日本の建築技術の展開-15・・・・多層の建物:その5-姫路城

2007-04-23 23:19:03 | 日本の建築技術の展開

 城郭の話をしていて、姫路城に触れないわけにはゆかない。
 なにしろ、およそGLから15mの高さの天守台:石垣天端上に建つおよそ31m・6階建ての木造建築なのだ。
 石垣を含め、そっくりそのまま、確認申請をし、担当者の見解をきいてみたくなる建物!もちろんダメと言われるだろうが、ダメの理由をききたいのだ。解体修理の行われた昭和38年(1963年)まででも約350年、途中に何度かの修理があったにせよ、健在だったのだ。それでもダメと言うには、それ相応の理由がなければならない。

 それはさておき、姫路城は、中央を貫通する二本の大柱が有名である。
 この柱を含め、この建物の構造について、「日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ」の姫路城の項に、一つのエピソードとともに、きわめて明快な解説が述べられている(なお、上の図は、同書から転載、編集した)。
 そこで、以下に、該当部分をそのまま転載することにする。なお、読みやすいように、要所で、原文にはない改行を行った。

「・・・・
 構造面からみると大天守は南北の中心線上に、東西相対して並べた二本の大柱を基本として組立てられている。
 東大柱は礎石上で径がほぼ一メートルあり、地下から六階の床下にまで達する通し柱である。西大柱も同様な太さで、同じく六階の床にまで達しているが、東大柱と違い三階床の位置で継がれている。
 両大柱は各階とも周囲の柱と繋梁で繋がれ一体化されている。

 第二次大戦後の修理において、この途中で継がれた西大柱を新材にかえる予定で、その用材を木曾に求めたが、輸送の途中で事故のため折れてしまった。
 したがって、西大柱は再び途中で継がれることになったが、『修理工事報告書』によると、東西両大柱が周囲と繋梁で固められるので、六階床までの通し柱が二本立っている場合には、組み上げて行くとき、作業が困難になるとのことである。

 三階床で西大柱が継がれていたことと、全体の構造が三階で上下に別れていることとの間には構造上の関係があったのではないかと考えられる。
  (筆者註 この説明は、解説文の最後に述べられている)

 東西の大柱のほかには、架構全体を通すような柱はないが、二階あるいは三階分を通して全体の構造を一体化する役割を果している柱が数多くみられる。
 それらは大別して地階から二階(三階床下)までに入れられているものと、四階から六階に及ぶものとに分かれる。

 地階から二階への通し柱は、母屋廻りおよび外廻りにあり、中庭に面する北側外廻りでは地階から二階まで、母屋廻りでは地階から一階、一階から二階の二種、また、地階のない石垣上にあたる外廻り部分では一階から二階にかけて、通し柱を用いている。
 これらの通し柱は、地階から二階までを一体化するのに役立っている、

 一方、上方では四階から五階、五階から六階の、いずれも外廻りに、通し柱が用いられている。これらは、四・五・六階を一体化する役割を果している。
 しかし、三階の部分は上方下方いずれからも両大柱以外に通し柱はなく、すべて管柱である。三階をはさんで上下の構造は別々で、二本の大柱が繋ぎの役割を果している。
 ・・・・」

 この解説は、「土台、通し柱、差口による横架材、貫・・による架構」=「部材を一体化する工法」の一般的な解説として通用する。
 実際、城郭の部材は大寸であるが、近世の住居(二階建て商家)では、4.3寸角程度の柱で同様の工法が採用されている(いずれ紹介)。

 補足 同書所載の詳細図から判定すると、
    大柱以外の柱は、通し柱、管柱とも、1尺2寸角程度である。
    梁は大寸もので17寸×12寸。
    貫は厚2~2.5寸、丈5~10寸、
    
    なお、断面図のRC部分は、解体修理の際の後補。

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