読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

「考える」について考える

2008-07-05 10:38:09 | 読書

岩波新書「日本語練習帳」大野晋著から
「考える」の最も古い例を「日本書記」に見ると一つには「刑罰を決めること」が有った。この語のもとの形は「かむがへる」で「か」は事とか所を意味し「むがへる」は「むかへる」がもとの言い方で「向き合わせる」ことを言った。罪を犯した者の悪事が刑罪を定めたどの規則に当たるのか事実と規則を突き合わせる事が「かむがへる」だった。
「事柄を突き合わせて調べる事が「考える」の最も古い使い方であった。
戸籍の記載と実際の田畑の場所を突き合わせて調べることも「校(かむが)ふ」と言った。
そう言えば、出版界で使う「校正」という仕事も考えて正す事で、「学校」も考えて学ぶところと言う意味が元らしいと思った。

「思う」と「考える」

2008-07-04 11:18:11 | 読書

昔、大野晋氏の「日本語の年輪」と言う文庫本を読んだ事がある。新潮文庫だったと記憶している。それによれば言葉と言葉は網の目のような繋がりが有ると言う内容が書かれてあり、それが記憶に残っている。例えば「思う」と「考える」は似たような意味の言葉であり「~へ行こうと思う」と「~へ行こうと考えている」はどちらでも言える。しかし「今夜の献立を考える」とは言えるが「今夜の献立を思う」とは言えない。一つの言葉の意味内容の円ともう一つの似た言葉の意味内容の円は重なり合っていて、重なっている部分はその似た言葉のどちらでも使えるがその意味内容の重なっていない部分は使用する言葉はどちらかに限定される。その重なった部分が網の結び目なのである。同じ大野晋氏の「日本語練習帳」岩波新書を読んで言葉について同じ事を感じた。

我思う、ゆえに我有り

2008-07-03 14:09:18 | 読書
「コギト・エルゴ・スム」(cogito ergo sum)はデカルトの
有名なラテン語の言葉だ。「我思う、ゆえに我有り」と辞典に載せられている。cogitoのco-は「共に」の意味、cooperationのco-,やcoodinateのco-もそうだろう。日本語でも最近使われるコラボレーションなども。
cogitoのgitoはagitare「動かす」からの語からだそうだ。これも「アジ」をとばすと言うときのagitateから来ているようだ。cogitoは従って「頭の中で物事を一つにまとめる」意となる。
「思う」と「考える」の違いは「思う」は胸の中の一つの事を大事にすることで「考える」は「胸の中のいろいろな事を突き合わせて調べると言うのがもともとの意味であると大野普氏は言っている。とすると「コギト・エルゴ・スム」は「我思う」ではなく「我考える」の方が良いと言う事になるが・・・。

文と言う漢字

2008-07-02 09:03:54 | 漢字

白川静著 中公文庫「漢字百話」から
文と言う文字は文身と言う入れ墨を意味する文字である。人が生まれ、成人し、死ぬと言う夫々の段階で行われる儀礼を示している。従って文を含む漢字はその意味に注目し系列化出来る。つまり生まれたときは邪霊が憑かないように朱色で額に記号を描いた形が文で成人したときに行われた事をしめすのが彦で、死ぬときには胸部にまた聖化のためにそれが書かれた。産の立の部分は元は文で彦も顔の立の部分も元は文でそれぞれ一生の各段階を通過儀礼を表す文字である。厂の部分は額を彦意味し彡は文身を加えたものである。

定家様

2008-07-01 10:35:28 | 読書
俳句も短歌出来ず、本を読むだけなので「定家様」と言う書体が有る事などまるで知らなかった。「百枚の定家」と言う長編の小説を最近面白く読んでいるとその「定家様」と言う語が出て来る。定家は「源氏物語」など多くの古典を書写していて、それらが多く残され、その御蔭で現代人もそうした古典が読めると言う事のようだ。定家の年齢の推移に従い、少しづつ書体が変化して来るが百人一首を選び書いた頃の書体は独特で、その書体をも含めて多くの定家の後継の人達や茶の湯、連歌の分野の者が真似ている。小堀遠州などもその書体を良くし、定家を超え発展させたとも言われるが時代が下って江戸期の古文書の書体とも私には区別がつかないし読めもしない。