「建築」は何をつくるのか-3・・・続・建物づくりと「造形」

2009-07-30 11:23:19 | 設計法

先回、ライトの「落水荘」を例にして、次のように書きました。
私たちが「感じている隙間・空間」とは、「平面図」で言えば、その「白い部分」です。平面図上で、この「白い部分」を主階から順に見て行くと、私たちが「落水荘」に「在る」と、どのように私たちの中に「感懐」が生まれるか、が分ってきます。
とどまる歩を早めたくなったり、腰をおろしたくなったり、気分が高揚したり、鎮まったり・・・・、その「変遷」が感じられる筈です。
この「変遷」をどのように構築・構成するかが、ライトの考える「設計」なのだと言ってよいでしょう。

私たちは、「落水荘」に在る場合だけではなく、常に、「私がそのとき在る空間に何かを感じつつ、それに応じて立ち居振舞っている」ということです。
建物の設計では、すなわち、「白い部分」を構築するには、私たちがその「白い部分」に在る時感じるであろう「感懐」を基にして行わなければならない、ということです。

   註 最近の建物では、私が、そこで感じたままに素直に振舞うと、
      混乱に陥る場合が多くなっています。
      そして「案内板」:「サイン」だらけになります。
      それについては、かなり前に、迷子にならざるを得ない病院を例に
      下記で触れています。
      「道・・・道に迷うのは何故?:人と空間の関係」


「私たちがその『白い部分』に在るとき感じるであろう『感懐』を基にして行わなければならない」のだ、ということを、私が最初に「実感」として理解したのは、ライトではなくアアルトの設計事例でした。

上掲の図版は、1938年のニューヨーク万博でフィンランドの建築家アアルトの設計した「フィンランド館」です。
上段は、入口を入ったときの館内の姿。その右は、全体の構成の解説のための分解図。
中段は、設計段階での入口を入ったときの館内のスケッチ。大体その通りになっています。
下段は、全体の構想を示すスケッチと完成したフィンランド館の平面図です。
なお、このフィンランド館は、既存の建物の内部の改装で計画されたようです。

   註 図版は以下よりの転載
      〇スケッチ(内観、および平面)
      “Aalto”(GARLAND刊、スケッチを集めた全集)
      〇その他
      “Alvar Aalto”
      (The Museum of Modern Art NewYork刊) 

この建物の写真を最初に見たとき、この「うねる壁面」が、ただ異様にしか見えなかったことを覚えています。何だ、これは?
ものの本では、アアルトの国、フィンランドのフィヨルドの海岸線に倣ったものだ・・・、などという説明がありました。ほかも同様で、「見える形」だけを云々している書物が大半でした。

しばらく経って、あらためて入館者になったつもりで平面図を見ていったとき、この壁の「うねり」の理由が分ってきたのです。

万博の展示館ですから、内部にはフィンランドについて紹介する各種の展示がいろいろな手段で展示されています。それら各種各様の展示を、歩を進めながら深く理解しつつ観てゆく、そのためには、途中で飽きることがあってはなりません(多くの博物館などで、観るのを省略したくなる経験は、皆がお持ちだと思います)。
フィンランド館は、その点が綿密に計画されていることに気付いたのです。
「うねる壁」は、フィンランドの針葉樹を横並べしてつくられています。その「うねり」につれて、来館者は気分が高揚し、素直に歩を進め、二階へも自然に誘われます。二階には、今歩いてきた一階を見ながら休めるティーラウンジもあります・・・・。

「形」だけ、この場合で言えば、「うねる壁」だけに目を奪われると、本当のところを見抜けない。特に、図面や写真だけで建物を見る場合には、よく陥る落とし穴です。
「うねる壁」は、単に、その「造形」のためにつくられた「造形」なのではなく、望まれる適切な「空間」を「そこ」につくりだすための手段に過ぎない、そう理解したとき、設計では何を考えればよいか、分ったような気がしたのです。

   註 最近の建物には、写真映りのための「造形」、
      「造形のための造形」が多すぎると私は感じています。
      実際にその建物へ行くと、その「造形」が、「空間」にとっては
      無意味な場合がほとんどです。
     
フィンランド館は、ある意味では、きわめて設計が簡単な建物です。「展示するとは何か」について考えればよいからです。
しかし、他の設計でも、たとえば「住宅」を設計する場合でも、「原理」は同じだ、と私は考えています。

すでに、「建物の原型は住居」である、ということを書きました(下記)。

   「日本の建築技術の展開-1・・・・建物の原型は住居」

要は、「住まい」とは、私たちが日常を暮してゆくときの「拠点」であり、それが「拠点」であるためには、「そこ」で私たちが抱く「感懐」が、私たちにとって何の抵抗感のないものでなければならない、という単純な事実です。

そして、「住まい」以外の私たちにかかわる「建物」:「空間」は、その延長上になければならないはずです。
もしそうでなければ、そういう「建物」では、私たちは、「不安」に陥るだけなのです(そのことは、先の病院の事例で触れています)。

「建物の原型は住居」での説明を要約すると、
 ① 住まいの基本は、外界の中に安心していられる「空間」を確保すること。
 ② その「空間」の大きさ:面積は建設場所次第である。
 ③ その「空間」と「外界」は、主に、一つの「出入口」で通じる。
 ④ その「空間」の使い分けは、その「出入口」との位置関係で決まる。
    この位置関係の認識は、「そこ」で私たちが抱く「感懐」により、
    大きくA、B、C三つのゾーンに仕分けられる(前掲記事参照)。

   註 他人との接し方で三つのゾーンを示すと
      A:比較的親しい人の出入り可。
      B:親しい人の出入り可。
      C:家人以外の出入り不可。 

 ⑤ 「空間」の大きさによって、その「使い分け」の様態は異なる。
    大きい場合には、間仕切により仕切ることができるが、
    小さな場合に、間仕切を設けると動きがとれなくなる。

ある場所:建設場所=敷地に住まいをつくることを考えてみます。

建設場所=敷地へは、そこへ通じる道を歩いて至るわけですが、多くの場合、どの方角から近付くか、決まっています。それは、逆に言えば、「住まい」という拠点から外界へと至るときに必ず通る過程でもあります。

敷地に近付きます。
敷地が路地奥でないかぎり、敷地は、道に全面で接しています(たとえば、長方形の敷地であれば、長方形の一辺が道に接しています)。
道から敷地内に入るには、物理的には、どこからでも入れるはずです。
しかし、実際には、自然体で敷地に近付くとき、自然と足の赴く「地点」があります。
それは、そのとき敷地周辺に展開している「既存の空間」に私が「反応」した結果なのです。もちろん、道を歩んでいるときの、道を囲んでいる「もの」がつくりだしている「空間」も含まれます。言うなれば、一帯にある既存の「白い部分」への私の「反応」によるのです。

もしも「住まい」が道に接して建ち上がるのであれば、そこが建屋の「玄関」として最適の場所にほかなりません。
そして、敷地内に引いて建屋が建つのであれば、そこは「門」として最適の場所なのです(必ずし「門」という「もの」が建つわけではありません)。

その地点に立ち、敷地という区画内に広がっている「空間」を感じとります。
そして、敷地内に、どのような容量の「もの」をセットすることが可能か、考えます。それはすなわち、どのような容量の「もの」をどのように置けば、既存の状況:環境に適合するか、ということです。
すでにこのとき、建屋の「外形」のおおよその見当が付いているのです。
敷地外を含め、既存の状況が、いかに気に入らないものであっても、無視するわけにはゆきません。

   註 敷地外の状況をまったく無視するのが、言い換えれば、
      敷地内だけで考えるのが、最近の設計のほとんどです。
      それでいて、町並の景観との調和・・・などが叫ばれます。
      何をもって「調和」と言うのでしょうか?

その上で、先の三つのゾーンがどう展開するのが素直か、自然か、考えます。
これを考えるには、どこが、どのあたりがCゾーン:「最奥と感じられる場所」になるか、あるいは、どこに、どのあたりに「最奥と感じられる場所」をセットしたらよいか、考えるのが早道です。なぜなら、外界への出入口に立って考えているからです。
敷地の状況:既存の現況によって、直ちにゾーンの展開が見付かる場合もあれば、そうでない場合もあります。

そのあとは、想定した容量の「もの」が、どのように分節されるか、つまり、どのような部分に分かれるか、考えることになります。その分かれ方は、当然、「もの」の容量次第です。

このような考え方で作業を進めるかぎり、屋内だとか屋外だとか、あるいは「外構」だとか、を云々する必要はないのです。
なぜなら、敷地内のすべての「白い部分」を考えながら進めているからです。

各地に、見事な、そこを歩くだけで心和む町並が残っています。そういう町並は、一時にできあがったものではありません。また、一つの計画図があったわけでもありません。その町並を構成するそれぞれの建屋の主たちが、異なる時代に異なる人の手で建てた建屋の群、それが心和む町並をつくりだしているのです。
その理由は、各時代の人びとが、おそらく、新しく建物をつくるということは、既存の環境を改変すること、という意識を持ち続けていたからにほかなりません。
町並にかぎらず、個々の建物でも、「心和む」空間を生み出している事例は、多数現存しています。

上に記した「設計作業のすすめかた」は、こういう諸事例の生まれた「背後」を知ることから達した、「もの」の「形」ではなく、「白い部分」すなわち「空間」で考える方策にすぎません。

次回は、「諸事例」で、かつての人びとの「建物づくり」の考え方を具体的に見てみようと思います。そこでようやく「軒の出」の話にたどりつけるはずです。

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