「第Ⅳ章ー3ーB1豊田家」 日本の木造建築工法の展開

2019-11-12 12:15:11 | 日本の木造建築工法の展開

PDF「日本の木造建築工法の展開 第Ⅳ章ー3-B1」 

 

B 住宅建築-2:商家住宅

 町なかに暮す人びとの住居は、町なかの地割:狭い間口で奥の深い敷地:に建てるという制約を受けます(間口で租税を納めたからだと言われています)。そのような町なかにつくられた住居は、一般に町家と呼ばれます。

 どの時代にも町家はありましたが、現在遺っている町家は、徳川幕府が成立して世情が落ち着き、町が安定してから建てられた建屋がほとんどです。

 町には、周辺の地域の人びとの暮しに必要な機具などの製造にかかわる職人や、物資の流通にかかわる商人、その人たちの下で働く人たちなどが住み着きます。

 たとえば、大阪の、近江の近江八幡、江戸の蔵前日本橋界隈などは、町として大いに発展して多くの町家が建てられています。

そのなかでも商家の住宅は、町家の代表的なつくりとなります。

 

 しかし、現在遺っている町家の事例は、文化財として移築保存されているもの、あるいは、当該の町が「近現代の開発」の荒波を受けることが少なかった地域に限られます。

 1970年代頃から、町家とも従来のまま遺っている地区が脚光を帯びるようになります。「近現代に生まれた町・町並み」に比べて、その佇まいが、人びとの目に、好ましいものに写ったからです。その結果生まれたのが伝統的建造物群保存地区制度です。木曽路の妻籠宿がそのはじめです。以来、多くの地区が保存地区の指定を受けています。 

 ただ、この制度には、すでに23ページで触れていますが、大きな問題点がありました。

 それは、「何を保存するか」という点についての「合意」があいまい点です。

 多くの場合、保存地区に遺っている建物の形体を保存し維持することに目標が置かれています。

 たとえば、当該の地区内で新築や改築を行なう場合、その外観を、その地区の代表的な建物(重要文化財に指定された建物など)の見えがかりの形体に倣うことが求められます。それゆえ、その地区で現在の暮しを続けるには障害になり、できあがった町は、あたかも時代劇のセットのごとき様相になってしまうのです。

 町は、一時にできあがるものではなく、それぞれの時代の蓄積がその表情をつくりだすのです。したがって、それぞれの時代の材料やつくりかた、形が変っていてあたりまえです。木造の建物に並んでコンクリートの建物が建っても構わないのです。それらが「同じ考え方」の下でつくられたとき、町並みの佇まいも壊されることなく継承されます。それが無視されたとき、町並みも壊されます。

 この論理は、農家住宅など比較的散在して建てられる場合でも同じなのですが、とりわけ、建屋が肩を並べて建つ町なかでは、その影響が目に見えるかたちで現われてしまうのです。

 

 以下にいくつかの典型的な町家の事例を紹介しますが、それを建物単体としてではなく、通りへの対し方、隣家への対し方・・・など、町を形づくる一要素として見る必要があります。

 ここでは、地区全体が保存地区に指定された奈良県橿原市の今井町、近江商人の町として成長した近江八幡の商家住宅を中心に見ることにします。

  

B-1 豊田家  寛文2年(1662年) 所在 奈良県 橿原市 今井町

 今井町は、室町時代末頃、一向宗の門徒が集まってつくった寺内町(じないまち)を基に発展した町。その中心になったのが称念寺(下図参照)。

 

 今井町位置図

 奈良盆地を南から北、そして西へ流れる大和川の上流:飛鳥川の西岸に位置する。

 

 今井町地割図                             日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 東西約600m×南北約300mの一帯は濠で囲まれていた。 寺内町の頃から、町人の自治の下に商業が発達し繁栄を誇っている。 中世には、寺内町から普通の町になるが、町人自治は継承された。 今から30年ほど前まで、町内には交通標識がなかった。警察が町に介入するのを嫌ったからだという。

 享保年間(1700年代初頭)、戸数900(内持家220余、借家700余)、人口4000人、江戸時代通じて、ほぼ一定。 現在は、自治意識は以前に比べ希薄になった感がある。

 今井町には、地区のまとめ役であった今西家をはじめ、8戸の重要文化財建造物に指定された持家層の建屋があるが(上図参照)、ここでは中間層と考えられる豊田家高木家を紹介する。

 豊田家は1662年、高木家は1840年頃の建設で、約180年ほど建設時期に差があり、その間の技術的な変容を見ることができる。

 

 

 通り側の外観                                                                           日本の民家6 町屋Ⅱより

 

 当初は材木商牧村家の所有。2階壁面の紋がそのことを示している。

 明治初年に豊田家が住み始める。ここに住むようになった豊田家は醸造業の本家からの分家。したがって、現在は豊田家ではあるが、材木商牧村家の本店としてつくられた建物である。

 牧村家は、西の木屋と称し繁栄、幕末には大名貸もしているほどである。

   

 

平面図   ぶつま上には2階を設けない (番付は、豊田家住宅修理工事報告書の番付による。)

 

桁行断面図             平面図・断面図は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集     

 

 今井町飛鳥川大和川上流畔の沼沢地につくられたため、地下水位が高く、地盤は軟弱である。 解体修理時、礎石にはかなりの沈下が見られ(最大は平面図のり-六柱の168mm)で、床組材はほとんど腐朽、軸組部の柱などにも腐朽が目立ち、多くの虫害(シロアリ)も発生、建物は全体に西南方向に傾いていた。 軸組に比べ、小屋組には腐朽や虫害は見られない。

 はすべて礎石立て。 り-六柱の場合、礎石は約70cm径、厚50cm弱の自然石を用いているが、地業は穴を掘り握り拳程度の川石を敷き詰め突き固めて礎石を据え、周囲を突き固めた程度で比較的簡易であった。                                          

 軸部の組立は、東なかのまの2本の太いケヤキ柱の建てを行い、この柱間の差鴨居足固貫を入れ、次いで西側の差鴨居足固貫をいれ2階梁を架けて6室を固め、次にしもみせまわりを組み、どま側の柱建てを行い、を入れ周囲の敷桁をまわし、どま上の牛梁を架け、桁行の2列のを架けて各梁行を架ける、という手順を踏んでいる。

 2階床梁は、差鴨居上の束柱で受けている(現在の胴差方式ではない:架構分解図参照)。

 平面は、室側を6.3尺×3.15尺の畳、4.8寸角の柱を基準にした内法制で計画し、どま側で逃げをとり調整したものと考えられる。 解説は、豊田家住宅修理工事報告書による。

 

 

どまからみせ(左手)東なかのま見る 柱ほ-六   写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集  

 

どま通り側・大戸口を見る 太い柱ほ-六           

 

          

みせ 通り側開口   

  

どま見上げ 牛梁十二通り                  どま東面  貫:3.7寸×1.1寸 モミ材

 

梁行断面図                      日本の民家6 町屋Ⅱより転載・編集

 

 

東なかのま見る 差鴨居14.7×3.9寸   ほ-六、 ほ-十二柱  写真は日本の民家6 町屋Ⅱより転載

 

 (「第Ⅳ章ー3ーB 1 豊田家 後半」に続きます。) 

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