら、

   おのずからたちまち飛散するだろう。

   鎚と鎚(つち。かなづち。)とのあいだに

   われわれ人間の心が生きつづける、あたかも

   歯と歯とのあいだに

   依然 頌める(ほめる:ほめたたえてのべる)ことを使命とする舌が在るように。

   ・・・・・

もう60年も前に、詩人は既に、このような状況の予兆を敏感に感じとっていたようである。

 

あとがき

〇なんとか休むことなく持ちこたえ、一年が過ぎてゆく。少しばかりこの一年は早かった。 というのも、昨年はこの通信を書くことが私のペースメーカー、つまり行事になっていたが、今年はなんとなくいろいろなことが時間を占有し、やむを得ずそのすきまをねらって通信の時間を確保する破目になったからである。

〇今号の内容は、いわゆる研究(もちろん建築についての研究のことである)が、ますます人問と乖離したものになってゆくことに憤慨を覚えたことによっている。 建物なり空間なり、あるいはそういったものをつくりだす技術なりが、すべてそれだけが人問の存在から切り離された形で論じられることが、いわゆる研究の正統であるかの風潮があいも変らず根強いのである。 私たちが生きている日常のなかでは、ものは決して均質・等質にとらえられているわけでなく、そしてまた、そのもののつかまえかた(括りかた)自体、決して一様であるわけがないのにも拘らずそこのところはまったく無視され、一様・等質・均質なものの世界に直接的に私たちがつきあっているかのように見なされる。 それは決して私たちの実像ではないはずなのだが、科学的であるとの名目のもとで、そういった研究の成果という虚像の群に、無意味にもつきあわされるのである。 そして、私たちにとって、私たちをとりかこむものはどのようにして在るのか、などについて問うことは(それこそ最も大事なことであるにも拘らず)残念ながらアレルギー反応を生じせしめる。そのようなことは思弁的におちいり、科学的でなく、成果が得られない、あるいは序論にすぎない、と言うのである。 しかし、今の世のなか、むしろ序論(文中で書いた、分解してもなお元のものに等位であるとの保証)なしの話が多すぎる。 そして、明らかに私の学生時代よりも、事態は一層悪くなっているようだ。もっとも、そうだからこそ、この通信のタネがなくならないのであるが・・・・・。

〇信濃毎日新聞社というところは大変なところだと思う。先に紹介した「土は訴える」の出版元であるが、そこから最近「森をつくる」という本が出た。この内容は例のごとく大変に濃く、大新聞「朝日」がやっている緑のキャンペーンなど、どこかに吹き飛んでしまうだろう。一地方新聞社の(多分)ほんの数人の記者たちが、日本の林業の問題を、とことん調べつくして分りやすく説いた本である。 ことは、森林浴が健康によい、などという単純な話ではないのである。 この本をつくった人たちのものの考えかたは、決してデジタル方式ではない。どろどろしたものを、決してきれいなものに組みかえたりせず、どろどろしたものとしてとらえるのである。

〇四月から、更に続けて書かせていただこうと思う。 ご批判、ご叱正を願う。

〇それぞれなりのご活躍を祈る。

      1984・3・3               下山眞司


「道 の 理」 1983年度「筑波通信№11」 

2020-02-25 10:51:25 | 1983年度「筑波通信」

PDF「道の理」1983年度「筑波通信№11」 A4版7頁

「道 の 理」    1984年2月

 いささかあわただしかったのだが、昨年の暮も押しつまったころ、用あって(というより、用をまとめてこなすべく)甲州・牧丘、信州・駒ヶ根、そして上州・松井田と駆け足で巡ってきた。甲州・牧丘は甲府盆地の東北端、武田信玄の根拠地であった塩山(えんざん)から更に数kmほど笛吹川をさかのぼった所にある町、信州・駒ヶ根は信州と言っても言わゆる南信、諏訪湖に発する天竜川が大地を切りこんでつくった伊那谷にある町、東に赤石山脈(南アルプス)西に木曽山脈(中央アルプス)がそびえ連なっている。駒ヶ根の名は木曽駒ケ岳の根もとにあることからつけられた、もちろん町村合併にともなう新しい名である。さきほどの牧丘も同じく新しい名である。上州・松井田は、これは古くからそう呼ばれていて、関東平野のどんづまり、山一つ越えれば信州という碓氷峠の下にある町である。

 牧丘と駒ヶ根は共に中央自動車道沿いにあるから、車を使うと一時間半かかるかどうかの近さである。鉄道(中央線、飯田線)を乗り継いでも二時間半程度で行けるもっとも乗り継ぎの便がよければの話である)。しかし、駒ヶ根から松井田へとなると、いささかやっかいである。その問には八ケ岳山塊や秩父山塊が横たわっているから、山を越えるか、山をまわるかしなければならない。だから、駒ヶ根あたりから見ると、松井田|など、はるか山の彼方の町、遠い何の関係もない町のように思えてしまう。しかし、駒ヶ根と松井田が、互いにまったく関係のない町であったかというと、そうではない。古代の主要幹線道である東山道(とうさんどう、あづまやまのみち)は、この二つの町を通っていたのである。それぞれの町の近くに、東山道の宿駅が設けられていた。因みに、現在の中央自動車道のルートは、信州以南では、ほほ東山道のルートに沿っている。中央道は恵那山トンネルで美濃へ抜けるが、東山道もそのあたりで峠越え(神坂峠)をして美濃へ通じていた。

コピーにたえる地図がないので鉄道と主たる道だけ書きだしました。詳しくは、お手元の地図帳(中部地方)をご覧ください。

 

 駒ヶ根あたりから上州へ抜けようとすると、今ではいくつもの立派な道ができている。けれども、それらは決して新しい道なのではなく、そのほとんどが古来存在していた道すじに手を加えたものなのだ。あの東山道のルートも、多少の変更はあるものの、現在も生きている。東山道がどのようなルートをたどったかについては、細部においては諸説あるらしいが大略次のようなものであったらしい。天竜川沿いにその右岸:西岸を上ってきた道は、辰野(たつの)のあたりで天竜すじから分れ、塩尻(しおじり)へ向い山越えをする。そのときの峠が1982年4月の「通信」に記した善知鳥(うとう)峠で、この道すじに沿って中央線が走っている。(中央線は諏訪から天竜に沿って南下し、またこの道すじに沿って北上するというえらく遠まわりのルートをとっているのである。)このあと東山道は今の松本へ向い北上して、松本をすぎたあたりで東に転じてまた山越え(今の保福寺峠越え)をして現在の上田あたりへ出る。あとはほぼ現在の信越線・国道18号ルートと同じルートを通り、上州へと向う。

 地図でも分るとおり、この道すじは大変に遠まわりのルートである。その時代に別のルートがなかったわけではない。同じ山越えをするのでも他にいくつものルートがあったことが知られている。江戸期の幹線道であった中山道は、このような遠まわりではなく山を越えている。そのルート、上州から佐久を通り一直線に諏訪へ抜けるルートも、しかしそのとき新たに開発されたわけではなく、これも既に古来存在した道すじであったらしい。つまり、南信から中信・上州へと通じる道すじ(いずれも山越えをともなう)には古来いく通りものやりかたがあって、言わゆる官道(古代の東山道、江戸の中山道など)は、それら既存の道すじのなかから一つを選んで整備したにすぎないということだ。とかく官道などとそれだけを数えあげたりすると、その他には道などなかったかのような錯覚についおちいりがちなのだが、それはあやまりで、道はたくさんあったのだ。そして今、多分それらを踏襲したと思われる立派な山越えの道が、いくつも通じているのである。

 

 だから、駒ヶ根から松井田にまわろうとする私の前には、今、いく通りもの道がある。どの道をとったらよいか、となるといささか思案せざるを得ない。このいく通りもの道のなかで、そのうちのいくつかは既に通ったことがあるから、物好きの私としては、できれば通ったことのない道を走ってみたい。例の古代東山道ルート:保福寺峠越えもやってみたいのだが、今年はいつになく寒い。多分道はいたる所で凍結しているにちがいない。私のタイヤはスパイクではない。チェーンは持ってはいるものの、つけっぱなしで走るのはいやだし、かといってつけたりはずしたりするのもわずらわしい。結局のところ、峠越え山道はあきらめ、少しばかり遠まわりなのだが、それらの山をぐるりとまいて、松本から長野まわりで上田へ出ることにした。松本から長野までは国道19号、長野からは18号、という月並みな道である。

 このルートも、特に松本・長野間の犀川(さいがわ)沿いの道すじは通ったことがないから、多少の遠まわりも苦にすることもない。地図を見ると判るのだが、松本から長野へはもう一本ルートがある。国鉄・篠ノ井線に沿い篠ノ井経出で長野に向う道である(と言うより、その道に沿って鉄道が敷かれたのである。)これは、先のルートが川沿いなのに対して、全くの山越えルートで、だから、鉄道もトンネルだらけである。姥捨(うばすて)伝説の冠谷(かむりき)山はその近くである。この道の交通量は、今は少ないようである。

 

 犀川(さいがわ)は松本から善光寺平・長野へとそそぐのだから、地図の上などで単純に考えると、なにも山越え道など通らずに犀川沿いに下った方が、ずっと楽のように思えるのだが、実際に走ってみて、そうではないことがよく分った。松本から長野までおよそ20km、その間の標高差は200m、これを犀川は一気に駆け下りる。それゆえ大地はV字型に深く切りこまれ、少し大仰に言うと、両岸には切りたった壁が連なっている。道は当然下り坂で、その谷間の底を曲りくねりながら走り、今でこそ道幅も広く楽に通れるけれども、その昔には通り抜けるには相当に苦労する難所であったにちがいない。山越えの道はたしかに疲れはするだろうが、その点ではむしろ安全で楽であっただろう。

 考えてみると、古代の東山道が、江戸期の中山道のルート:木曽川すじを通らずに天竜川に沿った理由の一つも、木曽川すじの地形的険しさが手に負えなかったからではないだろうか。木曽川すじとはちがって、天竜沿いには長大な河成段丘が発達しており、その段丘を横切るいくつかの河川(天竜の支流である)の川越さえ克服さえすれば、あとはその段丘上をたどる平坦で楽な道を得ることができる。実際この河成段丘はみごとなもので、山脈に沿い、その山脈の足元から天竜川までの数kmの幅の大地が、およそ30分の1の傾きで横たわっている。そこに立つと、少し大仰に言うと、平衡感覚がゆらいでくる。しかし、この段丘上は、牧地や畑地としては絶好の地で、人々もかなり古くから住みついていたらしく、今でもあちこちに数多くの遺跡が眠っているようである。古代において、このあたり一帯はかなり栄えていたのである。そして、東山道がここを通ったもう一つの、そしてより大きな理由は、ここが栄えていたからだ。東山道という官道の目的は、時の中央政府のそれによる地方管理にあり、管理するに耐えない(つまり、栄えていない)土地を通ることはおよそ無意味だからである。木曽路の険しさは、単に通行にとってだけではなく、人々の生活にとっても険しかったのである。東山道が天竜に沿って諏訪に出るルートをとらず、途中から分れ、諏訪を横目に松本へ向ったのも、そうすることによって、諏訪だけではなく松本平から先、善光寺平、安曇野、そして更に越の国をも掌握できるとの算段があったからだと見ることができるのではないだろうか。

 江戸期の中山道は、同じ官道でも、東山道のやりかたとは全く異なっている。人が住み、栄えている土地土地をつないでゆく代りに、むしろ最短ルートをとった気配がうかがわれる。上州・佐久・諏訪、という山越えルート上はもとより、その通った木曽路も全く山のなかで、沿道に栄えた所があったわけではない。むしろ、それとは逆で、官道が通ったために宿場町として栄える村々が生まれてくる。それゆえに、宿場の町としてのみ初めて栄えるという状態になることのできた村々は、ひとたび官道が官道でなくなってしまうと、具体的に言えば、新たな官道:鉄道でも敷かれたりすると、それはずっと以前の宿場町ではなかった時代の、ただひたすらその土地:大地にのみ依存せざるを得ない状態に戻ってしまうのである。これに対し、かつて、はるか昔に東山道の通っていた村々の土地は、東山道が東山道でなくなっでも、相変らず、一定程度栄える可能性のある土地であることには変りはなく、中山道沿いの宿場だけに拠って栄えた町々のように、急転して落ちこむようなことはなかったのである。

 ひところ流行ったような(最近もないわけではないが)鉄道や新しい交通路の開設によってさびれてしまい、ただ昔の面影だけを残している元宿場町を昔のようににぎやかにしよう、などと考えて観光地化に走る試みは、私に言わせれば、その町にとってほんとによいことだとは思えないのである。その町の拠ってたつ基盤が変ってしまったとき、それにも拘らずその過去の幻影に拠ってのみ暮しをたてることには自ずと限界があり、時計の針を停めて暮すようなものだからである。

 ただひたすらその土地に拠って暮さねばならないとしたとき、過去の幻影、過去の栄華のみを夢見るのではない新しい暮し、新しいたたずまいが生まれるはずであり、それがたとえかつての宿場町としてのそれに比べ、一見したところ、見劣りするものであったところで、それは決して悪しきことなのではなく、むしろそれこそがその土地の正当な姿と言うべきではないか、と私には思えるのである。

 

 犀川沿いの道すじには、このような外的な要因による栄枯盛衰とはおよそ縁のなさそうな村々、家々があった。もちろんそれは、あくまでも見かけの上の話で、内実は多様な変化をしているのだろうが、それらは道が拡がろうが、国道に指定されようが、そういったこととは全く係わりのない風情で昔ながらに在るのである。

 先にも書いたように、この川すじの道の両側は切り立ち、道はその最低部を川すれすれに曲りくねって下ってゆくのだが、そこから見上げる両側の山の斜面のはるか高い所に、まさに文字どおり、家々が張りついている。それらは、目線を意識的に上げて初めて視界に入ってくる、と言ってもよいほど川面からはかなり高い所にへばりついているのである。いったいあそこへたどりつく道はどこにあるのだ、という思いが極く自然にわき起ってくると同時に、今走っているこの道と彼らの家々とは、ことによると関係ないのではないか、とさえ思えてくる。一度これは調べてみる価値がありそうである。

 そのうちの、比較的国道に近い集落と、それへつながると思われる道を見つけて寄り道をしてみた。これと同じような感じの集落は、笛吹川の上流でも見かけたことがある。道のとりつきもそっくりである。道はかなりの急坂で、車一台がやっとの幅しかない。集落に行きつくと、道はそこでほぼ終る。ほぼと言ったのは、道はまだどこかへ続いていそうなのだが、あまりも細すぎ、私の車ではあきらめざるを得ないからである。あたりの急な斜面は細々と耕され、ほんとに猫の額ほどの田んぼもある。そのわきのちょっとしたひそみに、茅ぶきの家がひっそりと、しかしある温もりを感じさせて建っていた。それはまわりの地物とすっかり同化してしまっているように見え、建っていると言うより植っている、あるいは生えていると言った方がよさそうである。それはなにも家だけではない。耕された田も畑も、そしてところどころに積まれた石の土留めさえもが人為のにおいを感じさせず、言わば人為のほどこされないずっと以前からそうであったかの風情でそこに在る。それは決して単に古びているからなのではない、と私は思う。

 

 よく時代がつくというような表現がなされるけれども、どんなものでも古くなれば昧がでてくるというわけではない。言わゆる現代建築のなかで、時代がついて昧がでたという例は皆無に近いだろう。それらは古くなると、廃墟というより廃棄物になってしまう。廃墟にはそこにまだ人間の存在を思わす何ものかを見ることができるのだが、廃棄物にはなにもない。今私の目の前にあるいささか傾きかけ、山はだにへばりついている農家には、古いからと言って、廃棄物のおもむきなど何一つない。私がその家に感じた温もりは、決して、単にそこが陽だまりであったとか、あるいはそこで使われている材料が身近かななじみやすいものであるからだとか、そんなことから生じたものではないだろう。たしかにそれが一つの要因であることについては私も否定はしないけれども、しかし、同じような所に同じような材料を用いて建てたからといって、直ちにそれがある温もりを感じさせるものとなる、とは言えないのもまたたしかなことだからである。

 そうだとすると、この温もりは何なのだろうか。

 おそらくそれは、先に書いたあの人為のにおいを感じさせない人為、その人為が持つ本来的な温もりのせいなのではなかろうか。別な言いかたをすれば、そこでなされていることが全て、現代普通に使われる意味ではなく本質的な意味での合理精神に拠ってなされているからなのだ、と言ってもよいだろう。それはすなわち、そこで生きる人間にとってあたりまえと思えるように、あたりまえのことがあたりまえになされる、ということだ。そこに生きる人間をとりまくあらゆるものの存在とそのありようを素直に認め、そのありようを拒否も否定もせず、かと言ってそれにいたずらに押しひしがれるわけでもなく、それらをそれらのありようの理に従って自らの生活のために使いこなしてゆく精神、それが彼らの精神なのだ(もっとも、彼らがそう意識していたかどうかは知らない。)彼らがやってきたことには、てらいはもとより無理がないのである。そして無理がないということこそ、そのことばの本来の意味で、合理的ということに他ならないのである。

 

 そう考えなおしてみると、私がここで見てきた信州のいくつもの道も、古来よりあるものは、まずほとんどが(そのときどきの人々の立場に立ってみると)無理のないものであったことに気づく。それは現今いろいろと問題にされているスーパー林道という名の観光道路のルートのとりかた、つくりかたの無理さと比べると、一層きわだって見えてくる。

 現代の道づくりも、そして家づくりも、それらは全て、合理の名のもとになされているのであるが、そのときの合理のなかみは、明らかに、古来の道や、あるいは今私の目の前にある傾きかけた家をつくってきた人たちの合理とは異なったものなのだ。現代的なやりかたでは、その合理の規範を、そこに生きる人間にとってあたりまえであること、人間をとりまくあらゆるもののありようからみてあたりまえであること、という根本をはなれ、全くちがう何か別のものに求めてきてしまっているのであり、しかも今なお、求めたがっているのである。合理とは、私たちの外に、私たちとの関係を断ち切った形で存在するものでも、するべきものでもなく、あくまでも、私たちにとって合理でなければならないはずではないだろうか。

 

 谷間に入っておよそ一時間半、両側の山も低くなり、谷幅も広がり、それとともに、家々もだんだん低い位置に下りてくる。そして前方の視界が開け、善光寺平とその向うの雪を被った高山が、盆地特有のもやのかかった空気のなかにかすんでいる。道は犀川の北岸を、そのまま進むとまっすぐ善光寺そのものにぶつかる形で善光寺平へと入りこむ。右手には、一段下って、今の長野市の市街が拡がっている。信越線を使ってしか長野市を訪れたことのない私にとっては、善光寺そのものの立地の意味がいまひとつ分らなかったのであるが、今回このようなルートで訪れてみて、初めてそれが分ったように思えた。それは善光寺平の、言わばへりにあたるちょっとした高みにあるのである。そして、今の市街地は、かつてはどうしようもない低地であったにちがいない。善光寺の立地そのものも、これは極めてあたりまえな(もちろんその当時の人々にとってであるが)ことだったのである。

 

あとがき

〇どうもこのところ、せわしいことが続いて、落ち着いて書けない。多忙は犯罪である、気をつけろ、との忠告をいただいた。今回もまた、日をおいて書いているので、どうも集中力に欠けてしまったようである。

〇信州はほんとに山国である。どこへ出るにも必らずどこかで峠を越えなければならない。峠を介して他国とつながっているのである。峠と道、これは興味をもちだすと尽きることなく面白い。できることなら、この信州へ通じる峠と道を、くまなく、四方八方から歩いてみたいと思う。峠の向うとこちら、そのありようのちがいはまことに興味深いのである。地図もない時代に、こういう数多くの道を見出した人たちの道理にも興味がわく。そしてそれはまた、おそらく、水理、すなわち河川に対する人々の考えかたに対しての興味にも連なるだろう。

〇こういうように各地を見て歩いていつも思うのは、どうして今、極くあたりまえの屋根の家が、地方からもなくなってきつつあるのか、ということだ。新しい家の半分は、まわりにある先人の知恵の集積に対して何の関心もはらいもせずにつくられている。だれがこうしてしまったのか。

〇今年は寒い。既に雪は二度も降った。

〇それぞれなりのご活躍を!

     1984・2・1           下山 眞司


「我が村 ・ 桜村」 1983年度 「筑波通信 №10」

2020-02-11 10:13:02 | 1983年度「筑波通信」

 

PDF「わが村・桜村」(含「枯れ木に花は咲かない」「住宅建築」1983年掲載)A4版9頁

「わが村・桜村」        1984年1月    

 衆議院議員の選挙も終り、諸人こぞっての政治評論の季節も、また元どおりに何事もなかったように、折からの師走のあわただしさのなかに消えていってしまうにちがいない。それにしても、今年の冬は寒い。

 この選挙の一週間前に、わが村でも村長選挙があった。

 わが村桜村は、いわゆる研究学園都市の大部分が属している村である。人口も、昔からの村人たちと、開発とともに新しく流入してきた人たちとから成っている。大学生の大部分が桜村民である。そして、ここでは通常、昔からの村人を旧住民、流入組を新住民と呼んでいるが、もう少し詳しく語りたい人たちは、昔からの村人たちを原住民、流入組の内でも開発当初の何もないころからいる人たちを先住民、いろいろできあがってから入ってきた人たちを新住民と呼ぶことが多い。流入組をこのように分けるにはそれなりの理由がある。同じようによそ者でありながらも、この二者ではものの感じかたがまるっきりちがうからである。この後者の分けかたでの先住民(つまり、何もないときに流入してきた人)たちは、この村が不便であるとか文化がない、などとは決して軽々しくは言わないのだが、新住民(つまり、ある程度までできあがってから移ってきた人たち)は、概して、そういうことを平気でいう。一例で言えば、旧住民はバスの便がよくなった、と言い、新住民はバスの便が悪いという。なぜこうちがうのかと言えば、それは極めて単純な理由によってである。よいか悪いか、その評価基準がちがうからなのである。何もないところに、いわば開拓者のごとくに移り住んだ人たちにとって、一日に数えるほどしかなかったバスの便に比べたら、今はまさに雲泥の差である。こんなにも便利になったのである。そして彼らは、生活の利便を向上させるために、いろいろとやってきた。そういう所で生活するにはどうしたらよいか、身をもって考えてきた。というより、考えざるを得なかった。郷に入ったら郷に従ったのである。

 だが、まるっきりの新住民たちはちがう。彼らの基準は、たとえば東京にある。なにごとも東京なみでなければならないと思う。それでいて緑が多く、空気のきれいなのがよい、などという。言ってみれば勝手なものだ。そういったよさは、あたりが東京なみでないからこそ得られているのにも拘らず、それを(なにもしないで)両方ともいただこうというのである。そして、ここには文化がないと言う。そのときの文化とは、いわゆる東京の文化である。東京の文化というのがいったいあるのかどうかは知らないけれども、とにかく最新の東京の文化、(あるいは情報と言った方がよいのかもしれない)のことなのだ。あるいはそれは、西欧の文化のことなのかもしれない。桜村などでは、東京とちがって西欧からあまりにも遠すぎるというのだろう。それはそうだ。開発区域をちょっとはずれて、同じ村のなかの昔ながらの場所へ行けば、そこにあるのは日本の(あくまでも日本の)農村であり、田舎の香水はときおりただようことはあっても、いうところの西欧の香りなど、これっぽっちもないからである。文化とは西欧の文化を言うのだと(未だに)信じている人が多く、とりわけ学園都市に移り住んだ人たちには学者・文化人と世で呼ばれる人たちが多く、彼らのあこがれはあくまでも西欧であるらしいから、学園都市には文化がない、文化をつくりだすためには教会がなければならない、などと真面目に言いだす文化人さえいるのである。(もちろん新住民の全部がそうだというわけではない。)これは少し度はずれた例ではあるが、しかし、移住者の多くは東京をはじめとした都会での生活に慣れ、いろいろの情報のなかから(つまり選択肢のなかから)選ぶのをあたりまえとしてきているから、そして、選べるものがたくさんあることが文化だと感ちがいしているから、自ら創出しなければなにもない村の状況は、文化がないように見えるのであるにちがいない。

 開発の当初に移り住んだ人たちもまた、当然のことではあるけれどもその移住地のありさまに対して、りつ然とした思いを抱いたはずである。なぜなら、そこには研究学園「都市」の歌い文句とはうらはらに、何もそれらしきものはなかったからである。あるのは、これも場ちがいに見えたはずだが、突然そそりたつ公団住宅風のアパート(つまり彼らの住み家)と建設中の研究施設、そしてはてしなく続く山林田畑と、一雨降れば泥沼になる道・・・・だけ。夜になれば漆黒の闇。住む所があるだけ、まだよしとしなければならない。私白身、1970年ごろであったか、その一角に建てる学校の敷地の下見に来て、いささかどころか大分、その状況に驚いた覚えがある。ここに都市ができるのだろうか、という思いもなくはなかったけれども、それ以上に、関東の東京からわずかしか離れていない所にこんな場所があったのか、という驚きの方が強かったように思う。延々とうねるように続く大地。その上にところどころに散在する村落。そのときの私にとっては、まさに「こんな所に人が住んでいる」という驚きが先にたったのである。バスの便は極端に悪く、かと言って車で歩くにも道をよく知らないと迷うだけ。遠くに筑波山が見えるときだけが唯一のたより。よもや数年後にここに移り住むとは夢にも思わなかったのだが、しかしそのとき既に、あの先住民たちが居ついていたのである。学校用地の下見をそのころやっていたくらいだから、当然新設の学校などあるはずはなく、子どもたちは昔からの村の学校に通い、従って村人たちのつきあいも結構あったらしい。村人たちによる野菜などの青空市場もよく開かれていたようである(このごろはあまり聞かないが、それでも週に一度ぐらい、泥だらけのとったばかりの野菜などをもって、村のおばあさんが尋ねてくる)。

 この先住民たちは、状況が状況だから、かなり早い時点で、ここで都会なみの生活慣行を求めることが無意味であることを悟り、そこでの生活のありかたを考えだすのである。商店が近くにあるわけではなく、あっても雑貨屋さん程度だから、そこで、たとえば週に一度の買だめがあたりまえとなり、そしてそのショッピングのためには、、バスに期待をもてないから、車が必需品となり免許をまず取得することとなる。考えてみると、これはこのあたりの昔からの村人たちのやっているのと同じパターンなのだ。ただ、村人たちは、ある程度まで食糧は自給しているけれども、この先住民たちにはそれがないだけのちがいである(もっともそれは重大なちがいなのだが)。妙な話だが、こういう所に住むと、大型冷蔵庫の意義、そのあるべき姿がよく見えてきて、デザイナーはいったい何を考えてデザインしているのか、文句の一つや二つが言いたくなる。簡単に言えば、そういう状況の下で生活すると、もののありかた、ものへの対しかたはもとより、生活のすすめかたに至るまで、少しばかり大仰に言うと、根源的に考えざるを得なくなるわけなのだ。裏返して言えば、都会的生活での慣行がいったい何であったのかが問われるのである。

 しかしいまや、この先住民たちの数は相対的に少なくなってしまい、新住民が圧倒的多数になっている。彼らの多くは、郷に入って郷に従うこと(つまり状況にあわせて生活を適応させること)をせずに、ただいたずらにないものねだりをしたがるのである。

 

 その一方で、この新住民のふるまいに似た考えかたが行政当局、とりわけ国や県のレベルにあるようだ。町村合併をして「都市」にしようというのである。ここは20万都市にするのが当初の計画だったのだが、いまでも開発地域はもとより周辺まで数えても、その半分にもなっていない。 20万都市の絵にあわせて道路その他を造ってあるから、その維持だけでもけたたましい額になる。村や町だけでは完全に持ちだし、赤字である。「市」にして国から金をせしめよう、というのが合併論の論理であって、そうすれば自ずと文化的にも向上する(その意味は都会なみになる、ということだ)というのである。その人たちは、これまた恐るべき発想をする。たとえば、いま村役場には大学卒がほとんどいない。だから運営が下手だ。市にして職員を精選すれば、ずっとよくなる。こう言うのである。これを合併促進の研修会で、町村職員を集めた席上で広言したというのであるから立派も立派、何をか言わんやである。市にして雇用が増えるというけれども、その職種がいかなるものか、推して知るべしだろう。

 

 この人たちのもう一つ面白い発想は、市になることによって、地価が上り、それはすなわちストック(財産の価値)が増えることであるから歓迎すべきだ、という考えかたである。実際に、いま学園都市開発域のまんなかあたりの地価は、住宅地で、坪あたり25万以上などというのがあたりまえになりつつある。たしかに土地持ちの資産は増えたかもしれないが、なにかそこで商売でもしないかぎり、普通のサラリーマンでその土地を買える人はそうざらにいない。だから、土地持ちの人たちは、やむを得ず草ぼうぼうにして、まさに土地を遊ばせるか、学生相手の下宿屋さんを営んで生活をしているのが多い。元通り畑を作ろうにも、もう作れるような状態では(人も土地も)ないのである。たまたま最近の朝日新聞の地元版に紹介された短歌が、そのあたりの状況を端的に語っているので、ここに転載してみる。

  学園におおかた耕地はつぶされて農婦人夫となり今日も出てゆく

                          (佐藤春介)

 

 開発が言われだしてからそろそろ二十年、実際にいろいろな研究施設が動きだし人が流入しはじめて十年(今年、開設十周年を祝った施設が多い)、開発当初のあの甘い話が決して甘い話ではなかったことを、地元の人たち(原住民たち)は、さめた目でながめはじめているようである。

 あの多くの開発がそうであったように、ここでも開発は地元の人たちすなわち先住民たちの存在を忘れ、あるいは無視した、一方的なものであったのである。

 

 さて、村長選挙はこういう複雑な状況をかかえた村で行われた。有権者数は、昔からの村人(すなわち原住民)約8,000、新たに移住してきた人たち(すなわち先住民と新住民)約17,000(このなかには学生がおよそ2,000はいるだろう)である。流入人口が完全に地元を圧倒しているのである。主たる候補者は、地元人たる元助役と、都市開発を推進したい人たちが強く推す新住民の弁護士。前回のときも同様に地元の元教育長とこの弁護士の対戦であったがわずかな差で地元人の勝利。従って今回の場合は、大方の予想では確実に新住民サイドの勝利になるだろうと思われていた。数の上の単純計算では、どう見ても元助役の側が不利に思えるのである。

 ところが、結果はちがっていた。元助役7,500、弁護士5,000、それにもう一人の共産党候補2,500という結果がでたのである(投票率60%)。

 これは、思いもかけない大差である。

 新聞記者の分析によれば、地元候補7,500の内、少なくとも2,000は移住した人たちからの票ではないか、とのことであった。たしかに、そう考えると勘定が合うのである。そうしてみると、移住民候補者ならびにその支持者たちは、同じ移住民の選択によって破れたのである。ものごとそう単純にはいかない見本のような話である。

 

あ と が き

〇暮になってなにかと忙しく、なにがなんだか分らないうちに歳だけはとってしまいそうである。

〇暮の一日、所用で甲州、信州へ行ってきた。主要国道をほぼ一日車で走る破目になって、例のスパイクタイヤ公害の実態を十分に賞味させてもらった。ほんとにこれはすごい。立寄った家で出してもらったタオルで顔をぬぐうと、たちまちねずみ色である。それにしても、なんとトラックが多いことか。並行して走る国鉄の貨物列車は、機関車がもったいないような短い編成でさっさと行ってしまうのに、国道は荷を満載したトラックの列、おまけにのろのろの渋滞。鉄道線路がもったいない。 トラックは戸口から戸口へとどいて運賃も安いから荷はみんなトラック便に移ってしまったのだというけれども、それではなぜ運賃が安いのか。それは、道路の維持管理費を負担してないからである。国鉄はそれを一式自前でやっている。その費用は自動車諸税とは比べものにならないほどの高額なのである。もし自動車に、鉄道なみの維持管理費を自己負担させたならば、またたく間に自動車利用が減り、鉄道荷物・貨物が増えるはずだそうである。それによる連鎖反応(好ましい方向への)は大変なものだろう。

〇最近、「住宅建築」なる雑誌に寄稿した一文を付します。「通信」に書いてきたことを再編したようなもので、いつぞや紹介した「土は訴える」という本の評に名を借り、言いたいことを言ったという妙な文ですが、ついでにご笑覧ください。

〇新年もそれぞれなりのご活躍を!

       1983・12・29             下山 眞司

 

投稿者より    「筑波通信」の掲載は、今まで通り隔週とさせていただきます。 隔週の間の週は、しばらくお休みを頂きます。

       よろしくお願い致します。                                下山 悦子


「参考 日本建築技術史年表」 日本の木造建築工法の展開 

2020-02-04 10:45:15 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の建築工法の展開 参考 建築技術史年表」.pdf

PDF「日本の木造建築工法の展開 目次 第Ⅰ章~第Ⅴ章」A4版2頁

 

参 考 建築技術史年表(2009年版)      奈良時代以後のスケールは年数に応じています

 

 

 投稿者よりご挨拶申し上げます。

 故人下山眞司作成の「日本の木造建築工法の展開」について、昨年2月より、本ブログに掲載を致してまいりました。

 第Ⅰ章から第Ⅴ章まで掲載が済み、残すところ最終章の「第Ⅵ章」のみとなりました。

 「第Ⅵ章」16頁は、現在の状況について述べている部分にあたります。

 ご推察いただける方もおいでと思いますが、第Ⅵ章は現在の状況についてのいわば直球ともいうべき内容が少なからずあり、この数か月、本ブログに掲載ができるか検討してまいりました。  

 できれば掲載したく、第Ⅵ章の再編成、掲載図版の再作成を試みておりましたが、部分的にせよ直球を変化球に転じることは、やはり容易ではなく、最終的に、本ブログへの掲載を行わないことに致しました。 

 最終章を掲載できずに終えてしまうということは、投稿者として残念で、またお読みいただいている皆様には大変申し訳ありません。

 

 故人の建築に対する姿勢は、すでに故人自身がこのブログで多岐にわたって述べております。 何かの折にはお寄りいただきたくお願い申し上げて、「日本の木造建築工法の展開」を終えさせていただきます。

 突然の終了ではありますが、どうぞご了承のほど、お願い申し上げます。

 

 「日本の木造建築工法の展開」には、様々な時代の建物の詳細な資料が集められています。 普段はなかなか目にすることのできないその貴重な資料を時代を追って掲載できたら というのが、当初投稿者が考えたことでした。 その望みがかないましたこと、厚く御礼申し上げます。 

 

 「同 展開」の投稿を終えるにあたって、故人が2009年に作成致しました「参考 日本建築技術史年表」を掲載させていただきます。 また第Ⅴ章までの目次(ノンブル入り)をPDFで添付致します。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。                           

                    2020.02.04                  投稿者 下山悦子 

 


「情 景 二 題」  1983年度「筑波通信№9」

2020-01-28 10:02:08 | 1983年度「筑波通信」

PDF「情 景 二 題」 1983年度「筑波通信№9」

  情 景 二 題

 土浦の駅も今年になって駅ビルが建ち、何の変哲もない普通の近代的な駅になってしまった。昨年までは、一説によれば船に見たてたというそれなりに風情のある木造の建物だった。地力の都市の玄関である国鉄の駅には、このようにその土地のイメージ、シンボルをそのまま形にしてしまった例が、かつては少なくなかったように思う。寺院をかたどった奈良の駅などは、未だそのままだろう。
 その駅の建物も、その都市が元来その門前町として発展してきた、ある寺院を模したものであった。大きな地方都市の駅前ならどこでもそうであるように、この地力中心都市の駅前にも、ロータリーと噴水のある駅前広場があり、バスやタクシー、そして人の群れであふれている。駅側から広場の対岸へは、横断地下道も通じていた。

 ある冬の朝、私はその駅前の、広場をはさんで駅の真向いにあるビルの最上階の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。広場を目の下に見ることができる私の席には、冬の朝日がたっぷりと差しこみ、それだけでも外とは比べものにならないほど暖まっていた。北国の町並みは朝もやのなかにかすみ、昨夜町にも散らついた雪で化粧した山々も、遠くまた近く、朝の光の中で鈍く輝いている。駅前では朝のラッシュが始まっていた。
 私は何ということもなく、ただ広場をぼんやりと見おろしていた。しばらくして私はあることに気がついた。たしかに駅前に車も人もあふれてはいるのだが、それは東京の大きな駅のようにのべつまくなく群れているのではなく波があるのだ。いっとき広場一帯が車や人であふれたかと思うと、次の瞬間にはそれが消えてしまう。どうやらそれは列車の到着・発車時刻と並行しているようだ。列車の時刻が近づくと、広場にバスが集まり始め、そして、最盛期にはあっという間に、それこそ身動きができないほどにバスで埋ってしまう。バスから降りた人たちが、寒そうに駅舎の中に吸いこまれる。そして広場は、空のバスだけとなり閑散となる。しかしそれも束の間、今度は駅舎からどっと人が吐きだされてくる。列車が着いたのである。人々はそれぞれ、歩き、そしてバスに乗り、人もそしてバスも広場から去ってゆく。静かになり始める。駅前には、タクシー待ちの人たちの列とタクシーの列が残っている。がそれも一人また一人、一台また一台と消え、そして、次の列車の到着時刻のころまで、広場にはほんとの閑散が訪れる。 10分もすると、早々と客を送り届けてきたタクシーがぽつりぽつりと戻ってきて、タクシーだまりが埋ってくる。客はいないから、運転手たちは三々五々立ちばなしなどしている。一時の広場の休息の時。歩く人もまばら。人の群れ、車の群れに隠れていた噴水が、多分薄く氷が張っているのだろう、鉛色の水面に落ち、時折吹く寒風にあおられた水が、池の外の路面をぬらしている。
 このような波が、さきほど来もう何度となく繰り返し、広場に押しよせ、そして引いていっていたのである。おそらく、この波動は、その間隔の長短こそあれ、朝から晩まで駅頭を洗い続けているのである。そして、東京あたりの大きな駅でもこれとほぼ同様なことが起きているはずなのだが、ただ、列車の間隔が短かく、そしてまたいくつもの線が乗り入れ、しかも相互の接続も考慮せずに次から次へといわば勝手な時刻に到着し発車するから、全体としては均されてしまい、このようなめりはりのある波動が感じられず、いつでもわさわさしているのである。そしてその場合、ラッシュ時には、ある時間幅で大きくふくらんだ波が津波のように押し寄せ、さきほど書いたこの地方の駅頭を洗うリズミカルないわば心地よくなじめる波動というものは全く感じられない。
 私は興味をそそられて、この駅頭を洗うリズミカルな波の動きを観察し続けた。私があんなにまじまじとバスの屋根を見たことは、そのときまでかつてなかったろう。色とりどりに塗られたバスの胴体はいやでも日常目に入るが、屋根など普段は気にもしていない。それはなかなか愛きょうがあった。ここのバスは全体にてんとう虫かなにかの虫の背中のようだった。ビルの中は厚いガラスで外の音があまり聴えてこないから広場をそういった虫がうごめいているように見えた。

 その押しては返す駅頭の波打ちぎわに、波に動ぜず立ち続ける人物がいた。人の波に埋もれても、波が引くと、相変らず前の所に立っている。駅舎の前ではなく、そこから少し離れた横断地下道の入口近く、人の流れ路からわずかにはずれた所にその人は立っている。若い女性のようである。初め私は気がつかなかったのだが、彼女はもう大分長いことそこに立ち続けていたようだった。彼女は駅の方に向き、列車が到着し、しばらくして人々が駅舎からあふれでてくると、二三歩前に出て身を乗りだすように人波に目をやっている。人を待っているのだ。待ち人は列車に乗ってやって来る。寒いのに、駅舎の中で待てばよいのに、などといらぬお節介めいた思いもわいてきたが、あそこで待つにはそれなりのわけがあるのだろう。人波がまばらになり、待ち人は今度の列車でも来なかったらしい。彼女は再び元の場所に戻る。かなり長いこと彼女はこれを繰り返していたのである。
 私が彼女の存在に気づいてからも、もう三四回は波が打ち寄せたように思うが、待ち人は一向に現われない。何回目かの波が引いていき、広場が閑散となりかけたとき、ついに彼女はあきらめたらしい。やおら彼女はその場を離れ歩きだした。その時、一瞬、腕の時計に目をやったようにも思う。彼女は、ゆっくりと二三歩駅の方へ向う素振りを見せたあと、ひるがえって今度は地下道に向い足早に歩きだした。時計に目をやったように思えたのは、あるいはその時だったかもしれない。彼女は駆け降りるようにとんとんと階段を降りだした。何も知らない人には、それは軽やかな足どりに見えただろう。だが、二三段降りたところで、私は彼女のリズミカルな足の運びが一瞬乱れたのを見た。それは一瞬にもならないほんとにわずかな時間であった。降りるのをやめようとしたかのように見えた。それはおそらく、もう少し待つべきではないか、今去ってしまうとすれちがいになってしまわないか、駅の伝言仮にでも書くか、しかしそれはまずい、・・・・といった彼女の心の内に交錯した思い、迷いの卒直な表われだったのだろう。そして再び一瞬後、彼女はそれを振り切るかのように、前よりも更に足早に地下道へ消えていった。
 
 文章にすると長くなるが、彼女が待つのをあきらめて歩きだし、そして地下道に吸いこまれるまでのできごとは、ほんの数秒の内に起きたことで、普段なら私だって気がつかなかっただろう。
 駅前では朝のラッシュも終りに近づき、列車を降りる人も、そして待つ人たちも少なくなり、駅前特有の昼間のけだるさが訪れかかっていた。

 

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 そのとき建築学科の学生であった彼は、夏季休暇で家に帰っていた。彼の家は地方の小都市にあった。その町は歴史の古い町で、そういう町によくあるように、明治のころに建てられた洋風の建物がまだあちこちに残っていた。
 夏休みの宿題に、彼には建物のある風景のスケッチを描くことが課せられていた。そして、彼はこの洋風の建物の一つを描くことにした。彼が描く気になったのは、病院の建物であった。白っぽいペンキの塗られた木造洋風の二階建の建物で、囲りにはこれも古風な柵がめぐり、そこに開いた門のわきには、そういう建物にはよくあるように守衛所があって、そこには守衛が一人、所在なさげに座っていた。その門へ通じる道の両わきには、これも建物と同じぐらい年月を経ているのだろうか、大きな街路樹がならび、道の上におおいかぶさっていた。さながら緑のトンネルとなったその道は人通りはさほど多くはなく、ただ真夏の太陽が木もれ日となり路面にさしているのが印象的であった。
 彼は、その道のやや病院よりの場所に画架をすえ、そこから木の間ごしに見える建物を描くことにした。よく晴れあがった暑い日の昼下り、その町は盆地にあるから暑い日は滅法暑くなるのだが、この緑の通りだけは時折涼風が吹きぬけ別天地のようだった。通りには涼をとりがてら散歩する人をちらほら見かけるだけだし、病院の構内もときどき白衣の人が通るだけ。あたりには夏の日の午後の静けさがあった。
 彼のスケッチは順調に進んでいたわけではなかった。こった造りのあの洋風の建物は、絵にするとなると結構難しい。はかばかしくなかった。散歩のついでの道草に、彼のスケッチをのぞきこんでゆく人もいた。彼にとってそれは、仕事がうまくいっていないことも手伝って、いらだたしく、うっとうしかった。時間はいたずらに過ぎていった。彼は、今日はもうやめにして明日また来ようかと思いだしていた。
 そのとき、彼はまったく気づいていなかったのだが、彼のそばに和服姿の老人と若い女性が立っていた。彼の後から彼のスケッチを見ている。彼はちらっと彼らを見た。こざっぱりとした身なりの品のいい老人と、大きな麦わら帽子をかぶり清々しいワンピース姿の、年のころ二十四・五の女性であった。二人は連れらしく、どうやら女性の方が絵に関心があるようだった。彼はなんとなく気恥しく、思わず顔が紅くなるのをとめようがなかった。彼女はなお熱心に彼の手先を見つめている。彼の手はますます重くなった。やがて彼らが立ち去る気配を見せ、彼は内心ほっとした。と、そのとき、彼女が後から声をかけた。「明日もいらっしゃるんでしょう?」彼は突然のことにどぎまぎし、あいまいに「ええ、まあ」とだけ応えた。彼らは病院の方に向って、老人の歩調にあわせ、ゆっくりと歩み去った。あたりには、また元どおり、木もれ日が鮮やかに地面に落ちていた。彼はそれっきり、その女性のことなど忘れてしまっていた。
 翌日はあいにく天気はよくなく、ときどき雨がぱらついた。彼は絵を描きにゆくのをやめにした。

 次の日は、再びよく晴れあがり、また暑くなった。あの通りの風景は地面が少し湿っぽい他は一昨日と何も変らず、路面にはあいかわらず夏の陽ざしが木もれ日となり落ち、涼風が通りすぎていた。
 彼が画架をひろげてしばらくたったとき、病院の守衛が彼の方に向って歩いてきた。一昨日ここで絵を描いていた人と同じ人かどうか確認したあと、守衛は彼に白い紙袋をさしだした。けげんそうな顔をした彼に守衛は説明しだした。昨日の午後、若い女の人が尋ねてきて、あそこで絵を描いていた学生さんがもし来たら渡してくれと頼まれたのだという。彼がその日も来ると言っていたので来てみたけれどもいない、少しは待ったのだが列車の時刻がせまり、もう時間がない、とのこと。聞けば、数日の予定で、その病院に入院している祖父を見舞にはるばる京都から来ていて、その日の夜行で帰るのだという。
 彼は、もうすっかり忘れていた一昨日のことを思いだした。大きな麦わら帽子をかぶりワンピースを着た女性が、老人と連れだって、病院の方へ通りを去ってゆく光景が、ありありと目の前に浮んできた。あの女性だ、と彼は思った。彼の心は騒いだ。守衛はことの一部始終を話し終わると、門の方に帰っていった。

 白い紙袋の中には、とりどりの菓子が入っていた。
 彼は、なにか非常にとりかえしのつかないことをしてしまったのではないか、との思いにとらわれてしまっていた。
 あのときはさほど気にもとめず、ちらっとしか見なかったあの女の人の姿を、探るようにして思いだそうとしても、彼の内に見えてくるのは、あの大きな麦わら帽子と清々しいワンピースの姿だけであった。彼はもどかしさを覚えた。どうしてもっとちゃんと見なかったのだろう。どうして昨日描きに来なかったのだ。どうしてどうでもいいような返事をしてしまったのだろう。彼は自分をのろいたかった。

 今でも、夏のふとした一瞬などに、あの大きな麦わら帽子、ワンピース姿、木もれ日・・・・など、あの時の光景が突然彼の目の前に浮んできて、そのたびに、あのある種のもどかしさと、とりかえしがつかないとの思いがないまぜになって、彼の心の一角を横切っては消えるのである。
 重要文化財に指定されてしまったあの病院も、今は他所に移設されてしまって、もうない。そして、あの風景も、今はもう、わずかに彼の心の内に残っているだけである。

 


あとがき

いつもなら、駅頭で目にした情景をもとに、たとえば「駅」についての考えかたの移り変りなどについて、ながながと書くはずである。最初はそのつもりであった。ところが、途中で、後段の話をたまたま耳にして、その話も紹介したくなった。というのも、こういう類の体験は、おそらくだれもが、程度の差こそあれ味わっているのではないか、しかし、普段はすっかり忘れてしまっているのではないか、たまにはこんなこともあるのだ、と思いだし、思い起してみるのもわるくはない、そんな風に思ったからである。そして、今回は何も言わずに、情景だけを書くことにしたのである。

とは言うものの、感想を一つだけ書く。
〇後段の彼の話を聞いたとき、私にも、おぼろげながらその光景・情景を描いてみることができた。そして多分、私もまた淡い悔恨の情を抱くにちがいない、とも思った。ただ、私には「とりかえしのつかない」ということばが今一つ心のどこかにひっかかってならなかった。私はあえて、とりたてて「とりかえしのつかない」と言うようなことはない、と言い切ってみた。当然のことながら、そんな不遜なことが言えるのか、というような反論が返ってきた。はっきりと論理だった理由の用意があって言ったわけでもないから、そう反論されると口をつぐむだけだった。しかし私は、そうかといって前言を撤回したわけでもなかった。
 もし彼が、翌日も絵を描きにきて、あの女性と話を交わし、そしてその日が過ぎていったとしたならば、彼の内にそのときのイメージが強く残っただろうか。まして、昨日のうちに今日のことが全く予想できていて、そのとおりになったとしたならば、やはり何事も残らなかっただろう。残念ながら、私たちには明日の予測はできない。今日になって、昨日までのことをあとづけることだけができる。そしてそのとき、あそこでああしたらこうなっただろう、と思うことはできる。しかしそれは、つまるところ結果論でしかない。悔んだとて戻れるわけがない。そういうように考えるなら、生きてゆくということには、とりかえしのきくことなどなく、全てがとりかえしのつかないことなのだ、と私は思う。おそらく私が「とりかえしのつかないことなどない」などと言ったのは、だったら「とりかえしのきくことを見せてくれ」と言ってみたかったからではないだろうかと思う。えらく強気のように聞えるかもしれないがそうではない。私の内にだって、無数に近い悔恨の情がうず高く積っている。時折精確な人生の設計図を描いておけばよいではないか、などという思いがわかなかったこともないけれども、つまるところ、それは建物の設計以上に難しい。というより不可能に近いだろう。そういえば私が子どものころきらいな質問は、大人が好きでよくやる「将来何になりたい?」という問いかけだった。私はいつも困惑した覚えがある。今の私だったら、なるようになる、などと小生意気なことを言ったかもしれないと思う。もちろん心のどこかに願望めいたものがないわけではなかったろう。しかし、それがどう具体化されるか分りもしていないのに、結果だけを言うのにはためらいがあったのだ。今の私も、基本的には何も変ってないようである。今私は大学の教師をやっているけれども、私の過去のどこを探しても、大学の先生になるなどという願望など見つからないだろう。あるいはそれは、とりかえしのつかない道に入ってしまったのかもしれないけれども、先行どのようになろうとも、それを帳消しにするわけにはゆかないのである。その意味では、あの駅頭の彼女のように、一見軽やかな足どりで、これからも更にうず高く積るであろう悔恨の情を背負いつつ歩くしかないらしい。建物の設計もまた然り。うまくいった、と思うのはそのときの、しかも単なる自己満足にすぎぬかもしれず、何らかの悔恨の情は必らずついてまわる。それでも設計をやるというのはいったいなぜなのか、設計などやれる器か、などと自問自答しはじめ、自分は偽善者ではないか、と思いたくなるときもある。

年が暮れる。新年もまた、それぞれなりのご活躍を!
          

         1983・12・1           下山眞司 


「第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷,Ⅴ 明治期以降の住宅の様態」

2020-01-21 10:21:10 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C参考,Ⅴ」A4版3頁

 

第Ⅳ章ー3-C参考 武家の屋敷

武家屋敷の諸例  黄色に塗った部分は接客用空間。

は、藩主の江戸中屋敷であり、敷地が広大。 いくつかの建屋を渡り廊下でつなぐ分棟式の構成。

① 宇和島藩 伊達家 江戸中屋敷 平面図                       日本建築史図集 より

       (投稿者より  2020.01.27  図版掲載ミス:②図版が重複:があり、①図版を差し替えました。訂正致します。)

 

は中級の旗本屋敷。 敷地は約300坪。

18世紀前半、旗本の屋敷は、禄高により70坪から2300坪まで13階級に分れていたという。この例は、江戸麹町にあった禄高300石の武州代官の屋敷。

中級旗本屋敷 平面図                            日本建築史図集 より

 

は、岡山にあった下級武士・樋口竜右衛門の屋敷。 敷地は約100坪。

③ 下級武士の屋敷              平井聖 日本建築の鑑賞基礎知識 より

 

 

Ⅳ-4 近・現代:明治期以降の住宅の様態  

 江戸幕府の解体により、それまで各藩に属して暮しを維持してきた武士階級、とりわけ中級以下の武家は、帰農できる者には限りがあることから、多くが職を求めて都会へ集まります。

 しかし、都会には、その人たちを受け容れる職が用意されていたわけではなく、ましてや住まいが用意されていたわけではありません。そこで、この人たちは仮の拠点・仮の住まいをつくるべく奔走し、また、その人たち向けの貸家をつくる人たちも現われます。

 当時の都会、たとえば江戸あらため東京の中心部:ほぼ現在の山手線の内側に相当する一帯:の居住地に適した場所の大半は、下記の(14頁の)図3、図4に見るようにすでに住宅地になっており、新来の人びとの住み着く場所はないに等しい状態でした。当時の都会に残されていた土地は、居住地に適さない土地、谷筋などの低湿地だけだったのです。

図3 寛文年間(1660年代)の江戸     図集 日本都市史(東京大学出版会)より 

 

図4 江戸の藩邸の立地                                                  同書より

 

 低湿地でも、下記の(14頁の)図5のように、蔵前周辺の低湿地には、商工業の性格上、多くの商工に携わる人びとがすでに住み着き下町を形成していましたから、ここに新たに住み着くのも難しいことでした。そのため、新興の都市居住者たちは、既存の居住地のいわば隙間に住み着くしかなかったのです。

 

図5 明治30年頃の東京中心部   陸地測量部 1/20000地形図より 文字・スケールは編集

 

 この新興の人たちが構える住宅は、すべてがこれまで見てきた諸例のように長年住み続けることのできる建屋ではなく、いわばとりあえずつくりの建物が大半であったと言ってよいでしょう。

 下図は明治期の都市居住者:勤労者の住宅です。敷地の大きさは分りません。 なお、方位は、①②は上方が南、③は上方が北です。縮尺は各図ほぼ同一です。

 

① 明治初期の勤労者住宅    日本建築の鑑賞基礎知識より

 

 明治初期の勤労者住宅            日本住宅史図集より

 

③ 明治30年代の借家 (夏目漱石、森鴎外が住んだ) 日本建築の鑑賞基礎知識(至文堂)より 

 

 おそらく、①程度の建屋や、長屋が多く、つくりも仮設に近いものだったのではないかと思われます。           しかし、これらには、規模の大小にかかわらず、明らかに武家住宅の影響が認められます。

  明治末から大正期になると、目加田家のように、南側の諸室と北側の諸室の間に廊下をとるいわゆる中廊下式住宅が現われますが(218頁参照)、これも基本は武家住宅を踏襲しています。

 

 

Ⅴ 幕藩体制の崩壊:近代化と建築界の概観

  明治に入り、建築界にも大きな変化が訪れます。近代化のために、各職方の下で養成するというこれまでの工人の養成法に代り、大学や専門学校による建築教育が始まります(当初は建築ではなく、造家と呼ぶ。工部省工学寮造家学科:1873年、工部大学校造家学科:1877年開設)。

 しかし、近代化の基本は、脱亜入欧つまり文物・生活一般の西欧化を目指すものであったため、建築教育で為されたのも西欧建築の様式・技術の吸収が主な内容でした。

 教育の内容に日本の建築・建物が登場するのは、西欧に留学した人たちが留学先で、自国の建物について問われても何も答えられなかったこと、彼の国では自国の建築についての知見の蓄積があること、を知ってからのこと、明治も中頃になってからのことです。 

 建築の高等教育は高踏的に過ぎるとして職方諸氏(当時は実業者と呼ばれた)向けに西欧建築技術の具体的な教科書「建築学講義録(滝大吉著、実業者対象の工業夜間学校での滝の講義録)が刊行されたのは明治23年(1890年)ですが、日本の建物についての書物の刊行はそれからさらに十数年遅れます。ここに、近代化の下での「日本の建物の扱われ方」の様態がよく表われています。

 日本の建築についての解説書「日本家屋構造(工業専門学校用の教科書、齋藤兵次郎著)の刊行は明治37年(1904年)、日本の建築用語辞典「日本建築辞彙(中村達太郎編)は明治39年(1906年)の刊行です。

 しかも、これらの書物で触れられている日本の建物・建築についての知識・知見は、すでに現代同様、技術・技法の部分的な知識、あるいは用語の解説が大半を占め、日本の建物づくりの基本的な考え方の解説はなされていません

 たとえば、「日本家屋構造」には、下のような矩形図が載っています。

 

 

 

 しかし、これはあくまでも矩計図の一例にすぎず、この図がいかなる形体の建物の矩計であるか、の説明・解説はありません。

 この書には、継手・仕口の図や解説が載っていますが、その場合も、いかなるときに、いかなる部位で、なぜ何のために用いるかなどについての説明はありません。その点は現在の建築の教材とまったく同じです。これは、明治政府の一科一学の奨めの結果であった、とも言えるでしょう。すでにこの頃から、現在と同じように、部分の知見を足せば全体になる、との考え方が主流になっていたのです。

 どのような全体を、いかにして構想するか、材料:木材をいかに扱うか・・等々、日本の建物づくりの全工程について知ることなく、様式・形式に言及する傾向はこの頃から始まっているのです。

 その一方、従来の職方は、新興の技術者たちより下位に位置づけられ、この人たちに蓄積されてきた莫大な知見を無視・黙殺する傾向が生まれ、残念ながら、この風潮は、以後現在に至るまで、衰えることなく続いています。 近代化というしがらみから、いまだに抜け出せていないのです。 

 


「 点 と 線 」  1983年度「筑波通信№8」

2020-01-14 10:41:00 | 1983年度「筑波通信」

PDF「 点 と 線 」(1983年「筑波通信№8」A4版8頁)

     「 点 と 線 」

 朝八時半、やや薄くもやがかかり、地物は全て露を帯びている。甲州の十月半ばの朝は、霜の朝ももうそう遠いことではないことを思わせる。
 折しも、黄ばみ始めたぶどう園に囲まれた急坂を、一人のおばあさんが気ぜわしそうに登ってきた。かなりの歳のようだ。家のだれかに送ってもらったのなら、坂の上まで車で来れたはずだから、きっと先ほど国道を上っていったバスを降り、ここまで歩いてきたのにちがいない。坂の途中で一息つきかけ、その時問も惜しむかのように、ほんの一瞬天を仰ぐかの素振りを示しただけで歩みを続け、建物の中に消えていった。
 私は今でもそのときの情景を鮮明に思いだすことができる。丁度そのとき私はカメうを手にしていたのであったが、その印象深い情景に対してカメラを構えることはしなかった。というより、カメラを持っていることを忘れ、おばあさんの心の内に思いをはせ、半ばぼうぜんと、その情景を見つめていたのである。       
 昨日から私は再び「 S 園 」に来ている。冬に向って、暖房の試験のために訪れたのである。そして今日は園の運動会。昨夜は園生たちもはしゃぎ、そして指導員たちは(それを見るのはほんとに久しぶりのことだったのだが)てるてる坊主をつくって、所々にぶらさげ、好天を祈っていた。
 あのおばあさんは、孫の運動会を観に、開始は十時だというのに、心せいてもう訪れたのである。聞けば、孫に会いに、今までも足繁く通ってきているのだそうである。
 
 私も半日つきあうことにした。園には広い庭がないから、運動会は園から2kmほど下った町の中心にある昔の高校分校跡を借りて開かれる。いつもは駐車場になっている元校庭は、今日ばかりは晴々しく飾られていた。昨日のうちに、指導員たちの手で整えられたのである。父母たちも集まり、町の人たちもちらほら様子を見にきている。おばあさんは最前列に陣どり、始まるのを待っていた。
 たどたどしいことばの園生の開会の辞があり、運動会は始まった。全部あわせても百人足らずの、ほんとに小さな小さな運動会だから騒がしくなるほどのにぎわいにはならないけれども、それなりの熱気・活気のある競技がくり拡げられている。会場整備も含め、さきごろ開かれた保育園の運動会よりも立派だ、というのが観にきていた町の人のことばだった。私もその熱気にのまれ、一日カメラマンになる気になった。私は園生たちの素顔を撮りたかった。格好の場所があった。校庭に面した元校舎の二階である。そこからは、全景も、そしてカメラを意識しない一人一人の表情も、手にとるように見ることができる。
 そんな活気のなかで、一度だけ、白けたな、と思えるような瞬聞があった。園生たちにとって、大きな楽しみの一つである昼食のときのことである。昼食は幕の内弁当と園の調理員たちが前日から仕込んだおでんに豚汁。父母たちもそれぞれなにがしかを用意してきているようだった。家族が観に来ている園生たちに家族と一緒の食事が許され、それまで一かたまりになっていた園生の群れから彼らが抜け出たあと、その一瞬は起きた。約半数の、家族がだれも来ていない園生がそこに残された。私は彼らの表情に、寂しそうなかげりを見たような気がしたのだが、それは私の思いこみのせいだけだっただろうか。なにかその一角から空気が抜けてしまったような、そんな気がした。まずいな、と私が思ったとき、その気配を察したかのように、指導員のいく人かが、おでんを載せた盆を持って、努めて快活に、さあ食べよう、と分け入りその場の空気をかえたので、瞬時にしてまた前のように和んだように見えた。だが、彼らは確実に、家族がそこにいるかいないか、その差を感じとったのではあるまいか。ことによるとそれは、彼らにとっては日常茶飯事だったのかもしれないが。
 
 私は、昨夜園の役員の一人から聞いた話を思いだした。いま入居している園生の半数以上のいわゆる家庭環境には、何らかの問題があるのだという。身寄りがない、身寄りはあっても、たとえば兄弟姉妹は、それぞれの生活で手いっぱいである、あるいは経済的に厳しい状況にある、・・・・という環境。昼食のとき園生席にとり残された人たちは、もちろんなかには単なる都合でだれも観に来なかったという人もあるだろうが、大半はそういう事情を背負った人たちだと見てよいだろう。
 そうであるとき、そういう彼らには単なる運動会の昼食時の白けなどとは比較にならない大きな問題がのしかかってくることは自明だろう。
 彼らが更生施設での生活を送るなかで、社会復帰できるまでになった:更生した、としよう。だが、それが、彼らが自立した生活を送ることができるようになった、ということを意味しているかというと、決してそうではない。これはあたりまえだ。彼らの生涯は、依然として、一定程度の「支え」を必要とするのである。だれが支えるか。身寄りはそういう状況にある。彼らが歳をとれば、身寄りも歳をとる。(それは、家庭環境に問題がない場合でも同じである。)つまるところ、園を出たら彼らは一人になる。たとえ就労先が見つかったとしても、拠るべがない。それゆえ、園を出るに出れない。園は更生施設ではなく定住施設化してしまう。その結果、更生施設への(とりわけ信頼がおけると思われる施設への)入園希望者は、列をなして待つことになる。
 これは、つまるところ、制度としてはたしかに養護学校・更生施設・通勤寮・授産施設・・・・といった具合に外見上は整えられてはいても、障害者の生涯という視点から見ると、それはあくまでも単に「点」としての対応しか示していない、ということだ。しかも、それらの「点」の相互のスムーズな連携は決して十全であるとは言いがたい。「点」はあっても「線」がない。健常者ならばそれでもよいだろう。自力で「線」を構築できないわけではないからである。心障者の場合はそうはゆかない。
 いま各地で心障者を抱える親たちの自分たちの施設づくりが盛んになっているが(この「 S 園 」もその一例だし、この園の見学者のなかにもそういう意向を持った親たちが多い)、それらはどれも「点」としての施設ではなく「線」としての施設:自分たちがいなくなったあとでもその代行をしてくれる施設を望んでいる、と見た方がよいだろう。明らかに、制度と要望がくいちがっているのである。

 いわゆる公共施設・社会施設というものは、言うまでもなく、人々の生活を補完するためのものだ。そして、その整備にあたっては、半ば常識的に、人々の生活をいわば縦割りの機能別断面でとらえる対応(たとえば、教育・医療・福祉・・・・)が考えられ、制度化されてきている。先に記した心障者の施設群も、心障者の状態を年令別・成長別、あるいは障害度別に、すなわち機能別に考えられたものだ。それは、少なくとも外見上、心障者の状態に対して、合理的な因数分解で対応しているから、あとは個々の因数:個々の施設を充実すればよいかのように思われる。実際、心障者の施設はもちろん、いわゆる公共施設は全て、この機能分担、縦割り分業でその整備がすすめられているのは事実である。
 だが、こと心障者に対するかぎり、重要な視点が欠落していた。つまり、年令・成長も、障害度の軽減:更生も、それは一個人の上に継続して起きる、という認識:視座の欠落である。だから、現状では、心障者は、その成長とともに、機能別に段階別に用意された施設を次々と渡り歩くことになる。まして、身寄りがない場合には、その人の生涯は、それは本来連続したものであるにも拘らず、いくつかの「点」に分断され、たらいまわしとなる。心障者を抱えた親たちの心配は、まさにこの点にある。親たちは、外見上の合理的機能分担・分業によって、あたかも荷分け作業でもするように、一人の人間を分類して片づける発想ではなくあくまでも一個人の連続した生活に視座をおいた発想を求めているのである。
 しかし、考えてみると、この発想の転換、つまり、人々の個々の生活の視点にたっての公共施設の役割のとらえなおしは、全ての公共施設についてもなされる必要があるだろう。なぜなら、人々の生活を補完することを考える、ということは、人々の生活をその外観上で因数分解・機能分解することではなく、あくまでも、人びとの個々の生活を補完すべく考えるということのはずだからである。言いかたを変えれば、ある公共施設の価値は、単にその施設自体が整備充実しているか否かによってきまるのではなく、それが、人々の個々の生活遂行にあたりどのように取りこまれ有効に働いているか、によってきまるということだ。現状の多くの公共施設には、この個々の人が個々の生活に応じて使う、という発想はなく、あるのは全て、合理的機能分担・分業自体の強化だけだといってよい。それは必ずしも、人々の個々の生活遂行にとって都合がよいわけではない。むしろ、多くの場合は不都合のことの方が多いはずだ。にも拘わらず、不満が顕在化しないのは、人々が(止むを得ず)、先に記したように、それら「点」と「点」の間を自力でつなぎ、とりあえず済ましてしまっているからだ。そして、たまたま心障者の場合はそれがなし得ないがゆえに、顕在化して表われている。多分、いやきっと、こうであるにちがいない。機能別断面で見る分業化・専門化が、そもそもの本義:生活の総体を見えなくしているのである。
 
 先号のあとがきで、最近多発している甲信地方の洪水についての感想を記したが、その後、あいついで、それに係わる話を知る機会があった。一つは、10月10付の朝日新聞「論壇」に載った論文によってである。全文をそのままコピーして載せることにする。 

      

 水田が、洪水の際の遊水池としてもさることながら、洪水になる以前の水量調節弁として重要な役割をもっていた、という指摘は、既に紹介した「土は訴える」という本にも述べられている。長野県下の全水田に10cmの水をためると、その総量は6000万t、諏訪湖に匹敵する水量となるそうである。ということは、降雨時には、なににもまして水量調節のクッション役をしてくれるということに他ならず、見かたを変えると、水田がダムの代りをしていてくれるのである。(ついでに言えば、水田は重要な地下水供給源でもあるという。水田には、代かきから収穫までなんと1500mmの水が注ぎこまれるのだそうである。その水は、元をただせば天水なのであるが、水田はその天水を直接河川へ流下させず、一時滞留させているわけである。)そしてそのある部分は地下へ浸透するのである。)
 昭和の初め、日本の「たな田」(極端な例では「田毎の月」と呼ばれるような例、「千枚田」などとも言われる)を見たアメリカの地理学者が、「日本のピラミッド」つまり、これをつくりあげた農民のエネルギーは、ピラミッド建設のエネルギーにもまさる、と言ったそうである(いずれも同書による)。そして、長野県下では、昭和55年に、全水田面積の20%にあたる水田が、米の生産調整のために消えていったという。それは、先はどの計算でゆくと、中規模ダム一個分、1500万tの機能に相当するのである。そしてまたその減反は、機械化農業に不適な「たな田」状の田(つまり、山ぎわの田)がねらわれるから、その点から考えると、水田のダム機能は、上流に近い所ほど減ったことになる。
 それに加えて、この論文にあるように、全ての小河川はコンクリートで固められ、水があふれないように改修された。結果は、これも論文にあるように、本流が一挙に増水する。タイムラグなく小河川(支流)から水が流れこむからである。そして、本流の断面はそれに耐えきれずに決壊してしまう。多分このような事態は、論者の指摘をまつまでもなくこれから各地で起きるのではなかろうか。
 そして、この事態への対応は、今度は本流そのものの断面拡幅だろう。しかしこれがとてつもないことになるのは自明である。もしそれを完全にやるとしたら、本流流域の耕地は大幅に削限せざるを得ないだろう。

 先般、かねてより構想をたてていた青森のT氏の集中講義がようやく実現を見たが、彼が実際に現地でやりあっている一事例も、まさにこの点であった。土木の専門家たちは、治水というと直ぐに河川をコンクリートで固めたがるのだそうである。タイムラグをもって流れていた時代の水量に基づいて断面を計算して固めてしまい、そこへその結果タイムラグのなくなった水が流れるわけだから、結末は見えている。彼いわく何年かに一度の少々の洪水は大したものではない。それよりも、無用の長物に近い河川改修による被害の方がこわい、と。しかし、専門家が彼の意見をとりいれるのは、常に、何かことが起きてからなのだそうである。
 
 ここにおいても、合理的機能別分担化・分業化・専門化が、ものごとを総体としてとらえる見かた:視座を見失い、ただいたずらに、分担・分業した各「点」のなかだけでことを処理しようとする傾向が見られるのである。風が吹けばおけ屋がもうかる、という話は、単なる笑い話として見るべきではない。そこには、ものごとの生起に係わる真理が語られていると見た方がよさそうだ。もちろん私は専門化・分業化を否定するつもりはない。ただ、ものごとの生起の論理を見失った専門化・分業化は(つまり、その専門のなかだけでことを処理して済まそうとするような専門化・分業化、すなわち「点」的発想は)、それは決して専門・分業とは言い得ない、と思うだけのことである。

 その意味で、T氏がここ四半世紀にわたり青森上北地方ですすめてきた施設創りの紹介は、その発想が単なる縦割りの「点」の集合でない点で(つまり柔軟な点で)まさに傾聴に値するものであった。かといってそれをリアリティをもって語ることは、到底私にはできがたい。その一部のことについては、先年、ほんのその上っ面だけを「七戸物語」のなかで紹介したが、あれではまったく不十分である。なんとかして本にまとめてもらおうと、いま考えているところである。
 彼は、集中講義の最後にこう学生たちに語った:「どこの地域にも通用するようなやりかた、というものはない。それぞれの地域に、それぞれのやりかたがあるはずで、人々はそれを目ざし、専門家はそれを考えなければならないのではないか」と。
 このなかの「地域」ということばは、そのまま「場合」ということばに置き換えてもよいだろう。要は一律の分断法でものを見ては困る、ものの見かたの根本になければならないのは、あくまでも総体を見ることでなければならないということなのだ。

 あの「 S     園 」の役員が語ったことを続けると、いま、この園の設立に係わった親たちのなかで、もう一つ別の夢物語がかわされているのだという。それは、老人ホームの夢である。ゆくゆくは老人ホームをつくりたい、というのである。私がちょっと不審そうな顔をしたのを見て、彼は説明した。老人ホームと言っでも、いま園にいる人たちだけが入るのではない。自分たち、つまり親も一緒に入るのだ、と。老後、自分たちもまた、だれかに支えてもらわなければならないときが来るだろう。そのとき、これも一定の支えを必要とする成年した我が子とともに、そこで暮す。少しのことなら老人の自分たちにもできるだろう。そういう老人ホームをつくれないだろうか。
 聞きようによると、これはこの人たちのエゴイズムだ、と言われかねない。けれども私は、そうは思わなかった。本来、公共施設・社会施設が補完しなければならない人々の生活というものの実相は、(別の言いかたをすれば、人々が公共施設・社会施設に望んでいるものは、)まさにこういうものだと私は思うからだ。いまの制度は、このことをまったく忘れてしまっている。その合理的因数分解の発想のなかで、個々人の姿が見えなくなってしまったからだ。

 

あとがき
〇10月の初め、文中にも書いたけれども、青森のT氏が来られ、集中講義が開かれた。「共存互恵」。これが、彼のこの四半世紀にわたってやってきた地域計画の根本であると言ってよい。普通なら直ぐに町村合併をしてしまうのに、そしてそれこそが合理的だと思われるのに、この青森上北地方の四町村は、あくまでの四町村のまま、しかし合同で、地域の諸々の計画を行ってきた。その計画の卓抜さ、柔軟な発想は、まさに驚くべきものであった。録音して多くの人々に聴いてもらいたいと思うほどだ。その話を聞いてしまうと、一時中央で盛んに言われた「地方の時代」などというせりふがいかに安っぽいものであるか、よく分る。中央はそんなせりふを言う前に、地方が地方であるための最高の策、地方分権の強化こそやるべきなのだ。そのとき多分、地方は中央を上まわった形の動きを示すにちがいない。だが、T氏たちは、中央にほとんどの権限をにぎられたなかでなお、これだけのことをしてきたのである。(T氏が「自治あおもり」誌に書いた論文「共存互恵」が私の手元にある。もしご希望の方があれば、コピーしてお送りします。それにより、四半世紀のほほ概略が分ると思う。)

〇「 S    園 」に泊ったとき、園生のO君のお母さんも来ておられた。私はてっきりO君に面会に来られているのだと思っていたら、実はそうではなかった。指導員の方々と一緒になっていろいろと園生の世話をしていたのである。家にいるよりもここにいる方が安まる、とのことであった。

〇ことしは寒くなるのが早いようだ。紅葉はあまりきれいではないが、毎朝、落葉が道を埋めるようになってきた。そして夜は、とめておいた車の窓に露が一面に下りている。もう少したつと、これが氷になる。そうなるとやっかいだ。うっかりしてウォッシヤーでもかけようものなら、それもたちまち氷と化す。もうじきそういう冬が来る。

〇それぞれなりのご活躍を!風邪をひかれぬように!

        1983・10・31              下山 眞司 


「第Ⅳ章ー3-C2横田家」 日本の木造建築工法の展開

2020-01-06 21:13:45 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開第Ⅳ章ー3-C2横田家」A4版7頁

C-2 横田家住宅  1794年(寛政6年)建設  所在 長野県 長野市 松代町 

松代 位置図 印  方眼1目盛:4km       関東圏道路地図 東京地図出版より

 佐久から流れてきた千曲川が、松本平からの犀川(さいがわ)と合流する手前一帯が上杉氏武田氏の合戦の場であった川中島。 その南側山際の平地に武田氏の居城:海津城が設けられた場所で、その後17世紀初めに真田氏の居城となり城下町が形成され、その概形は現在も見ることができる。

 横田家は眞田家の家臣。奥会津・横田の出ゆえに横田を姓としたという。 横田家住宅は、七代当主が1794年(寛政6年)に建てたことが墨書で判明。 敷地も当時の大きさを維持(約3600㎡:約1200坪)、表門隠居屋土蔵なども残っている稀有な事例。

 図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

黄色部分:接客空間・隠居屋に対応 (着色・文字は編集)

 

表門から主屋 式台を見る 左奥:隠居屋  

 式台 正面

 

        

復元 平面図 図の方位は上方が南    (着色・文字は編集)

 

復元 桁行断面図

 

  南面 全景 (竣工時)

                   

の間~座敷 南面 右手は隠居屋 南面(竣工時)

 

  勝手~茶の間~南の間 南側(近影)

 

 勝手~茶の間~南の間 正面(近影)

 

 

                      

復元 梁行断面図 上:客待の間~南の間  下:式台~玄関~茶の間   文字は編集

使用材料  土台:ツガまたはクリ  幅3.4寸~5.3寸 高さ3.5寸 追掛け大栓継ぎ、金輪継ぎ各1箇所、他は腰掛け鎌継ぎ  柱:式台まわり ツガ4.5寸角  座敷、客待、玄関、南の間 スギ3.7寸角  土間、勝手、茶の間 スギ3.5寸角  便所 スギ3.0寸角 根枘 深さ3寸×幅1寸

 

下の架構模式図と断面図で架構の全体がつかめる。  梁・桁の類を柱位置から持ち出して継いでいないことが分る。

 

 

 

について材寸が詳細に記入されている。材種は、式台まわりがツガ、他はスギ(前頁参照)。材寸の詳細は、通常は野帳どまりで、このような詳細が示されている報告書は稀有である。

 

 横田家では、間仕切のある通りには、すべて土台が据えられている。 この図は、土台材種材寸ならびに継手・仕口を明示した図。 これも報告書としてはきわめて珍しい。

足固貫内法貫、そして飛貫の入れられている位置を示した図。 これも、通常の報告書では見られない。上下の別、継手箇所などが記入されている。

図、モノクロ写真および解説は、重要文化財旧横田家住宅修理工事報告書による。

 

写真説明用キープラン                 (着色・文字は編集) 

黄色に塗った部分が接客用空間  横田家目加田家と異なり、北側に玄関があるため、接客空間の裏手にあたる居住空間が南面している。

 

玄関の間 西~北西面板戸どま境 北面障子式台

 

式台からの玄関間 正面襖:茶の間 左手襖:客待の間

 客待の間 東~南面 左手襖:座敷境              

  客待の間 西~北面 左側襖:茶の間へ 右側襖:玄関の間へ 

座敷 正面(東面) 右手障子:南面濡縁へ  

 座敷 西~北面 欄間付き襖:客待の間へ

 茶の間 西北どま 

 

 茶の間~南の間 茶の間には天井がない

南の間 北面 二階への階段 

南の間 東~南面 

 

座敷 南西隅柱の刻み 詳細           左の図を基に作成 敷居・鴨居・付長押 詳細

    

 

 

参考 一般的な鴨居の取付け法

 

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 1     柱に待枘(まちほぞ)を植え、敷居を上から落す。

 

 

参考 一般的な敷居の取付け法 2   待枘(まちほぞ)と込栓の併用

 

参考 一般的な敷居の取付け法 3    柱に樋端を刻み、敷居大入れにし、下部にを 打ち樋端部を密着させる。

 

 


「動機の必然」 1983年度「筑波通信№7」

2019-12-31 13:05:05 | 1983年度「筑波通信」

PDF「動機の必然」(1983年度「筑波通信№7」)

  動機の必然    

 美術の秋などという言いかたについていつごろから言われだしたのかは知らないけれども、毎年いまごろになるとそういう話題が新聞紙上などを飾るようである。ことしは、それにうってつけの事件が起きてひときわひきたった。ご存知の写真模写の一件である。いや、正確に言えば、入選取り消しの一件と、展覧会場から撤去の一件の都合二件である。作者の弁解や評論家諸氏の講釈など、いろいろと書かれてはいたが、ど素人の私には、いま一つ合点がゆかなかった。合点がゆかないというのは、なぜ写真を模写したのがいけないのかが、私にはよく分らないからである。

 決定的な事実は、なにはともあれ、とにかく一度は、これらの絵は二作とも、よいものとして評価されて入選していた、つまり、審査員のお目がねにかない、絵の質として一級のものとして評価を与えられていたということである。しかしその絵が写真の模写であることが判ったとたん、選外と同等のものにおとしめられる、というのはいったいどういうことなのだろうか。

 制作の課程が分ったとたんに画面に変化が起きるわけもなく、従って絵の質に変化が起ったわけでもない。そうだとすると、入選が取り消され、壁から取り外された理由は、ただ一つ、その絵の質が悪かったからではなく、写真を模写したというただそれだけのこと、その制作課程がいけなかった、ということになるだろう。もっとも、制作課程がいけなかった、などといういわば一般的な言いかただと、逆に、制作課程がすばらしいものならば入選して然るべきだ、という論理が成りたってしまうことにもなるから、つまるところ、写真に拠った、ということがいけないことだと見なされたということになるだろう。しかし、どうして写真に拠ることがいけないことなのか、そのあたりのことが、少なくとも新聞紙上で書かれ言われていることからは、私にはさっぱり分らない。「絵としてよいものならよい」としてどうして済まないのかが分らないのである。

 これが写真のコンテストであって、他人の写真を盗んだとか、まるっきりコピーしたとかいうのならば、人選取り消しになっても不思議ではない。だがこの場合はそうではない。写真を模写しようがしまいが、彼女または彼は人の作品をそっくりいただいたわけではなく、あくまでも自分の目を一度通過させた、その意味では創作をしたことに他ならないからである。だからこそ、審査員諸氏もまた、一度は「よいもの」として認めたのである。写真をもとに絵を描くことは、よほどおぞましきこととされているにちがいない。

 もっとも、ともに写真模写が問題とされたのであるが、この二つの事件はそれぞれその問題のされかたが微妙にちがい、一件は単純に実物の写生ではなく写真を写しとったことの当否が問われ、もう一件では、その写真が自分の撮影によるものでなく他人のものであったことが特に問題とされたようである。だが、そうであるならば、写真を模写したことが露見しなければ話が済んでしまうのか。あるいは、その写真が自分が撮影したものだったならよかったのか。そう考えると、これはどうも作品の質とは関係のない論議のように、素人の私には思えるのである。もしも、「だれだれの写真による〇〇」というような題で出品したら、それは審査の対象になるのか、それともならないのか、そこのところがいまひとつ分らないのである。そういえば、音楽では「だれだれの主題による〇〇」とか「だれだれ編曲の〇〇」(つまり、原曲の作者は別にいる)があって、原曲よりも親しまれよく演奏される例がある。

 

 この事作の当事者である彼女や彼がある写真をもとに絵を描こうと思ったのは、おそらくその写真に彼らの心を動かすなにものかがあって、彼らはそれを絵に描きたかったのだと私は思いたい。それとも、そうではなく、自らの手による写生の省略のために、あるいは写真のもつ表示能力の卓越さにかぶとをぬぎ、つまり表示技法上のために写真を援用したのであろうか。そうだとすれば、彼らは写真のような絵を描いたにすぎなくなり、一度はそれらの絵を入選と認めた審査員たちもまた、その点のみで(つまり表示の技法の点のみで)それらを評価していた、ということになるだろう。

 つまるところ、よい絵というのは、その絵が人に訴えるなにかに拠るのか、それともその表現のしかた:技法に拠るのか、はたまたそのいきさつに拠るのか、いったい何なのか分らなくなってくる。素人の私には、そういう絵を描きたい、というそもそもの動機が作者にあった、つまり、それが写真であれ実物であれ何であれ、そこに作者はなにかを見た、そしてそれを表してみなければいられなかった、そしてそれを表現し得て観る人にもそれが伝わり見えた、そういうものが、「よい」ものが備えもつ要件なのではないか、との極めて単純な考えかたしか持てそうにもないのである。たしかに技法のうまいへたはあるかもしれないが、そのもののよさが単に技法の問題ではないことは、たとえば、西欧のロマネスクのものなどを考えてみれば明らかだと思われる。非常に稚拙としか見えないけれども、そこから伝わるなにかがある。それはつまり、観る人の側のなかにわき起るなにかに他ならない。それらの稚拙としか言いようもないものが、観る人をしてそうさせるのだ。私には、その技法が決して洗練されたものではないにも拘らずそのような具合に訴えてくるのは(あくまでもそれは私の目の前に結実しているものがそうさせるのだが)、その結実しているものに表われているところの、そう作らざるを得なかった動機そのもののせいなのではないか、すなわち、単なる結果物そのものの形の上の「よさ」ではなく、そうせざるを得なかった切実さと言うかあるいは執念とでも言うか、そういったものがどんと迫るかたちで伝わってくるからではないか、と思える。

 

 美術の世界でよくモティーフ(motif:仏語)ということばが使われる。通常の意味は、辞書によれば、芸術的表現活動の主題、ということになるが、ややもすると、単に題材ぐらいの意味としてしか使われていないのではなかろうか。このことばの本義である「動機」としての主題という意味が見失われているのである。

 私がロマネスクのものや、あるいは極く素朴ないわゆる民芸と言われているもの(この呼びかたは私は好きになれないのだが)に魅かれるのは、それらを作った動機:極めてさし迫ったそれを作らざるを得なかった動機が、なんのてらいもなく素直に表われているからではないか、そして、その動機というのが、単なる思いつきや単なる感覚的な衝動のそれではなく、彼らの生活上の必然的な動機だからではないかと思っている。考えてみると、いま作られるものの多くには、こういった迫力ある動機を感じさせるものが少なくなり、いわば表面的な、ただいたずらに皮相的な感覚面だけをくすぐるようなものや、技法上の巧みさだけを追うものが多くなっているような気がしてならない。

 これは私白身の経験上でも言えるようで、資金も豊富でゆとりをもって設計できた建物(そう滅多にあるわけではないが)よりも、極めて厳しい条件のもとで、いわばなりふり構わず、ぎりぎりのところで設計せざるを得なかった建物の方が、どうも結果がよいようなのである。というのも、どうやら、前者の(つまり、いわばゆとりのある)場合には、その建物があらねばならない「必然」についてのつめが甘くなり、その甘いつめのまま、いわば上塗りだけにせいをだしてしまいがちになるからのようで、逆に後者の場合はゆとりはないから「必然」をぎりぎりのところまでつめてかからないとものにならず、それゆえできあがりにもその成果がぴりっとしたものとなって表われるのだと思われる。これを先きほどの言いかたで言えば、その建物を作る「動機」が、しっかりとした「必然」の裏づけを持っているかどうかに係わっているのだ、と言えるのではなかろうか。「必然」のつめを忘れたとき、いかに上塗りに技巧をこらしても、結果はふやけたものになってしまうようである。

 

 先月の末、群馬県の東端にある板倉町という町を訪れてみた。そこは渡良瀬川と利根川にはさまれた河川の氾濫原にできた町で、隣接する埼玉県北川辺町(埼玉県のなかで、この町だけが利根川の北側にある)群馬県明和村、そして館林市の郊外を含めた一帯には、一見したところ、のどかでゆたかな田園風景が拡がっている。

国土地理院 5万分の1より

 

 私がこの町を訪れてみる気になったのはTVのせいだ。たまたまそのころ、TVのローカルニュースのなかで利根川流域の風物を紹介する特集があり、そこで、板倉町に現存する「水塚(みづか・みつか)」を報じていた。板倉町は私のから一時間ほど車で西に行ったところにあり、群馬県方面に行くときはいつも通っていたのであるが、古い町だとは思いつつも、ついぞ尋ねてみることもせずにいたのである。

 あたり一帯のどかでゆたかな田園風景である、と先に書いたが、実際はこのあたりはとんでもない地域である。渡良瀬川と利根川という源のちがう大きな河川がこのあたりでぶつかりあい、一帯はしょっちゅう洪水に見舞われていたのである。いま見るようにひとまず落ちついた風景になったのは、巨大な堤防が築かれ排水設備が施されるようになった極く近年になってからで、以前は常に水の脅威におびやかされていたらしい。だからであろう、集落のあちこちに、水神、竜神がまつられている。

 このとんでもない水の脅威にさらされる土地に人々が住みだしたのは、決して古いものではなく、おそらく近世になってからだろう。氾濫原であるから肥えた土地ではあっても、並みのことでは住めなかったはずである。しかし、時がすぎ、人口も増え、新しい耕地を求めて、人々は押しだされるようにしてここに進出、入植する。やたらに進出したのではない。氾濫原のなかのわずかに高い土地を見つけだし、そこを住み家としたのである。いま、このあたりを遠くから見ると、平原のなかに、まるで島のように、こんもりとした樹林におおわれた集落が浮いているが、これらはほんとに、まずほとんどが、氾濫原のなかのわずかに高い土地だといってまちがいでない。北川辺町のあたりでは、地図にはっきり見えるが、平地のなかを蛇行する川が生みだした自然の微高地(自然堤防と呼ばれる)上に、線状に続く集落を見ることができる(もっとも、遠望する限りでは、なかなかそうは見えない。また、蛇行していた川も、いまはもう川の態をなしてないから、予備知識がないと分らないかもしれない)。

 だが、多少でも小高いからと言って、それで水の脅威からまぬがれ得たわけではない。洪水に対しては、それでは役たたずなのである。かと言って、そこから逃げだすわけにはゆかない。そういう土地で、生き続けねばならないのである。そういうなかから生まれたのが「水塚」というやりかたである。生活してゆくのに最低限必要な物資・家財を水害から守り確保すべく、屋敷の一画に土盛りをして小山を築き、その上に倉を建てておき、万一に備えるのである。この小山には、多分水流による破壊を防ぐためだろう、樹木が密に植えられており、しっかりしたものでは、足元を石垣で固めてある。石など手近かにころがっているような場所ではないから、どこか遠方から運んできたはずで、その点から考えると、石垣で固めたのはより近年になってからだろう。こういう小山を「水塚」というらしい。屋敷の中央に主屋が南面して建ち、水塚は大体その西側にある。なかには屋敷全体を土盛りした家もあるが、それは少なく、ほとんどの場合、主屋は原地盤の上に建ち(原地盤に30cmほどの盛土はしてある)、水塚との比高は2~3m、つまりおよそ一階分ある。だから、遠望すると、水塚の上に建つ倉の屋根の方が主屋のそれを越えてそびえている。倉といってもそんなに大きいものではないし、また土蔵のようなつくりではなく木造のままだから、やぐらのようにも見える。水塚をとり囲む樹木がうっそうと茂って、全体の背景となっている。

 主屋は、大体がこじんまりとした平面で、やたらと拡がるということはなく、その代り、屋根裏も使える中二階~二階建となっている例が多い。屋根裏といってもちゃんとした窓が開いている。養蚕をしていた農家にもこういう例があるけれども、この場合もそうなのだろうか、まわりに桑畑がたくさんあったようにも見えず、私には、このやりかたも水害と関係があるのではないかと思えてならなかった(少しばかり水がつく程度の洪水ならば、それで一時しのぎができそうである。)。

 あとになって気がついたのだが、屋敷地のなかで、水塚を西側に設定するというのも、ことによると、水害を考慮した結果のやりかたなのかもしれない。ここの場合、西側はすなわち川の流れ(したがって洪水のときの流れ)の水上にあたる。そこにおかれた水塚は、その上に建つ倉を守ると同時に、その水下側にある主屋への水流を緩和する防波堤の役割ももっていそうに思えるからである。他の土地の例も調べてみなければ分らないが、ただ単純に西側に置いたわけではなさそうである(西側はまた、冬期の赤城下しが吹きおりてくる側でもある)。

 

 このような水への処しかたは、しかし、一朝一夕にして生まれたものではない。おそらく、何度も水に流され、それでもなおその土地にしがみつかざるを得ない、そういう生活を何代も積み重ねてゆくうちに獲得したやりかたなのである。

 いずれにしろ、この土地での暮しかたを決的づけていたもの、そしてまた、家一軒を作るにあたっての決定的な「必然」・「動機」となったもの、というのは、まさに、この地で住む以上はいかんともしがたく対面せざるを得ないところの洪水への対処のしかたであったと言ってよいだろう。

 

 いまでは、この土地を洪水がおそうということも聞かなくなった。利根川の堤防は昔の3倍の高さになったと言い、低湿地では機械による排水が行われ、もう昔のような心配をしなくてもよさそうに見える。あたりには、都会と同じような家々が、低地もものともせず、建ちはじめている。彼らの家づくりは、既に、水に対するのとは別の「必然」・「動機」に拠っているらしい。いったいそれは何なのだろうか。

 考えてみると、いま、多くのもの作りの場面で、なにゆえにそういう結果でなければならないか、という「必然」をつめることが少なくなりつつあるのではなかろうか。「動機」が「必然」とかかわりないところで発生しているのである。

 

水塚のある家―1  館林市赤生田(あこうだ)

主屋は平屋、中二階がある。左手の建物が水塚の上の倉

  水塚へ上る階段

 

水塚のある家―2 北川辺町曽根    

主屋は二階建

 

あとがき

〇コシヒカリの刈り入れが始まっている。このあたりの稲は8割がたがコシヒカリだそうである。ことしは九月の初めに突風が吹き(これは極めてものすごく、組立て中の鉄骨造の体育館が倒壊したほどであった)腰の弱い品種のコシヒカリはほとんど寝てしまい、おまけにそのあと長雨が続いたので芽の出たものもあるとのこと、困っている農家が多いそうである。それでも、遠くからながめるかぎり、水田は黄金色に染まり、豊かな田園風景に見える。昔は8割がたを一品種で作るということはなかったようである。コシヒカリに集中するのは、それがおいしいからなのはもちろんだが、それよりもなによりも、高い値で売れるからのようである。いま、稲もまた換金作物なのである。その昔、水塚に拠って暮しをたてていた農民がこれを知ったら、びっくりするにちがいない。

〇台風10号が過ぎ、秋の空か拡がるようになった。ことしは台風の数は少ないにも拘らず、やたらと水害があったような気がする。とりわけ甲州・信州がひどくやられているようだ。そういえば、ここ数年、甲信地方は毎度のように被害に遭っているように思う。異常に雨が降ったからなのだろうか。しかし、これまでにこの程度の雨が降らなかったわけはあるまい。治水の計画だって、その程度のことは計算ずみだろう。そうだとすると、別の原因があるはずだ。一つ想像できるのは、開発が山の奥まで進んだことだ。たとえば甲州のぶどう園。いまではかなりの急斜面も、立木を伐りとりぶどう園となる。ぶどうは、極端な場合には10m角の土地に1本のぶどうの樹だけで栽培できる。樹木の密度は極端に小さくなる。結果は明らかであろう。降った雨は直ちに急斜面を流れ下るのである。川にそそぐまでにタイムラグがないのである。川は一気にふくれあがる。

〇風が吹くとおけ屋がもうかる、というのは笑い話ではあるが、ものごとが連関しているという点では真実をついている。スイス以外のヨーロッパ諸国の農業のやりかたは、いま日本の農業がやりかけているのと同様に、速効を旨とする(たとえば、穀物飼料による牧畜:草地によらない)やりかたに戦後このかた切りかわっていたのだが、いまようやく、その見直しが始まっているのだそうである。耕地が荒れはてたのだという、(朝日新聞9・ 30夕刊)。

〇人間が持っている知恵というのは、もっとトータルな視界を持っていたのではなかろうか。

〇先号あとがきで、山形県西馬音内と書いてしまったが、秋田県が正しい。

それぞれなりのご活躍を!

              1983・10・3         下山眞司

 

 

★ロマネスク美術:西ヨーロッパの主として11~12世紀に行われた中世美術をいう。(世界大百科事典 平凡社)より

 

ティロル城(Schloss Tyrol)の聖堂入口  1150年頃 北イタリヤ 大理石 

 

同上左側             故人蔵「ロマネクス」より 慶友出版

 

 

「聖母子像」11・12世紀 ツューリッヒ国立美術館 木彫     「ロマネスク」より

 

 

「栄光のキリスト」1167-88 レオン(スペイン)サン・イーシドロ教会パンテオン・デ・ロス・レイエス 壁画  故人蔵「ロマネスク美術」より 学習研究社

 

「マティルド王妃の刺繍(部分)」1080年頃 麻地 毛糸刺繍0.5×70.34m(全体) バイユー司教区美術館 
1044年4月に現れたハレーすい星を王と人々が驚く様をわずかな色糸で描いた部分。  「ロマネスク美術」より

 

 

 

 

投稿者より

この1年間迷いながらも、故人のブログに拙い編集投稿をしてまいりました。

お忙しい中、お寄り頂き、ありがとうございました。

どうぞよいお年をお迎えください。                                   下山 悦子