近時雑感 : 「好い加減」

2014-03-23 11:01:18 | 近時雑感

サンシュユ:山茱萸の花が盛りになりました。中国大陸が原産とのこと。
冬枯れの山野で出会ったら、感激するのではないか、と思います。
ジンチョウゲ:沈丁花の香りも漂っています。
藪では、鶯が囀り、雉がけたたましく鳴いてます。
彼岸が過ぎ、春到来を実感します。



[註記追加 24日 9.00]
いいかげん」、これほど正反対の意味を持つ語はないでしょう。

「新明解国語辞典」には、
いいかげん」:「好い加減
① 「過不足のないころあい」、
② 「一貫性や明確さを欠いていて、それに接する人に、うそ・ごまかし・でまかせだという印象を与える様子」とあります。
①は、風呂の湯加減について使うぐらいで、普通は②の意で使う方が多いかもしれません。そのときは「好い加減」という表記ではなく「いいかげん」「イイカゲン」と書く方が「好い加減」かも・・・・。
そして、もう一つ
③ 「限度を超えていて、そろそろ何とかしてもらいたい感じだ、ということを表す」

この「いいかげん」な話が、昨今いくつも話題になっています。

一つは、売約済みの「高級集合住宅(世のナライの表現では高級《マンション》)」が、完工間近なのに全解体することになった、という件。
詳しくは知りませんが、「工事ミス」がいくつも露見しているようです。
「代表的」なのが、設備配管用の孔が用意されておらず、コンクリート打設後に壁を刳り貫いている箇所が、聞くところによると1000のオーダーを越えるほどある、とのこと。
建物の設備機器、配管・配線は、人体で言えば、諸臓器と動脈・静脈・毛細血管、神経系統の関係のようなもの。設計図の作成上、極めて注意を払うところです。建物が建物として機能しなくなるからです。そして、工事は、設計図の指示に応じて進行する。
ところが、工事に於いて、そのために必要な作業が忘れられていた、そこで、できあがってしまったコンクリートの壁を刳り貫かざるを得なくなった、ということらしい。
この刳り貫くことを「コア抜き」と呼んでいます。
「コア抜き」は、普通は、既存の壁などに、新たに配管を通す必要が生じたようなとき、(たとえば、エアコンを新設することになり、ドレイン管を通す孔を設けるようなとき)やむを得ず行なわれる工事です。リング状の刃の付いたドリルを回転させて穿孔します。鉄筋コンクリートの壁などでは、鉄筋も切断できます。
木造の建物の場合ならともかく、鉄筋コンクリートの壁では、あまりやりたくない。鉄筋を切ってしまう恐れがあるからです。必要だから入れてある鉄筋を切るには「勇気」がいります。
だから、鉄筋コンクリート造では、普通は、コンクリート打設前に、孔の用意をするのがあたりまえ。当然、設計図には、その「用意」を指示する必要があります。
しかし、事前に分っている、つまり設計図に示されている設備用配管のための孔の用意を「失念する」ことがあります。これはいわゆる「工事ミス」。そのようなとき、やむを得ず打設後に穿孔することもあります。
しかし、この件の場合は、どうも、そういう「用意の忘れ」が異常に多い。用意を一切しなかったのではないか、と思われても仕方がないほどの多さのようです。つまり、「工事ミス」とは言い難い。

そもそも、「設計」の「設」の語の字義は、「前もって用意する」という意味。「計」は、「企て」。したがって、「設計」は、「建物を建てるという企てのためのあらかじめ用意をする」こと。それを、図で示したのが「設計図」、ということになります。
   各語の語義は「字通」「大修館・新漢和大辞典」に拠っています。
それゆえ、設計図には、その建物の建築にあたり必須な事項が極力明示されていなければならない。配管が必要なら、位置、大きさなどが明示されていなければならない。
たとえば、木造建築の場合、柱や梁・桁を貫いて配管を通すことは考えません。最初から、それらを避けて通すように考える。鉄筋コンクリート造、鉄骨造でも、基本的には変りはないはず。この点についての「思案」は、設計を為す場合必須なのです。したがって、「設計図」には、この「思案」の結果が盛り込まれていなければおかしい。
そして、施工時には、配管経路などを正確に割り出しておく必要があります。そのために、現在の現場では、通常、「施工図」だ描かれます。

しかし、「施工図」を描くためには、「(実施)設計図」に、「施工図を描くために必要な諸事項」が指示されている必要があります
   「施工図を描くために必要な諸事項」:人体で言えば、諸臓器と動脈・静脈、毛細血管の位置などに相当します。
   特に、集合住宅のような場合には、かなり詳しく決めておかなければならず、更に、保守点検のための方策を考えておくことも必須です。
ところが、最近、「施工図を描くために必要な諸事項」の示されていない図が、「(実施)設計図」と称されて世に蔓延っているのではないか、と私には見えます。
そんなことは、「施工図」を描く者が考えること、と設計者が思い込んでいるからではないでしょうか。設計者は出来上がりの恰好を考えているんだから、皆の衆、それに協力せよ・・・

もっとも、今回の件は、単純に、工事業者の、工程省略による《経費の合理化》:「求利」が目的だった、と考えた方が分りやすい・・・。
出来上がってしまえば分らないよ、誰も見てないんだから・・・。
この建築工事は、日本で一二を争う大手工事業者の「請負」仕事。設備工事も同様らしい。
しかし、見ている者がいた。現場で工事に関わった人が、さすがに見るに見かねて「内部告発」をしたようです。

請負(仕事)」というのは、江戸時代に始まった工事方式です(前もって定めた金額で、全責任を負って仕事を引き受ける契約方式)。
この方式は、本来、依頼する側と引き受ける側相互の「信頼」の下で成り立っていた
「信頼」というのは、一人称・二人称の世界で初めて成り立つ関係。
ところが、第三者の関わらない二者だけの関係であることをいいことに、「請負」の名に便乗し利を貪る策に変質した・・・。
これは氷山の一角に過ぎず、これに似た「いいかげんな」事例が、水面深く大量に隠されているのかもしれません。
この「事件」、なんとなく、偽《ブランド品》を買わされるのに似ている・・・。住宅を購入した人たちも《ブランド》で買ったのでは?

町場の大工さんの仕事も多くは請負仕事。しかし、彼らは《ブランド》で仕事をしているのではない。施主との「信頼」で仕事をしている。仕事の「質」が「信頼」の基。だからこんな事件は起こさない。起こすわけがない。起こせない。

   工事が行われていた以上、「建築確認」済のはず。確認申請には、「設計図書」が添付されている。そういう役所お墨付きの設計図があるではないか、
   と思われる方が居られるかもしれません。
   これは誤解。大きな誤解。この「添付図書」は「設計図」ではないのです。あくまでも「申請図書」。
   しかし、今は、設計を「専門とする(はずの)」建築士にも、「確認申請添付図書=設計図」と考えている方が多いようです。   
   確認申請添付設計図書には、「確認審査をする人間にとって審査をする上で利便なように」諸項の記載が要求されます。
   しかし、それら諸項は、工事をする側にとっては必ずしも必要な事項ではなく、むしろ煩わしい余計な事項の方が多いのです。

   たとえば、「床高」(設計GL~床面)の明示が要求されています。
   それゆえ、建築士試験の製図でも必須とされ、教育機関でも、そのように描くことが「教育」されます。
   CADソフトもそうなっているらしい・・・。
   しかし、木造であれRC造であれ、床高は仕上り床高、いくつかの工程を経てできあがる「結果」。つまり、床高位置は、当初はいわば宙に浮いている。
   宙に浮いている位置の指示は、「実体」をつくり上げる人:工事をする側にとっては無意味。
   例を挙げれば、申請添付設計図書の床高寸法がラウンドナンバーであっても、実体の位置寸法は、ラウンドナンバーにはならない
   工事をする方がたは、床高表示の図面から、逆算をして「実体」の位置寸法を算定するという面倒で余計な作業をせざるを得ないのです。
   工事をする側にとっては、当然、実体の位置寸法が分りやすい寸法の方が「好い加減」。
   実体が分りやすいように按配して描いてこそ、「設計」という本来の意に即した「設計図」である、と私は考えています。
   そして、「設計図」が本来の意に即しているならば、「現今見られる施工図」は、本来不要のはずなのです。
   と言うより、現在多くの《建築家》の為さる仕事では、施工者が用意する「施工図」が「設計図」なのです
     これも昨今話題になった「作曲」事件で、「作曲指示書」を「作曲実行者」に示した《作曲家》に相当するのが現今の《建築家》と言えるかもしれません。
     そして、多くの「建築士」も、それを見倣い「エラく」なる、「エラく」なりたがる・・・。
   ついでに・・・。
   この解体「事件」の報道で、「論評」を加えていた人を「欠陥住宅の専門家」と紹介していました。これにもいささか驚きました。
   「いいかげん」にしてくれ。世の中何でも専門家頼み・・・?!。

    註記追加[24日 9.00]
    「日本家屋構造・中巻・製図篇」の矩計の描き方は、先ず、土台下端~桁上端を指示するべくあったと思います。要は、「実体」間の寸法の指示。
    設計GLは、いわば仮定線。だから、寸法に実体がない。
    その他の「木割」も、すべて「実体」の位置を指示していることに留意したい、と思います。
    これに比べ、当今の建築(教育・行政・その他諸々)は、如何に「机上の空論」で為されていることか・・・・!!嘆かわしいかぎり。


「万能細胞」の「研究」の話も賑やかです。

大方の「論議」は、画像の使い回しや、他論文のコピ・ペについて。それ自体、確かに「いいかげん」なことではありますが、私が最も「いいかげんなんだ」、と思ったのは、論文の共著者の方がたが、「異常」に気付いていない、ということ。そして、「同様の事態」が博士論文の「審査」に於いても見過ごされている、ということ。
研究内容は、世に言う「系」の研究。であるにも関わらず、どうして事態は不条理な道筋を進んだのか。「理解」に苦しみます。
   念のため、「新明解国語辞典」から
    理解:それが何であるか(を意味しているか)正しく判断すること。
    正しい:① 道理・法に合っている様子だ。② 真理・事実などに合っていて、偽りやまちがいが無い。
    真理:① 正しい道理。② その物事に関して、例外なくあてはまり、それ以外に考えられないとされる知識・判断。ex「真理[=学問]探求の学徒」

もしかして、「理系」の「研究」も、「今の世の中の風潮」に染まり「利系の研究」に堕している、のでなければ幸いです。

つまるところ、「一貫性や明確さを欠いていて、それに接する人に、うそ・ごまかし・でまかせだという印象を与える様子」の意での「いいかげん」が蔓延るのは、
世の中が、自分の利にとって都合がよい、すなわち「自分の利にとって好い加減」な状態を求めたがる傾向が強いからなのかもしれません。 それが「今の世の中の風潮」・・・。
そして、時には「自分の利にとって好い加減な状態を求める願望」が「実態」であるかに思い込んでしまう。あるいはまた、修飾語で「実態」を隠蔽する。
要するに、「夢」と「現実」の見境がつかなくなる・・・。
しかも、国のトップを任ずる方がたが率先してその風潮を加速させている。
曰く「福島原発はコントロールされている・・」、曰く「復興の動きが肌で感じられた・・」、曰く「《積極的》平和主義・・」・・・・

あまりにもいいかげんが過ぎる。私にはそのように思えます。

しかし、この「風潮」に「待ったをかける」のは、「待った、をかけることができる」のは、私たち自身であって、人任せにはできない。人任せにしてはならない。そう思っています。



このブログを書くにあたって、極力、「いいかげん」にならないように:自分に都合のよいようにならないように、心しているつもりではあります。
しかし、それは、私の「願望」。実態が「いいかげん」になっているかもしれません。
もしも、これはどうみても「いいかげんだ」と気付かれたときは、何なりとご指摘くださるよう、お願いいたします。
コメント (5)
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