建物をつくるとはどういうことか-5 の追補・・・・設計者が陥る落し穴

2010-11-01 11:57:16 | 建物をつくるとは、どういうことか
[文言追加 3日 10.18]

「建物をつくるとはどういうことか-5」で、新たな場所が「分ってくる」過程を簡単に見ました。要は、「点」から「面」へという過程をたどって、自分の世界の一部に取り込まれる、ということです。
それゆえ、たった一度しか訪れる必要のなかった場所については、「出発点」:「自分にとっての既知の世界からの出口」と「目的地」が、「線」でつながったことだけが「記憶」に残り、「線」の周辺(これが「途中」なのですが)については、単に「見えていた」だけで、何も分ってはいないのです。
これは、ある場所へ、自らの足で訪れる場合の話。
ところが、新幹線や飛行機で訪れる場合は、頻繁に訪れていても、「途中」は常に「分らない」、極端に言えば、「途中」は「なくてもよい」「余計なもの」になっている。
別の言い方をすれば、活動範囲は、数字上では飛躍的に広がってはいても、「自らの(既知の)世界」は、何も広がってはいないのです。ところが、それをして、自らの世界も広がったと思い込んでしまう・・・。これが現代なのではないでしょうか。

こういう思い込みが当たり前になってしまったからでしょうか、「点」から「面」へという過程をたどって初めて「自分の世界」「自分の自由に動け、分る世界」は確立する、という事実は、忘れがちになっているように思えます。
「自分の自由に動け、分る世界」の全貌・全体を、「一時に捉えることができる」と思ってしまうのです。
この「傾向」は、設計をする人によく起こりがち、陥りやすい「思い込み」です。

そこで、
この設計者の陥りやすい「思い込み」を如実に知り、
そしてまた、
私たちが「点」から「線」そして「面」へと徐々に「分ってゆく」のだ、という事実を知ることのできる
恰好の体験場所を紹介します。
そしてさらに、そこは、
目の見えない方がたは、自分を中心にした直交座標でものごとを捉える、ということ、
そしてそれは、普段忘れてはいるけれども、目の見える人びとに於いても同じである、という事実をも
「身にしみて」実感できる場所でもあります。

その場所とは、下の地図に示した「筑波研究学園都市」の中心部です。

    

私はこの町に20数年暮しました。このあたりへもよく行きました。車で、そして歩いても。
しかし、私の中には「確とした地図」はできていません。今でも、間違え、迷います。
当然、初めて訪れた人は皆が迷う、と言っても言い過ぎではありません。

   有名な笑い話があります。
   ここに暮している人のところへ、ある人が車で訪ねてきた。
   道が分らなくなって、やっと見つけた公衆電話から訪問先に電話をかけた。
   今どこにいる?と訊く。
   訪問者曰く、それが分らない・・・。
   これは、まだ人家が混んでいなかった頃の話。

なぜ、「分らない」のか、「分りにくい」のか。

その原因は、一に、「糸を撚ったような鎖状」の道路にあります。
まっすぐ平行して北に向って走っていた2本の道は、「糸を撚ったような鎖状」の形になるため、左側の道は東北へ、右側の道は西北へ、それぞれ135度曲ります。曲った道は交叉します。そして今度はそれぞれ向きを北に変え(そのためには135度曲ることになります)、ふたたび平行して走ることになります。
これを中心部で二度繰り返すのです(三度の場所もあります)。

このようになっている、ということは、図面の上ではよく分ります。しかし地上の人は、そんな具合に俯瞰はできません。
それこそ、目の前に「見える」景色に応じて、歩を進め、車を動かします。だから、こんな風になっている、などということは事前に分りません。
用意のいい方は、あらかじめ地図を見て、分っているつもりになっているかもしれません。

しかし、地図を見ていない人はもちろん、地図を見ている人も、かならず混乱に陥るのです。
その原因は「135度の曲り」にあるのです。
人は北に向いて歩いて、あるいは走ってきた。道なりに「右135度」に曲った。ところが、曲り終わった後、実は北東に向っているのに、本人は「東向きになった」と思ってしまうのです。曲ったことは分っているが、それが「135度だ」、「斜めだ」という意識はないのです。東に向いて走っているとの思い込みで次の135度を曲ると、北向きになったと意識します。結果としては合っています。
しかし、途中は間違った方向感覚。だから、中途の交差点を左折すると、本人は北に向いたと思い込む(実は北西に向いている)。次に135度曲る。曲ったのだからと、本人は東に向いたと思う。実際は北に向いている。・・・そこから先は、方向は滅茶苦茶になります。

これは、この場所を実際に歩いたり走ったりしていただければ、あるいは「紙上で」試みていただければ、即座に分る事実です。
135度の曲り、というのを意識・認識できるかどうか、を含め、いろいろと、験してみてください。


そしてまさに、この場所で私たちの内に生じる混乱は、「私たちは、目の見えない人も見える人も、直交座標の中心に自分を置いて、『前後-左右』でものを捉えている」ということを証明してくれているのです。その意味では、ここは、《大変貴重な場所》です。

このような「混乱」は、何度実際に歩いたり走ったりしても生じます。「慣れてくる」ことがない。
なぜ「慣れない」のか。

その最大の原因は、「なぜそこで曲らなければならないのか」、しかも、「選りに選って135度に・・・」、その「理由がない」、「(そのように)曲る必然性がない」からなのです。
すでに触れましたが、「曲るべくして曲る」、これが本来、人がつくる道の「原則」だった。
それは、人の「感覚」「感性」による判断。そして、この「感覚」「感性」は、現代でも変りはないのです。

では、なぜ、このような「計画」が実現してしまったのでしょうか。
それは、設計者の「誤解」です。
設計者は、紙の上に「絵」を描いている。「絵」は、全体を俯瞰している。

そこに、二つの問題が生じるのです。
一つは、「絵」の図柄としての「恰好」が気になってしまう。「恰好よい」「絵」にしたいという「誘惑」が生じる。
それが、「糸を撚ったような鎖状」の道路の形。

もう一つは、自分は計画した全体の「恰好」を見ている(それは当たり前「俯瞰した絵」で見ているのだから)。だから、その道を歩いたり走ったりする人たちも(つまり、現実の地上の人びとも)、全体の「恰好」を分ってくれるだろう(全体が見えているだろう)・・・、という設計者の「思い込み」。[( )内、文言追加 3日 10.18]

つまり、この設計者は、人が、ある(初めての)場所を「分る」とはどういうことか、その考察を忘れていたのです。
すなわち、人は、一時に「自分の必要とするものの全体」、たとえば「自らの自由に動ける世界」を捉えることはできず、「徐に、怖ず怖ずと、少しずつ把握してゆく」のだということ、そしてそれは、それぞれの人それぞれの備えもった「感覚」「感性」に拠るのだ、ということを忘れていたからなのです。

私が「くどくど」ととここに書いているのは、それが、「建物をつくる」ということを考えるにあたって不可欠なことどもである、と思っているからです。

もう少しのご辛抱を・・・。

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