近時雑感 : ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ・・・

2013-12-22 11:40:27 | 近時雑感

蛇足・追記 追加 12月23日 10.30]

NHK・TVの子供向け番組に「にほんごであそぼ」というのがあります。
夕方の5時15分から15分ほど(朝早くにもやってます)。ちょうど散歩から帰って一休みしているときによく見ます。中身が濃い子供向けではもったいない番組だ、と思っています。
能狂言、文楽(浄瑠璃)など古典芸能の当代きっての演者、講談師、落語家、気鋭のミュージシャンなどが(元力士の小錦も常連です)、子どもたちと一緒に、日本の古典から近・現代の文学、各地の方言、わらべうた、あるいは熟語、諺の類など、およそ日本語、日本の「文化」に関わること万般を、分りやすく紹介する番組、とでも言えばよいでしょうか。だから、子供向けではもったいないのです。
こういうことを幼いころから「学んで」いたならば、「文楽なんてつまらないものへの支援は要らない」などという暴論を吐く《大人》にはならないでしょう。

先日は、宮澤賢治の「アメニモマケズ」に曲が付けられて歌われ、また、幼い子が暗誦で全文を朗読していました(宮澤賢治の作品はその他にも多く紹介されています)。
子どもが読むと、新鮮に聞こえます。
そのなかでも、たどたどしく音読された次の一節が、耳に残りました。
おそらく、「甘言を弄して『事実』をごまかす《えらい方がた》」のあまりの多さに辟易していたときだったからではないでしょうか。
   ・・・・・
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ

   ソシテワスレズ
   ・・・・

全文を「校本 宮澤賢治全集 第十二巻(上)」(筑摩書房)から以下に写します。

   雨ニモマケズ
   風ニモマケズ
   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
   丈夫ナカラダヲモチ
   慾ハナク
   決シテ瞋ラズ(いからず)
   イツモシヅカニワラッテヰル
   一日ニ玄米四合ト
   味噌ト少シノ野菜ヲタベ
   アラユルコトヲ
   ジブンヲカンジョウニ入レズニ
   ヨクミキキシワカリ
   ソシテワスレズ

   野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
   小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
   東ニ病気ノコドモアレバ
   行ッテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ
   行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
   南ニ死ニサウナ人アレバ
   行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
   北ニケンクヮ(けんか)ヤソショウガアレバ
   ツマラナイカラヤメロトイヒ
   ヒドリノトキハナミダヲナガシ
   サムサノナツハオロオロアルキ
   ミンナニデクノボートヨバレ
   ホメラレモセズ
   クニモサレズ
   サウイフモノニ
   ワタシハナリタイ

   南無無辺行菩薩
   南無上行菩薩
   南無多宝如来
   南無妙法蓮華経
   南無釈迦牟尼仏
   南無浄行菩薩
   南無安立行菩薩

「全集」には、書かれていた「手帳」の各頁が写真で載っています。
それを見ると、
雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は、当初の「雨ニマケズ 風ニマケズ」に、自筆で「モ」が加えられています。

「ヨクミキキシワカリ」の個所は、当初は「ヨクワカリ」だけで、そこに「ミキキシ」が加えられています。
「分る」ということは「『自らが』見て聞いて分ること」、という『認識』を示したかったのだと思います。     
当時(大正~昭和初頭)は、いわゆる「《教養》主義」が流行った頃です。「知識の収集=分ったこと」と見なす「辞書的理解」の士が多かったのです。
宮澤賢治は、そういう「《教養》主義」をはじめとする「当時の風潮」の対極に自らを置いた、と私は理解しています。

   「注文の多い料理店」なども、その意思表示の一つではないでしょうか。
今も「辞書的理解」を求める気配が濃い、たとえば、「建築用語を知れば建築のことが分った」と思う方が多い、多すぎる、と私は感じています。 

なお、「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記のようです。


蛇足・追記[12月23日 10.30追記]

「建築用語を知れば建築のことが分った」ということを「否定」しましたが、その「わけ」を補足します。
もちろん、「用語」を知ることは、意味がないことではありません。ただ、そこで「おしまい」にするべきではない、ということなのです。「おしまい」にする方がたが多い、と私には思えるのです。それではもったいない・・・。
たとえば「垂木:たるき」という語を知ったとします。そのとき、そう名付けられた材について、5W1Hの「問い」で考えてみると、知ったことの中味が深化する、と私は考えているのです。
たとえば、今は、垂木は多くは角材でつくられています。角材をつくるには、そのための道具が要ります。もしも道具がなかったら、あるいは道具がない時代だったら・・、どうするか・・・、こう考えると、一気に視野が広がります。当然、「垂木」に対する理解、つまり、「人智」の中味にもより一歩迫ることになります。
このような「作業」を「積み重ねる」ことで、ものごとに対する「理解」が深まってゆく、と私は考えているのです。それはすなわち、自分の中での「(人の辿ってきた)歴史の再現・再構築」にほかなりません。

このように理解していただければ幸いです。




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