建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える                下山眞司        

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梅雨本番

2018-06-15 11:29:19 | 近時雑感
昨日あたりから、梅雨らしい天候が続いてます。
しばらく外歩きはお休みかも・・・。
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梅雨入り

2018-06-08 12:04:38 | 近時雑感
梅雨に入ったようです。
さいわい、雨もひどくはならず、外も歩けています。
だいたい、毎日500mほど歩くことにしていますが、
帰ってくると、しばらく息が落ちつくまで横になっているだけ・・・。
今、窓からすがすがしい風が入ってきています。
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梅雨入りか?

2018-05-10 10:30:43 | 近時雑感
今日は朝から、降ったり止んだり、梅雨時のような雨が降っています。
沖縄は梅雨入りしたとのことですから、日本列島が雨季にはいったのかもしれません。
近在では田植えが始まり、苗を積んだ軽トラが行き来しています。
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憲法記念日

2018-05-03 12:04:57 | 近時雑感
今日は「憲法記念日」です。
現行憲法の誕生について、今日の東京新聞の社説に、明解な解説が書かれていました。
認識をあらたにさせていただきました。以下に全文を転載させていただきます。

       ***************************************************************************************

 自民党により憲法改正が具体化しようとしている。九条に自衛隊を明記する案は、国を大きく変質させる恐れが強い。よく考えるべき憲法記念日である。

 ホトトギスという鳥は、自分で巣を作らないで、ウグイスの巣に卵を産みつける。ウグイスの母親は、それと自分の産んだ卵とを差別しないで温める。

 一九四八年に旧文部省が発行した中高生向けの「民主主義」という教科書がある。そこに書かれた示唆に富んだ話である。

◆「何ら変更はない」とは

 <ところが、ほととぎすの卵はうぐいすの卵よりも孵化(ふか)日数が短い。だから、ほととぎすの卵の方が先にひなになり、だんだんと大きくなってその巣を独占し、うぐいすの卵を巣の外に押し出して、地面に落してみんなこわしてしまう>

 執筆者は法哲学者の東大教授尾高朝雄(ともお)といわれる。「民主政治の落し穴」と題された一章に紹介されたエピソードである。そこで尾高はこう記す。

 <一たび多数を制すると、たちまち正体を現わし、すべての反対党を追い払って、国会を独占してしまう。民主主義はいっぺんにこわれて、独裁主義だけがのさばることになる

 この例えを念頭に九条を考えてみる。基本的人権や国民主権は先進国では標準装備だから、戦後日本のアイデンティティーは平和主義といえる。国の在り方を決定付けているからだ。

 九条一項は戦争放棄、二項で戦力と交戦権を否認する。自民党はこれに自衛隊を書き込む提案をしている。安倍晋三首相が一年前にした提案と同じだ。

 だが、奇妙なことがある。安倍首相は「この改憲によって自衛隊の任務や権限に何らの変更がない」と述べていることだ。憲法の文言を追加・変更することは、当然ながら、その運用や意味に多大な影響をもたらすはずである。

◆消えた「必要最小限度」

 もし本当に何の変更もないなら、そもそも改憲の必要がない。国民投票になれば、何を問われているのか意味不明になる。今までと何ら変化のない案に対し、国民は応答不能になるはずである。

 動機が存在しない改憲案、「改憲したい」欲望のための改憲なのかもしれない。なぜなら既に自衛隊は存在し、歴代内閣は「合憲」と認めてきたからだ。

 安倍首相は「憲法学者の多くが違憲だ」「違憲論争に終止符を」というが、どの学術分野でも学説は分かれるものであり、改憲の本質的な動機たりえない。

 憲法を改正するには暗黙のルールが存在する。憲法は権力を縛るものであるから、権力を拡大する目的であってはならない。また目的を達成するには、改憲しか手段がない場合である。憲法の基本理念を壊す改憲も許されない。

 このルールに照らせば九条改憲案は理由たりえない。おそらく別の目的が潜んでいるのではないか。例えば自衛隊の海外での軍事的活動を広げることだろう。

 歴代内閣は他国を守る集団的自衛権は専守防衛の枠外であり、「違憲」と国内外に明言してきた。ところが安倍内閣はその約束を反故(ほご)にし、百八十度転換した。それが集団的自衛権の容認であり、安全保障法制である。専守防衛の枠を壊してしまったのだ。

 それでも海外派兵までの壁はあろう。だから改憲案では「自衛隊は必要最小限度の実力組織」という縛りから「必要最小限度」の言葉をはずしている。従来と変わらない自衛隊どころでなく、実質的な軍隊と同じになるのではないか。

 それが隠された動機ならば自民党は具体的にそれを国民に説明する義務を負う。それを明らかにしないで、単に自衛隊を書き込むだけの改憲だと国民に錯覚させるのなら、不公正である。

 また安倍首相らの根底には「九条は敗戦国の日本が、二度と欧米中心の秩序に挑戦することがないよう米国から押しつけられた」という認識があろう。

 しかし、当時の幣原(しではら)喜重郎首相が連合国軍最高司令官マッカーサーに戦争放棄を提案した説がある。両者とも後年に認めている。日本側から平和主義を提案したなら「押しつけ論」は排除される

 歴史学者の笠原十九司(とくし)氏は雑誌「世界」六月号(岩波書店)で、幣原提案説を全面支持する論文を発表する予定だ。

◆戦争する軍隊になるか

 他国の戦争に自衛隊も加われば、およそ平和主義とは相いれない。日本国憲法というウグイスの巣にホトトギスの卵が産みつけられる-。「何の変更もない」と国民を安心させ、九条に自衛隊を明記すると、やがて巣は乗っ取られ、平和主義の「卵」はすべて落とされ、壊れる。それを恐れる






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花粉症

2018-04-24 12:17:40 | 近時雑感
ここしばらく、花粉症に悩まされています。
周辺には杉や檜の林がたくさんありますから、当然と言えば当然のこと。

マスクをして散歩してます。多少は効き目があるようです。

五月になれば、おさまるのでは・・・。もうしばらくの辛抱!
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春が来た!

2018-04-04 10:13:29 | 近時雑感
一週間ほど前から、夜明けとともにウグイスが啼いています。
梅も盛りを過ぎ今は椿が満開です。近在の桜も咲き始めたようです。春到来!
花粉症の諸症状を除けば、体調は良好です。

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復刻・「筑波通信」―15・・・・建物は、雨露さえしのげれば よい?   

2018-03-29 10:31:45 | 復刻・筑波通信
復刻・「筑波通信」―15・・・・建物は雨露さえしのげればよい?                    筑波通信1983年3月刊の復刻

二年ほど前であったか、上州の山あいを、気の向くままに車で巡り訪ねたことがあった。
夏の終りの暑い日の昼下がりではなかったかと思う。空が都会の空と違って、抜けるように晴れあがっていたのを覚えている。
一休みしようかと思っていたところ、谷あいの小さな村、というより集落にさしかかった。私は小さな谷川沿いに下ってきたのだが、そこで、別の道が同じように小さな川に沿って下ってきて合わさっている。一般に「落合」と通称される所である。
前方に、見るからに村の社が在ると分るこんもりと繁った木々が見え、それに隣り合って、これも見るからに小学校だと分る木造の昔懐かしい形の小さな建物が在り、校庭はいい具合に木陰となって涼しそうだ。校庭には大人が数人いるだけで子どもの姿は見えない。きょうは日曜だったな、そう思いながら、あそこで一休みさせてもらおうと決め、車を乗りつけた。学校は家並みよりほんの少し高みに在り、別天地のように涼風がそよぎわたっていた。校庭の大人たちはゲートボールに興じていたのである。後者の沓脱石に腰を下ろし一息入れ、あたりを見回すと、光景は明らかに私の見知った學校そのものなのに、何となく學校らしくいないにおいがある。そこであらためて門柱の表札をみると〇〇縫製工場とある。しかし、その表札の下には、「〇〇小学校」という表札が隠れていた。おそらく、近くに鉄筋コンクリート造の建物に建替えられ、その跡地利用で工場が間借りしているのだろう。村の女性たちが子どもに代ってここへ通い多分自分たちは着ないであろう服などをしたてているのである。都会でもてはやされるいわゆるブランド品の多くは、このような地方の小さな工場で生産されるものが多いのだそうである。
そこが私の予想に反し学校ではなく工場であったことは、私の中にかなり強い違和感とでも言うべきものを湧きおこらせた。その理由の一つは、私が前方に認めた「建物の形」が、見るからに「学校らしい形」をしていたからだ。
私たちは、町中を歩いていたり、車窓から外の景色を眺めているようなとき、ある建物が目に入ると、大体その用途、建物種類を推定できているように思える。
これは、おそらく建築に係わる職業の人特有の「習性」ではなく、普通の人たちも同じように、ある用途に対して「それらしい形」を思い浮かべるのではなかろうか。最近は見かけなくなったが、新築の建物の紹介する新聞記事などで「ホテルのような〇〇」という形容句が使われることがよくあった。その根には「建物で豪華なのはホテルである」という〈認識〉と、「その種の建物は本来かくかくしかじかのものだ」という〈認識〉(しかし目の前にしている建物はその〈認識〉にあてはまらない)が在るからと見なしてよいだろう。私自体が係わった建物についても、単に「學校らしくない」というのではなく、「鶏小屋のような」とか「工場のような」とか形容されたことがある。おそらくその場合は、そこでなされている教育が質が一定のブロイラーや画一的製品が大量生産されているという皮肉が込められているわけではなく、全く単純に日ごろ見慣れている鶏小屋や工場みたいだという意味に過ぎないだろう。

私たちは、自らの経験を通してだと思うが、学校だとか工場というものについて一定の《知見》を持っているから、そういった「言葉」を目にしたり耳にするだけで、自分が知っている学校や工場の姿を思い浮かべることができるのだ。

しかし、そのとき頭の中に思い浮かべているのは、単に、「學校、工場・・・といった建物の形」だけなのだろうか?

しばし考え直してみると、こういった「ことば」で私たちが頭に思い浮かべているのは、その「建物そのものだけ」ではなく、「その建物を含めたある場景」であることに気が付く。
すなわち、私たちは、「學校」「工場」・・という「ことば」で、私たちが、「それぞれの体験・経験で獲得したある場景の中の學校や工場を思い描いている」のである。
この「場景」は、必ずしもある具体的な特定のそれではない。むしろ、その「ことば」によって頭のなかに浮んでくるいろいろな個々の場面の場景を越えた、それらを統べるそのことばに最も相応しいと思われる場景を描いているのである。その意味では、「場景」よりも「情景」と表記する方が適切なのかもしれない。
私たちは、日常、多種多様な場面に遭遇しているが、私たちはそれらの場面の場景を、便宜的に括り分け、そのそれぞれにある名前を付ける。その一つが「學校」や「工場」ということばなのだ。逆に言えば、「個々の例を統べる場景:情景」として記したことは、「學校」とか「工場」ということばに、(私が)託している「概念」の姿だと言ってよいだろう。
つまり、ある建物を工場である、とか学校であるとする私たちの判別は、建物の形自体によることもないわけではないが、むしろ、その建物が在るその背景をも含んだ光景:先の言葉で言えば場景:情景そのものによることがより大きいのではないかと思われる。
 しかし、この場景:情景というのは、建物のように物として固定し得るものではないから、便宜上言葉として置き換えることが容易な物:建物が前面にしゃしゃりでてくるのであり、更には、その物に対応していることばに、その係わる場景:情景も付託されていたのだ、ということが忘れ去られるのである。そしてその結果、このように、「私たちは固定できるものだけを見ている」、あるいは、「ことばというものは、ある物的に固定できる対象のみに対応している」かのような誤解を抱いてしまうのである。
要するに、私たちは、工場、学校という判別を、「場景」をもって察している、ということだ
私たちが工場、学校という「ことば」で知っているもの、それはすなわち経験を通じて身に着けた「知見」に」ほかならないが、それぞれの用途の建物(それは、それぞれの建物での人びとの「生活」に他ならないのだが)の持つ特有の場景:情景なのである。もっとくだいて言えば、私たちは、たちどころに「それなりの雰囲気」を察知しているのである。
ひと昔前なら、木造の平屋建ての長屋状の建物は、学校、工場、病院、兵舎・・・など、いろいろな用途の建物として見られたものである。その用途の判断は、その建物のあたりに漂う雰囲気によっていたと言えるだろう。
今はどうだろうか?駅前によく見かける鉄筋コンクリートのビジネスホテルと町なかの会社の独身寮、だいたい外形はよく似ている。しかし、駅前のビジネスホテルを独身寮と見ることはほとんどないだろう。私たちは「場違い」だと思うからである。それぞれがあるべき:それぞれにふさわしい「場」を《知っている》からである。すなわち、私たちは、建物の姿・恰好:つくりを見て、そういう建物において展開し得る生活(の場面)を知っているからである。
つまり、私たちは私たちの生活の「場面」を一定程度《知っている》ものだから、ある建物を見ると、たちどころに《その場であり得る場面》を思い描いてみることができるのだ。
しかし、当然であるが、この《ある場面》は、決してその「場面」を厳密に規定・限定しているわけではない。
以上のことをまとめると以下のようになる。
私の前方に「ある形をした建物」が見えてきた。すると私は、先ず、そういう形をした建物において展開し得るとそのとき思った《生活の全て》を頭の中に描いてみる。次いで、そこの「場景」全体を勘案して、先ほど描いた《全て》の中から、そこで「あり得る(妥当と思える〉」「生活」を選び出す。そして、あれは〇〇か〇〇だ、あるいは〇〇のような用途の建物だという《判断》を下すのである。もちろん、通常は、こういう判断を、こんな手順を意識的に踏んで下すわけではなく、瞬時にやってしまう。そしてまた、この「あり得る」との「判断」は、誰かに教えられたものではなく(教えられるようなものではなく)、私たちそれぞれの「経験・体験」によって私たち自身が会得したものだ、と言えるだろう。すなわち、その根本的な判断は、私たちそれぞれの「感性」の所業なのである。
   現代では、このような「言いかた」は、きわめて個人的な主観的な判断で客観性に欠けるとして、ひんしゅくをかうのがあたりまえだ。しかし、この《指摘》は、誤りである、と私は思う。
私には、現代というのは、私たち自らの感性に自信を持たなくなった時代、私たち自身の「経験」をもないがしろにしたがる時代のように思える。
私たちはそれぞれの毎日の生活を《だてに》送っているわけではない。私たちの日常(の「経験・体験」)は、私たちそれぞれの「感性」に拠っているのである。


筑波に暮すようになってから、いわゆる田舎の「風景」に、より強く魅かれるようになった気がする。
もちろん、ここでいう「風景」は、絵に描いてきれいな風景、というような意味ではない。それは、先に書いた「場景」という言葉の方が適切なのかもしれない。おそらく、私が忘れかけていたいろいろなことをあらためて考えさせてくれるきっかけを私に与えてくれたこと、それが私を強く惹きつけたのだと思う。
そして、あらためて思う。都会や新興の開発地で見かける建物には、どうしてああも多種多様な形があるのだろうか、と。
住居ひとつ例にしても、まずことごとく《異なった形》をしていると言ってよい。それは個人の住居に限らない。研究学園都市の公務員住宅にも、数えきれないほどの型があり、当然それに応じて一個の間取りも変ってくるのだが、なぜそうなるのか、その「必然性」は、私には皆目わからない。更に最近では、勾配屋根にして瓦を載せ、凸凹を設け、あるいはジグザグギクシャクさせる、といったようなつくりも増えてきた。その結果、形はますます多種多様にして複雑・怪奇になる。これは、「それまでの、画一的なつくりかたへの反省の上に立ち、形や建物周辺にできる場所の単調さをなくし、一戸一戸に個性とプライバシーを与え、コミュニティを形成させやすくし、人間味のある居住環境をつくりだすべく、地域の伝統をも踏まえ考えだされた」のだそうで、いまや全国的に流行りつつある。そこで私たちの目に入ってくるものは、あたかも私たちの目を傷つけんばかりに次ぎ次ぎに飛び込んでくる建物の角々。互いに競って見えたがるそれらの複雑・怪奇な形をした物たちは、私たちのなかに、いかんともしがたい「苛立たしさ」だけを積み上げてくれる。そして、そういう場景が尽きることなく単調に、延々と続くのである。その意味では、意図に反し《画一的》なのである。
これは、「個性」とか「人間味」とか言う以前の問題なのだ。こういう場景は、私にとっては、決して人の住む場景ではないし、決して住まいの場所として選ぶことないだろう。
   これは、当時の状況について記している。現在も大差なく、あるいはさらに劣化しているのではないだろうか。
このような場景には何がふさわしいか考えてみたが、遊園地のビックリハウスぐらいしか思い浮かばない。だが、こういう場景が、今の世は、あたりまえになっていて、大都会周辺だけではなく、全国的にひろまっているようだ。学園都市のまわりにも、多く目にするようになった。
一方、学園都市のまわりに目を向ければ、そこには、大きく変わりつつはあるが、相変らず昔ながらの村々の佇まいが現存する。ゆえに、そこに立てば、はからずも、《新しいもの》と《旧いもの》を対比しながら眺めることができるのである。
 これらの《近代的・先進的な》建物群を見ていて、いつも思う。あの住宅群は、たしかに住宅以外の何ものでもないが、どれも住宅でしかないな、しかも、ある極めて限定されたパターンでしか対応できないな、ことによると一代限りだな、と。つまり、そこで目にする場景には、私にいろいろな生活の場面を思い起こさせるようなところが何もない、ある場面だけ、それしかないのである。そこに物的に設定されてしまっている場景は、ある限定された生活の場面にしか対応できないのである。逆に言えば、ある限定した生活の場面を、物的に固定している、ということに他ならない。あの住宅群のなかに入って感じる《苛立たしさ》は、多分、第三者の手に拠り設定されてしまった生活の場面に自らを嵌め込まなければならない息苦しさからくるものなのだろう。第三者の意のままに(己の意のままにではなく)動かないと、十全にそこでは暮せないのである。もちろん、そこに住み着けば《慣れる》ことはあるだろう。しかしそれは、場景に応じた判断によるのではなく、いろいろな苦き経験の結果身についてしまった、いわば、「条件反射的行動」に過ぎない。しかし、これは、たとえば、《よい図書館の建物では、すぐれた図書館活動が為されている》かの「錯覚」を起こさせ、更には「よい図書館活動は、よい図書館(の建物)がないと為されない」という「誤解」をも生じさせてしまう。「専用の建物」がなくても、「活動」は行えるのだ。

さて、学園都市のまわりを取り囲む旧くから在る村々の方を見てみよう。
その光景は、今見てきたあの近代的な建物群が織りなすにぎやかなそれに比べて、ため息が出るほど、静かで単純だ。同じような屋根、同じような形の建物、同じような杜・・・。ある意味では、《画一的》だ、と言ってもよいだろう。そのなかで、際立って形の違いを見せているのは、学園都市建設で土地を売ったとおもわれる新興成金の家ぐらい。これは、(復刻・「筑波通信」―10「十人十色:人それぞれ」 とはどういうことか」)で触れた蔵の目立つ村のそれとは異なる。そこでは、単なる《形の主張》は見られなかった。そこでの《形》は、いろいろな生活の場面の可能性を想起させてくれる「示唆」に富んでいる。つまり、そこに在り得る(在って然るべき)生活の場面を「ああだ、こうだ」と規定するようなところがない。近代的な建物の多くがそうであるように、用意された器に適合した生活:誰かの手に拠る《期待される生活像》に我と我が身をあてはめる必要はない。
それでは、その用途、すなわちその使い分けは、何に拠っていたのだろうか?明らかにそれは、その建物の在る場景に拠っていたのである。その置かれる場景により、そこで在り得る生活の場面が異なることを、人びとは知っていたのである。それ故逆に、ある生活の場面のために、ある場所を選び、建物は同じ形でよしとしていたのである。彼らは、場違いということを知っていた。彼らは、杜のわきの元小学校を工場として使おうなどとは思わなかったに違いない。既存の場景のなかに、自分が求めている生活の場面が展開し得る場景が見出せなければ、そのときは、既存の場景に手を加え、それに相応しい新たな場景にしてしまうことさえ厭わなかった。「屋敷」の造成などは、そのよい例と言えるだろう。しかしそのとき、そこに建つ家は、まわりにあるのと変らない《同じ形》をしているのである。
しかし、この事実を《誤解する》と、「建物は、雨露さえしのげればよい」ではないか、という「言いかた」に行き着くのではなかろうか。
この「言いかた」を更につめれば、「・・・だから、建物など、どうでもいいんだ」という「言いかた」に行きつくだろう。この言いかたの行き着く先こそ、「建物は、雨露さえしのげればよい」という「言いかた」なのではあるまいか。
「方丈記」に「人の一生にとって『仮の住まい』」に過ぎない「家」に、気を遣って何になる・・・との一文がある。彼は、組み立て式の仮小屋をつくり、好みの場所に据えて住み家とした、とのこと。彼にとっては、「場所の選択」が重要だったらしい。
しかし、私たちは、学校だとか病院だとか・・・、ある一定の用途のための建物をつくろうとする。
では、「ある用途のための建物をつくる」というのはどういうことなのか?用の様態に応じて形を整えるということだろうか?
いわゆる建築計画学では、そのために、はじめに、「そこで行われる生活様態を設定すること」が必要と考えられた。
すなわち、先ず《期待される生活像》の設定が肝要と見なされたのである。暮しかた・使いかたの《設定・限定》に他ならない。
しかし、私たちは、必ずしも、黙ってそれに従ってはいない。私たちは、人であり続ける。

私たちに先ず必要なのは、私たちの「ごく自然な日常の振舞いのありようを再認識してみること」ではないだろうか。


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編集作業 遅滞してます

2018-03-28 16:53:10 | 復刻・筑波通信
続編の編集作業 遅滞してます。まだかかりそうです。
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まだ編集作業中です・・・

2018-03-10 11:31:48 | 復刻・筑波通信
春休みに入ったわけではありませんが、
次回分の編集作業、まだしばらくかかりそうです。
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また降雪

2018-02-22 16:17:23 | 近時雑感
今日は朝から雪。
まわりの畑は真っ白です。かなり積もりそうです。
今は午後4時過ぎ。まだ降っています。
明日の朝が心配です。
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「復刻 筑波通信」 その後の進み具合・・・

2018-02-04 16:16:47 | その他
節分、立春・・・、季節が変ったのに
忙しいわけではありませんが、相変わらず 編集おくれています。ご了承ください。
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編集作業 遅れています

2018-01-28 16:09:16 | その他
「復刻筑波通信」の続編、編集作業に時間がかかっています。もう少し時間をいただきます。
それにしても寒いですね!雪がなかなか消えません。週明けにはまた降るようです・・・。
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積雪

2018-01-23 12:17:14 | 近時雑感

昨日の午後から雪になりました。
特に外出しなければならない用事もなかったので、家にこもっていました。
当地では20㎝ほど積もったようです。
今日は朝から晴れています。
しばらくの間、雪解け・凍結の繰り返しが心配です。
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雑感

2018-01-07 16:17:05 | その他
今日7日で八十一歳になりました。
朝、男神(おがみ)神社に行ってきました。神社は、道を挟んで向かいの杜のなかにあります。
境内は、集落の方がたにより、きれいに掃き清められていました。
風が多少冷たく感じられましたが、よく晴れて、筑波もくっきりと見えました。

いまのところ、脳出血の後遺症の左手の痺れ以外、とりたてて不都合な点はないので、
なんとかこのままで過ごせれば、と思っています。


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2018年賀状

2018-01-01 12:05:46 | 近時雑感
  謹賀新年  2018年正月

 

 本年もお寄りいただければ幸甚です。
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