建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

厳密と精密・・・・学問・研究とは何か

2007-09-21 10:51:52 | 「学」「科学」「研究」のありかた
 私が当今の(建築:建物づくり、特に、いかなる空間をつくるのか、について、つまり「建築計画」の)「研究」あるいは「学問」について大きな疑問を抱いていたとき、それを解きほぐしてくれたのが、次の一文である。あるいは、私よりも、はるかに説得力のある人物の発言をもって理論武装した、と言った方がよいかもしれない。

 また、自然科学とは何か、精神科学あるいは人文科学とは何か、考えるきっかけとなったのは確かである。
 そして同時に、自然科学を基礎とする、あるいは応用(自然)科学を自負する「工学」のなかには、すでに自然科学の「精神」を逸脱し、それでもなお「自然科学の係累」であるとの思い込み、ご都合主義が蔓延していることに対しての異議の根拠をも与えてくれたのも確かである。今から40年以上も前のこと・・・。
 なお、一部は以前に紹介したような気がする。
 また、読みやすいように、原文とは異なる段落にしている。


 ・・・・・
 今日ひとが学問と呼んでいるものの本質は、研究です。
 ではどこに、研究の本質があるのでしょうか。それは、認識することがみずから道案内として、自然であれ歴史であれ、存在するものの領域内で身構えるところに、成り立つのです。

 道案内とは、ここでは単に方法や手続きをいうのではありません。なぜなら道案内はすべて、みずからがそのなかで動く或る開けた区域を、予め必要とするからです。しかしちょうどそのような区域を開くことが、研究の基礎工程なのです。
 これは、存在するものの或る領域たとえば自然において、自然現象の一定の見取図(輪郭)が描かれることによって、おこなわれます。いったいどんな仕方で認識する道案内が、開かれた区域に結びつくべきか、ということを予め描くのが企画です。この結びつき方は、研究の厳密さです。
 見取図の企画と厳密さの規定とによって、道案内は存在領域において、その対象区域を確保します。最も早くから発達し且つ標準的な近代的学問(近代科学)である数学的物理学をみれば、右のことが明らかになります。
・・・
 近代物理学は、それが優れた意味において、或る種の確定した数学を利用するから、数学的といわれるのです。もっともっと深い意味ですでに数学的であるからこそ、そのような仕方でただ数学的にだけ、処理することができるのです。
 タ・マテ-マタとは、ギリシア人にとって、人間が、存在するものを観察し事物と交渉することにおいて、「すでに予め知っているもの」、を意味します。すなわち物体については物体に本質的なもの、植物については植物に本質的なもの、動物については動物に欠きえないもの、人間にとっては人間にふさわしいものです。
 これらの「すでによく知られたもの、すなわちマテーマタ的なもの」には、前述のもののほかに、数もまたそうです。
 テーブルの上に三個のリンゴを見いだすと、わたしたちはリンゴが三つあると認めます。しかし、三という数、三であること、をわたしたちはすでに知っています。このことは、数がマテーマタ的ななにかである、ということです。ただ、数が、いわば最も押し付けがましく、いつもすでに知られているものを、それでまたマテーマタ的なもののなかで最もよく知られているものを表すので、そのために直ちに呼び名としてのマテーマタ的なものが、数的なもののために取って置かれたのです。

 しかしながらマテーマタ的なものの本質が、決して数的なものによって規定されるのではないのです。
 物理学は一般に自然の認識であり、特に質量的物体的なものを運動において認識することです。なぜなら質量的物体的なものは、それが様々な仕方にせよ、すべて自然的なものに直接に例外なく現われるからです。
 さて物理学がことさらに数学的な或るものへと形成されるとすれば、これは或る強調された仕方において、数学的なものを通じて、また数学的なものにとって、なにものかがすでによく知られたものとして、予め構成されている、ということなのです。
 この構成は、求められた自然の認識にとって、いつか、自然であるべきところのものを企画することに全く他ならないのです。
 すなわちこれは時間空間的に相関連する質点の自己完結的な運動連関に他ならないのです。この構成されたものとして設定された自然の構図に、とりわけ次の諸規定が記入されます。
 すなわち、運動は場所の移動である、いかなる運動も運動の方向も、他のそれらより勝っていることはない、すべての場所は他の場所と等しい、いかなる時間点も他のどの時間点に優先しない、すべての力はそれが運動に、すなわち再び時間単位における場所の移動の大きさという結果を伴うところのものにしたがって規定される、換言すればそれ以上でも以下でもない、などなど。

 この自然の構図のなかに、あらゆる経過事象(経験されてきた事象)が見込まれていなければなりません。この見取図の視界内で、ひとつの自然の事象は、そのものとして、はじめて眺められるのです。物理学的研究の、その問のどの歩みも、予め企画に結びつくことによって、自然についてのこの企画が確実さを保っています。この結びつき、すなわち研究の厳密さは、企画に沿ってそのつど独自の性格をもっています。数学的自然科学の厳密さは、精密さです。すべての出来事は、それらがおよそ自然現象として表象されるときには、そのさい予め時間-空間的な運動量として規定されねばなりません。そのような規定は、数と計算の助けをかりる測定においておこなわれます。

 しかし数学的な自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。
 これに反して、すべての精神科学さらに生活体についての諸科学も、まさしく厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。つまり、生物を或る時間-空間的な運動量として捉えることはできても、そのときはもはや生物として捉えられていないのです。歴史記述的な精神科学の不精密さは、なんらの欠陥ではなくて、この種の研究の仕方にとって本質的な要求を充たすことにすぎないのです。むろん歴史記述的な学問の対象区域の企画と確保とは、仕事の面からいっても、精密科学(自然科学)の厳密さの実行よりも、遥かに困難なのです。・・・
      
        ハイデッガー選集Ⅷ「世界像の時代」桑木務訳(理想社)より

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