「形」の謂れ(いわれ)-8・・・・再び、建物とは?

2011-09-02 15:09:03 | 形の謂れ
先回の「感想:『分別』のコスト」に、香山リカ氏の発言をリンクしました。[3日 19.08]

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締切り仕事が8割がた終わったところで、「形の謂れ」の最終回を書くことにしました。

このシリーズで、何度も 滝 大吉 氏が「建築学講義録」の序文に著した
「建築学とは木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を
成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様 建物 に用ゆる事を工夫する学問」
という文言を紹介してきました。
ところが、、「建築学講義録」の中で、滝 大吉 氏は、肝腎の「『建物とは何か』については何も触れていません。

大分前に「建築学講義録」を紹介した際(「『実業家』・・・・『職人』が実業家だった頃」)、以下のように書きました、

  ・・・・
  ここで注目する必要があるのは、
  エリートたちが「どのような(様式の)建物をつくるか」という議論をしているにもかかわらず、
  「実業家」:職人たちは、それには興味も関心も示していないことである。
  それは、彼らが「建物づくりの専門家」だったからである。
  彼らにとって「何をつくるか」は自明のこと、「いかにつくるか」が問題と言えば問題だったのだ。
  だからこそ新技術書が広く読まれ、そして、それゆえに「擬洋風」の建物をつくり得たのである。
  では、彼ら「実業家」にとって、なぜ「何をつくるか」が自明であったのか。
  それは、当時の「実業家」:職人は、常に人びとの生活と共にあり、
  そこにおいて、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」
  自ら検証を積み重ねていたからにほかならない。
  実は、それが専門職の専門職たる由縁、
  そして「技術」「技能」はその裏づけのもとに、はじめて進展し得たのだ。
  ・・・・

ひるがえって現今の建築の世界。
「専門家」たちは、「何をつくるか」=「何をつくるべく人びとから委ねられているか」について、「自明のものとしている」のでしょうか。
おそらく、自明のものとしてはいないはずです。
それは、現今名のある建築家たちが、今回の震災・人災に遭い、「考え方を見直さなければ・・・」、と語った、という事象に明らかです。「考え方」は、そんなに簡単に変えられるものなのでしょうか?(「理解不能」参照)。

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話題を変えるようで恐縮ですが、この季節、近くの圃場で、思わず魅入ってしまう光景に出会います。
以下の写真が、その光景です。

ここは、林地を開いた台地上の平らな農地で、おおよそ南北5~600m、東西300mはあります。まわりを囲む樹木は谷地田に向う斜面の樹林、主に人工の針葉樹林です。
この平地は、かつては麦や陸稲をつくっていたのではないかと思いますが、数年ほど前は、一部で煙草を栽培して、あとはいわば放置されていたと記憶しています。
そして、ここ数年は、そのほぼ半分ほどを使って、家畜の飼料用のモロコシ:コウリャン(高粱)が栽培されるようになりました(トウモロコシも少し混じっているようです)。
モロコシにはいろいろな種類があるようですが、このモロコシは、背丈が2mを超え、そこに近づくと、まわりが何も見えなくなり、風の音だけが聞こえます。
あのサトウキビバタケにうたわれる「ザワワ ザワワ」は、もしかしたらこんな様子なのかもしれません。

この写真は、そのモロコシの刈入れの様子です。
刈入れといっても、その場でチップに加工してしまう。それを行う大型のコンバインの作業風景。
ただ、このコンバインは、それ専用の機械ではなく、大型のトラクターにコンバインを構成する機能を持つ「部品」を接続したもの。
つまり、「刈り取り切り刻む機械」と、それをホッパーに搬送するための弓なりに曲線を描く「チューブ」、そして「ホッパー」、これがトラクターに付加された「部品」なのです。この点は、これから田んぼで見かけることが多くなる稲刈りの専用コンバインとは異なります。
チップは、トラックで牧場に運ばれ、冬に備えサイロに保管されるのでしょう。

以下の2枚は作業中の遠景。
手前はすでに刈り込みの終わった場所。





写真で分るように、進行方向(左手)前面に付いている機械でモロコシを刈り取り、直ちに小さく切り刻んでチップとし、チップは曲ったチューブを通り(弓なりのカーブを描いている管)、後部の金網張りのホッパーに集められます。風圧で送られているのしょう。
   なお、2枚目の写真の左上に黒い点が2つ見えますが、これはレンズに付いたゴミではありません。
   これは飛び交うツバメの姿。
   モロコシを刈り取ると、そこに隠れ棲んでいた虫たちが追われて跳び出し、それを追いかけているらしい。
   このときは10数羽飛んでいました。 

ここで「前部」「後部」と書きましたが、本来のトラクターの前部は写真の右手。したがって、オペレーターはホッパーの方を向いて後ろ向きでバックミラーを見ながら(時折り後を振り返りながら)刈り取り作業の操作をしていることになります。
しかし、その操作の見事なこと。
オペレーターの座っている姿は、下の写真のガラス越しに、ぼんやりとですが見えます。
大きなタイヤは直径1mは超えているでしょう。これが駆動輪、小さな車が操舵輪のようです。




近くに寄って進行方向の前から見たのが次の写真。


先端はこうなっています。
まるで、カニあるいはザリガニのはさみのよう。
この3本のはさみで寄せ集められそのはさみの付け根あたりで切断され飲み込まれ切り刻まれ、そして圧送される、という過程のようです。
どういう仕組みになっているのか知りたくなります。


ホッパーを高く持ち上げて、コンテナ(これも四周は金網張り)にチップを移しています。

コンテナを牽引するのも、コンバインを曳いているのと同じ機種のトラクターです。
どうやら、日本製ではなく、アメリカ製。   

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なぜ魅せられるのか。
一つは、その作業の壮快さ、見事さにありますが、私が最も魅せられたのは、この機械の「形」です。
一言で言えば、その「形」には、人に見てもらおう、称賛してもらおう、あるいはまた他の同種の機械との「ちがい」を見せつけてやろう(いわゆる「差別化」)・・・、といった風情がまったくない。
つまり、「けれん」も「衒い」もまったくない。ただただ、その機械に求められる役割を十全に果たすべく考えられ、素直にそれが「形」になっている。
最初につくられた蒸気機関車や自動車など「近代的機械」が持っている惚れ惚れとする形に共通するものを感じるのです。
言ってみれば、「ものづくりの原点」の姿。すなわち、その「形」に、歴(れっき)とした「謂れ」がある、ということです。

   このトラクター+搬送管+ホッパーの形には、
   一昔前のジープや工事現場で見かけた建機に通じる特徴があります(最近のジープや建機は少し違う)。   
   日本のインダストリアルデザインの草分けの一人吉岡道隆氏(故人)から、
   ジープの外形は、戦場で壊れたとき、
   簡単に修理できる二次元の形、つまり、鉄板を折り曲げ切取りくっつける、
   誰にでも応急的に直せる形に徹底しているのだ、と聞いたことがあります。
   修繕のために板金屋さんに運ぶ必要がない現場向きの機械、ということでしょう。

すなわち、この機械の「形」もまた、「木石などの如き自然の品や煉化石瓦の如き自然の品に人の力を加へて製したる品を成丈恰好能く丈夫にして無汰の生せぬ様に用ゆる事を工夫」した結果である、と言うことができそうです。
なぜできるのか?
それは、「なぜモロコシを栽培するのか」、「どのようにモロコシを刈り取るのがよいのか」・・・についてはもちろん、「モロコシを刈り取りチップにする」作業の具体的な工程について、精通しているからです。チップは、どの程度に刻めばよいのか・・・、つまり、牧畜そのものにも当然精通している。
この機械の形に到達するまでに、多くの試行錯誤があったに違いありません。


要するに、建物をつくる場合でも、「いったい、何を、何のためにつくったらいいのか」、精通していなければならない、ということになります。
かつての建物づくりの専門家は、それを、当然のこととして、身につけていた。
現在、そういう「習慣」はどこかに置き忘れてきてしまった。(高等)教育でさえ、それが何か、教えない・・・。教える側に、それが身についていないからに違いない・・・。
あらためてそれを考え直す必要がある。

これについて私なりに行ってきた「考え直し」の中味について書いたのが、「建物をつくるとは、どういうことか」のシリーズです(下記にまとめてあります)。
農業、牧畜、そのすべてをでき得る限り承知してトラクターという機械をつくる、
それとまったく同様に、「人がこの大地の上で暮す」とはどういうことか、でき得るかぎり承知しよう、そういうことについて、今まで考えてきたことを書いたシリーズです。
簡単に言えば、そう考えた結果が建物なのだ、と考えています。
   ただ、最後の頃は、今回の震災・人災で若干本題をはなれている点もあることをご了承ください。
今回の「形の謂れ」は、そこで書いたことを別の見かたで書いたに過ぎません。

「謂れ」とは、端的に言えば、「ものの道理」のこと。
すなわち、そういう形になる、あるいはそういう「形」にする「ものの道理」。
それがあるか否か。

   形づくりにまで「道理」を求められるのは納得ゆかない、「自由な発想」が妨げられるではないか、
   と思われる方が、多分居られるのでは、と思います。
   では、その「自由な発想」は、何を契機に生まれるのでしょうか?
   そして、その発想は、泉のごとく、絶えることなく湧き出してくるのでしょうか?

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建物をつくるとはどういうことか-1・・・・建「物」とは何か
建物をつくるとはどういうことか-2・・・・うをとりいまだむかしから・・
建物をつくるとはどういうことか-3・・・・途方にくれないためには・・
建物をつくるとはどういうことか-4・・・・見えているもの と 見ているもの
建物をつくるとはどういうことか-5・・・・「見えているもの」が「自らのもの」になるまで
建物をつくるとはどういうことか-5の追補・・・・設計者が陥る落し穴
建物をつくるとはどういうことか-6・・・・勘、あるいは直観、想像力
建物をつくるとはどういうことか-7・・・・「原点」となるところ
建物をつくるとはどういうことか-8・・・・「世界」の広がりかた
建物をつくるとはどういうことか-9・・・・続・「世界」の広がりかた
建物をつくるとはどういうことか-10・・・・失われてしまった「作法」
建物をつくるとはどういうことか-11・・・・建物をつくる「作法」:その1
建物をつくるとはどういうことか-12・・・・建物をつくる「作法」:その2
建物をつくるとはどういうことか-13・・・・建物をつくる「作法」:その3
建物をつくるとはどういうことか-14・・・・何を描くのか
建物をつくるとはどういうことか-15・・・・続・何を描くのか
建物をつくるとはどういうことか-16・・・・「求利」より「究理」を
建物をつくるとはどういうことか-16・再び・・・・「求利」より「究理」を

  なお、このシリーズの出だしに、前川國男自邸を例に出したところ、
  前川自邸自体のみに興味を示す方が居られたようですが、
  その建物自体について云々する気は私には毛頭もありません。
  私は、前川國男氏(たち)の建物づくりに対する「作法」すなわち「考え方」に関心があるのです。

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6 コメント

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Unknown (jack)
2011-09-08 15:08:29
共感いたします。ですから出来上がる形は非常にローカル(個性的)なものだと思う。最近の住宅では世界中のいろいろな形で作られていて、ある意味国籍不明の建築です。そこにはそこの気候や風土があるのですから、よりよく住むためには、それなりの形が必要。そうでなかったら住みにくいだけ。
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コメント御礼 (筆者)
2011-09-08 15:57:45
コメント有難うございます。

国籍不明という点では、現代のアメリカの住宅を追いかけている。
住宅メーカーが、地域の「文化」をダメにしている、と私は思っています。そして、そこで働く者は、大半が日本の建築教育を受けている・・・・。何を教えてきたのでしょう?

もっとも、近代初頭のアメリカは違っていたように思います。
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Unknown (komaki)
2011-09-10 23:25:16
先生こんばんは。
現在、武家屋敷の改修工事をしています。
構造の補強方法がなかなか決まらず、
「構造の専門家」のアドバイスを受けながら、
行ったり来たりを繰り返しているところです。
しかしその「構造の専門家」は建物全体の構造を見ようとはせず、(我が家は建築基準法などでは解釈できない建物だと思うのですが)建物周辺部の壁倍率ばかり見ており、土壁や差鴨居、梁組みや足まわりの貫については、「アバウトで感覚的な構造の考え方」としか捉えられない「専門家」なようです。
いいかげん、あきれ果て、今日ようやく棟梁に相談しました。実に明確に、経験と知識に基づいた的確な判断をしてくれ、胸のすく思いがしました。
「専門家」とは何ぞや?と最近強く思っていた私でしたが、こういう人こそ専門家なんだと強く感じた一日でした。
そんなタイミングで、この記事を読み、おもわずコメントしてしまいました。
この棟梁によって、素晴らしい改修ができるものと確信しているところです。
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棟梁万歳! (筆者)
2011-09-11 02:44:16
「アバウトで感覚的な構造の考え方」!

こういうことを言うとは、まさに最先端の「専門家」ですね!

この人たちは、数字で表すことが厳密だと勘違いしているのです。
この考え方の先には原発があります。

そしてまた、日常、「無感覚」で暮してるんでしょうね!
感覚がないんだ!

scientific であるとはどういうことか、考えなくなっている。困ったものです。


棟梁万歳!
返信する
緑の等高線都市 (下河敏彦)
2011-09-11 07:56:44
久しぶりにコメントします。先日地すべり学会に参加しておりましたら、京都大学防災研究所の釜井先生が「緑の等高線都市」という概念を提唱されていました。等高線に逆らわないで無理をしないで現地に合わせて造る、という意味合いが含まれています。なんだかんだ言っても、”多少の開発”をしなければいけないのですが、無理をしない開発のひとつの方向性が締めさていると思います。共感するものがあったので、わたしの会社のコラムにしました。

http://www.kankyo-c.com/column/zairyou/column08.html

自然地形には、何千、何万年もも時間を掛けてそういう形になった謂れがあります。それを一瞬のうちの定規を当てられるような都合にすると、あちこちで無理・ひずみが発生します。それこそ直ちに影響がなければいいという発想です。語弊があるかもしれませんが、震災は都市のあり様を考え直す機会を与えてくれました。復興を急ぐあまり、元の木阿弥にならぬようと思います。
返信する
幼児遊びのススメ (筆者)
2011-09-11 09:08:58
世の風潮は、
一つには、個々人が個々の感性に拠る判断をしなくなったこと、
そしてそれは、諸「学」が、個々人の判断を認めなくなった故であること、
そしてその根本に、諸「学」が「現実:reality 」に基づかなくなってしまった、あるいは、「現実:reality 」との照合をしなくなってしまったからだ、と
常日ごろ感じています。
建築の世界は、特に著しい、と思っていましたが、そうではなく、全般にそうなのですね。
近代合理主義、近代科学万能信仰・・・、その結果なのでしょう。
どうでしょう、このあたりで、諸「学」に携わる方がたに、砂遊びや穴掘り、積木あそび、あるいは金槌を持って簡単な工作・・・などをなさる機会を設けて、その修了証がなかったら学者・研究者を辞めていただく、というのは・・・。

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