日本の建物づくりを支えてきた技術-18・・・・継手・仕口の発展(3)

2008-12-08 19:15:57 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[文言追加 12月9日 3.09、3.19]

今回も「角鎌継ぎ」ですが、今の私たちでは到底思いつきそうもない事例です。

法隆寺の寺域に「綱封蔵(こうふうぞう)」という高床の蔵があります。「妻室」の東側にあり、建物には近づけませんが、目の前で見ることはできます。
寺院の高床の蔵というと、「正倉院」などのような「校倉造」を思い浮かべますが、この建物の外観は、上の写真のような普通の土壁です。

「校倉造」の蔵だと、どうしても「校倉」部分に目がいってしまいますが、高床式の実際を知るには、校倉ではないこの建物が分りやすいのではないでしょうか。
そのためには断面図がいります。ところが、建築史関係の図書には、私が知る範囲では載っていません。唯一、「文化財建造物伝統技法集成」には、技法解説の参考として断面図があるのですが、その断面図はかすれていて材寸など細部が見えません。
そこで、「重要文化財 法隆寺綱封蔵修理工事報告書」(奈良県文化財保存事務所 刊)の複写を国会図書館に依頼していたのですが、著作権の問題で複写できない旨の連絡があり、やむを得ず断面図は掲載できません。そのため「奈良六大寺大観 法隆寺一」所載の写真と解説から想像することにします。なお、「継手・仕口」図は、「文化財建造物伝統技法集成」からの転載・編集したものです。

この蔵は、正倉院などと同じく、二つの蔵を並べ、中間に吹きさらしの部分を設けて一つ屋根をかける方式を採っています。
二つの蔵は、平面図のように、それぞれ1間約2.6mの3間四方、中間部も同じ大きさです。平面図の左方が北だと考えてください。つまり、図の上側は東になります。そちらが正面です。

中間部は床を張ることがありますが、上段右側写真のように、「綱封蔵」では床が張ってありません。中途に見える左右に走る横材は、後で触れる「台輪」と「頭貫」です。なお、上側の材「台輪」には、金属板(だと思われます)が被せられています。
蔵は、外部は土塗り壁、内側には床から1.6mほどの高さまでは、6cm厚の板が柱に彫った溝に嵌め込まれているそうです。

建物は、先ず「高床」になる部分をつくり、その上にあらためて軸組を建てる方法を採っています。

なお、こういうつくり方では、今の法令下では、「軸組」部と高床部をホールダウン金物で補強せよ、と言われるに違いありません。要するに建てられない!

何度も改修が行なわれていて、後述の高床を構成する「束柱」と「台輪」の7割程度が当初材のほかは後に補われた材のようです。
また、建設時期をはっきり確定できる資料もなく、解体修理時に礎石の下から天平時代末~平安時代初期の瓦が見つかっていることから、当初の建設は平安初期:9世紀頃ではないか、とされています。

しかし、ということは、「高床」+「軸組」方式で、1000年以上、架構は健在だったということを意味します。
現在の構造の専門家は、これをどう考えるのでしょうか?実験してデータをそろえなければ分らない・・・のかな。
私には、たとえ、大きな改修が何度なされていようが、この架構方式で1000年以上存続してきたこと自体、どんな実験室での実験よりも立派な「実験」、立派な「データ」だと思えるのですが、この「論理」は、今の「科学者・研究者」には通じないのです。

つい「わきみち」にそれました。
実は、この「高床」部分の工法で使われている「継手・仕口」を今回の話題にしたいのです。

建物は高さの低い「土壇」の上にあります。「土壇」上に自然石の「礎石」を据え、高さ1.8mほどの「束柱」を立てます。
「束柱」は、真ん中あたりがふくらんだ形をしていて(「胴張り:どうはり」と言うようです)、胴張り部で径54.6cm、底部で51.2cm、頂部は50.6cmの大きさ。頂部は円周の角に丸面をとり、天端の径を45cmにしてあります。これは、その上に載ってくる「台輪」の幅に揃えるためと思われます。

「台輪」は幅が45cm、高さが25cmあります。他の例に比べると、高さが大きいそうです(普通の「校倉」では、高さは12cmほど)。

平面図、写真のように、梁行:短手方向には4本並ぶ列が10列あります。各列の「束柱」の頂部には、16cm角の「頭貫」が落し込まれ、その上に「梁行台輪」を載せます。
「梁行台輪」は、短手各列に乗っています。「頭貫」「台輪」とも、外方に向って跳びだしています。
桁行方向:長手の「束柱」上には「頭貫」はありません。梁行だけに「頭貫」を渡すのは、時代が古いやり方だそうです。

「台輪」は「束柱」に刻んだ「頭枘(かしら・ほぞ)」で納められているようです(この図には判然としないところがあり、私の想定です)。

長手:桁行には、外側の柱列上にだけ、梁行「台輪」に直交して、桁行の「台輪」が「渡腮(わたりあご)」でかけられています。

軸組の柱は33cm角で、どれも「台輪」の上に立てられていますが、両側面:東西の側面の柱は、この「桁行台輪」の上に立てられることになります(梁行の中間の柱2本は「梁行台輪」に立てられますから、側面の柱よりも材長が長くなります)。
この「柱」と「桁行台輪」の仕口の解説図が、上段の分解図です。

「桁行台輪」は当然どこかで継がれることになります。しかし、「文化財建造物伝統技法集成」では、どこで継がれているかは説明がなく、「台輪」と「柱」の仕口は2種類ある、とだけあります。

この解説図から、この建物でも、これまで紹介してきた例と同じく、「継手」箇所に柱を立てる方法、つまり「継手」箇所に「仕口」を設ける方法を採っていることが分ります。

図の左側は、「角鎌継ぎ」の首の部分を通常より長めにとり、その両脇に柱の「根枘」を2枚刻んで落しています。「根枘」の先端は、「梁行台輪」に達していますから、「軸組柱」「梁行台輪」「桁行台輪」そして「束柱」は一体に組まれることになります。
私が驚き、「感激」したのは、この箇所の「継手・仕口」です。
いくら材寸が大きいからと言っても、「鎌継ぎ」の首の両側に2枚の「根枘」を差す、そのために首を通常よりも長くする、などという発想は、私には到底思いもつかないからです。

図の右側は、図から想定するかぎり、左右の「梁行台輪」に「片腮」でかけ突き付け、その接続箇所上に、「角柱」の太い「枘」を差しています。
「枘」には先細の傾斜が付けられていますから、下手をすると左右の材を押出すことになる、つまり「継手」がはずれるように見受けられます。その意味では「継手」と考えるには無理があるように思えます。本当のところを知りたいと思います。

私の想定では、図の左側の「軸組柱」「梁行台輪」「桁行台輪」「束柱」を一体化する方法は、蔵の外壁の交点で継ぐ時、図の右側の方法は、中間で継ぐ場合の方法なのではないか、と思えます。残念ながら、詳しいことが分りません。

なお、図の下段は、「台輪」と「頭貫」の「継手」だけを示した図です。ただ、分解図には、「渡腮(わたりあご)」の部分が書かれていません(下の側面図にはある)。[解説文言追加 12月9日 3.09]

それにしても、かつての工人の発想の豊かさ、自由さには恐れ入ります。それは、「現物」を目の前にしているからだ、と私には思えます。
私の持論に近い考えですが、「近代科学」が「下手に」発達・発展した結果、人が自ずから備えている筈の「想像力」「発想力」そしてなによりも「直観力」が衰えてきたように思えてなりません(下註参照)。
「科学理論」の学習を重んじ、「現物」をつくる、さわる、という「経験」「体験」をないがしろにするようになっていないでしょうか。

そしてまた、過去の工人たちの仕事を、単に昔のものだから、というだけで無視、黙殺しているのではないでしょうか。
それはすなわち「歴史」というものを無視・黙殺することにほかなりません。
もっと簡単に言えば、「今日」は「昨日」があっての「今日」、「明日」は「今日」があっての「明日」だ、ということを無視・黙殺することです。


ところで、最近、「伝統《的》構法の建物の実大実験」なるものが大掛かりに行なわれたようです。
しかし、なぜ「伝統工法(構法)」と言わずに「伝統《的》工法(構法)」と言うのでしょうか。

これは私の推量ですが、《的》の一字を入れることで、自らの「知」をごまかそうとした、あるいは「追求」を避けたかった、のではないでしょうか。

なぜなら、中国語では「的」は「・・・・の」という意味ですが、日本語で《的》を使うときはこの意味ではなく、「名詞や句に添えて、その性質を帯びる、その状態をなす意を表す」(「広辞苑」)ための用語だからです。つまり、「伝統《的》構法」と言うときは、「伝統工法風の」、「伝統工法のような」で済むのです(実際、実験建物を見るとそのようです)。

これに対して、「伝統(工法)」と言うと、「ある民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い、伝えて来た信仰・風習・制度・思想・学問・芸術など」(「広辞苑」)、「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りをもって受け継ぐ所のもの」(「新明解国語辞典」)ということになります。

つまり、今回実験を行なった方々は、この「伝統」の語意が恐ろしくて、「伝統」とは言い切れなかった、と考えられるのです。
これは、「軸組工(構)法」で済むものを、わざわざ「在来工(構)法」などという意味のあいまいな《新語》をつくって「目くらまし」をかける、つまり「伝統工法の存在をうやむやにする」やりかたと、どこか共通しています。[文言追加 12月9日 3.19]

この「実験」について、おってあらためてとり上げたいと考えています。

  註 「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初のⅠ型梁」

次回に補足

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« とり急ぎ・・・・喜多方登り... | トップ | 日本の建物づくりを支えてき... »
最新の画像もっと見る

日本の建物づくりを支えてきた技術」カテゴリの最新記事