意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑨ “出会う(3)”

2018年11月13日 14時00分24秒 | 映画ブログ

出会う(3)

 

Osann :   「それで、イエスが送ると約束された御霊というのは、

     イエスに栄光を得させるであろうと記されているんだ

                    (ヨハネによる福音書16章15節を参照)。

        このイエスの栄光とは、まさに“天の父なる神が地上に

                     遣わされたイエスに使命として授けたわざ”をイエスが

     十字架で成し遂げたという功績を指しているんだ。

     

     つまり、最初に神に創造された人類であるアダムが

     神に対して罪を犯して以来、アダムにあって すべての

     人が生まれつき 神の本来の栄光見失い、もはやそ

                    栄光受けられなくなり、(ローマ人への手紙3章24節

                    を参照)、それゆえ もたらされていた深刻な現状を根本

                    から打開するために、イエスは 十字架上での死を

                    通して神の真実の栄光をあらわすことによって、

     人類が再び神からの栄光を受けられるようにしたと

     いうわけなんだ。


     もちろん、イエスが現したこの“神の栄光”というのは、

     肉眼では見えないものなので、信仰という心の目で

     見るんだ。

     だから、イエスは『信じる者は、神の栄光を見るで

     あろう』と語ったんだ。


     もう少し詳しく言うと、やみに輝いている神の栄光

     中で、人類に対して抱いている『神の真実の思い』を

     啓示したということなんだ。


     常識的に見れば、イエスが十字架上で あのような

     悲惨な死にかたをされたのであれば、イエスに

     託された神の救いのわざは失敗に終わり、サタンが

     勝利者となって、イエスが説いてきた真理が闇に

     葬られてしまったかのように思えてしまうよね。

     

     でもね、映画キミスイの中で、あの雨が降りしきる

     夜、“やみ”が桜良と春樹の二人の心を覆っていた

     中で、もはや二人の仲良しの関係も破綻して、

     これで終わるのかとさえ思われたよね


     でも、春樹は クラス委員長が言うと通りだと

     語った時に、桜良はそれを否定し、言ったんだ;


     『私たちはみんな自分で選んで ここに来たの。

      君と私が同じクラスだったのも、あの日病院に

      いたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。

      君がしてきた選択と私がしてきた選択が、

      私たちを会わせたの。私たちは、自分の意思で

      出会ったんだよ。』    


     桜良は、ここで“真実の出会い”というものが、

     どのようにしてもたらされるのかについての

     真理を語っていた······と私は思うんだ。

     

     イエスの十字架の受難というのも、一見すると、

     “やみ”が全地を覆い、またイエス自身の魂をも

     覆っていたかのように見えるけど····。


     でも、イエスが十字架にかけられて、神からも

     見捨てられたかのように思われるこの“やみ”の

     中に、罪を犯して神から離れ去っていった人類が

     もう一度 神に出会い、神との絆を結ぶことを

                    可能にするゲートが、実は、開かれたんだ。

     なぜなら、その“やみ”の中に、『神の真実の思い』が

     はっきりと示されたからなんだ。


     福音の本質というのは、どこにあると思う❔

 

     人は生まれつき神の前で罪人であり、罪の身代わり

     として十字架で死んで下さった神の御子イエスを

     個人的な救い主であるということ·····このことを納得

     して、“信じます”と信仰告白をして 受け入れる·····

     これで、罪をすべてゆるされて救われる。

     この世における人生が終わった後には、天国(神の国)

     にめでたく迎え入れられ、永遠の命も保証される。

                     これが、聖書が教えるところの福音、すなわち グット

     ニュースなんだろうか❔

 

     教義的にはそうかも知れないし、人のマインドでは

     確かに 納得したり、理解したりは しやすいとは思う

     んだけど······


     でも私にはそれだけでは、どうも腑に落ちない

     ところがあるんだ。しっくり こないんだよね。


     つまり、人が自分のマインドのレベルでイエスの

     とりなし、あがない、身代わりによる神の救いに

     関する教義を知って、納得し、同意して受け入れた

     としても、それで必ずしも 神を知ったことにも、

     神と出会ったことにも、神と絆を結んだことにも

     ならないと思うんだ。

    

     桜良が春樹に『私が君をどう思っていると思う❔』と

     聞いたよね。

     つまり、春樹が自分に対する桜良の“真実の思い”と

     いう肝心なこと(=隠れた宝)を知った時に初めて、

     二人の絆が結ばれたと言えると思うんだ。     


     神と人との絆が結ばれることにおいても、やはり同じ

     ことが言えると思う。

 

     だからこそ、イエスの十字架で示された『神の奥義

     を解明していく必要があると思うんだ。

     つまり、神の奥義が神の真実の思い”に関すること

     であるということを聖書から直接 紐解いていくことが

     重要となってくると思うんだ。


     で、今からイエスが十字架にかけられていた時に、

     昼の12時頃から3時にかけて全地を覆っていた

     “やみ”とは、一体、何だったのかについて、聖書

     から説明していきたいと思う。    


ハジメ: 「おっ、いよいよ 核心に近づいてきたみたいだね。

     そこが聞きたかったんだよね。


Osann : 「実は、その“やみ”の正体を解く鍵というのは、

     旧約聖書の詩篇の中にあるんだ。」


ハジメ: 「へ~。それって、詩篇のどこなの❔」


Osann : 「それはね、ダビデの歌である詩篇18だよ。

     私が説明する前に、まず 読んでみて。······

 

     この詩篇18篇は、イエスが人類の罪の身代わりと

     して十字架上で死なれた状況が、

      『死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、

       わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを

       囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいま

       した。』(4節~5節)

     というふうに預言されているんだ。

    

     そして、イエスは『わが神、わが神、どうして

     わたしをお見捨てになったのですか?』と大声で

     叫び、さらにもう一度大声で叫んでから、息を

     引き取られたんだけど、このことは詩篇18篇では、

      『わたしは悩みにうちに主に呼ばわり、

       わが神に叫び求めました。』(6節)

     と預言されているんだ。


     さらに、イエスが息を引き取られた直後に、

     地震があったことも記されているけど、これは

      『主はその宮からわたしの声を聞かれ、

       主にさけぶわたしの叫びがその耳に

       達しました。そのとき地は揺れ動き、

       山々の基は震い動きました。』(6節~7節)

     と、預言されているんだ。


     それから、イエスは死んで3日後によみがえった

     わけだけど、そのことは詩篇18篇では、

      『主は高い所からみ手を伸べて、わたしを

       捕らえ、大水からわたしを引きあげ····』(16節)

     と、預言されているんだ。


     そして、イエスが死からよみがえることができた

     根拠として、詩篇18篇には、

      『わたしを喜ばれるゆえに、わたしを助けられ

       ました。主はわたしの義にしたがってわたしに

       報い、わたしの手の清きにしたがって わたしに

       報いかえされました。わたしは主の道を守り、

       悪意をもって、わが神を離れたことがなかった

       のです。そのすべてのおきてはわたしの前に

       あって、わたしはその定めを捨てたことが

       なかったのです。わたしは主の前に欠けた

       ところがなく、自分を守って罪を犯しません

       でした。このゆえに主はわたしの義にしたがい、

       その目の前にわたしの手の清きにしたがって

       わたしに報いられました。·····』(19節~24節)

      と、預言されているんだ。つまり、イエスは受肉

      されて この地上を歩んでいた時に、神の前に

      おいて一点の罪も汚れもなかったことを神ご自身

      が認められたということの証明でもあったんだ。


      で、イエスが十字架にかかっていた時、昼の12時

      頃から3時頃にかけて全地を覆った“やみ”の正体に

      ついては、詩篇18篇では次のように預言されて

      るんだ。

       『主は天をたれて下られ、暗やみがその足の下に

        ありました。主はケルブに乗って飛び、

        風の翼をもってかけり、やみをおおいとして

        自分のまわりに置き、水を含んだ暗い濃き雲を

        その幕屋とされました


      つまり、イエスが十字架にかかっていた時に、

      3時間にも及んだあの“やみ”の正体は、神が

      天からたれて下られ、イエスのすぐそばに

      臨在されておられたということだったんだ。


      これって、ほんと驚きなんだ。ビックサプライズ

      と言えるんだ。


      なぜかって❔ それはね········神が人間の肉体を

      取られたイエス、しかも、罪人と一つになられた

      イエスを神がどう見ていられるか、どのように

      対応されるのか、どんな想いを実際に抱いて

      おられるかということが、とりもなおさず、

      それは人類一人一人に対して、神がどうなのか

      ということを、実は 如実に表しているからなんだ。

 

      そして、人類の身代わりとなって、罪人の代表者

      として さばきを余すところなく受けられていた

                        イエスが、

       『わが神、わが神、どうしてわたしを

        お見捨てになったのですか?

      と叫んでいた時、イエスの視界からは神が完全に

      消えてしまった時でさえ、実に、神はイエスを

      見捨てたり、遠くに立ち去ったりしていなかった

      ということなんだ。


      “やみ”をおおいとして、神はご自分の存在を消して

      イエスのすぐそばに、手を伸ばせば触れるくらいの

      近さにまで寄り添っておられたということなんだ。

      そう言えば、ハリーポッターの映画で、彼が体を

      透明にできるガウンを着て、自分の存在を消した

      シーンがあったよね。

      イエスが十字架にかけられていた時には、神は

      ご自身を透明化したのではなく、“やみ”を使って

      ご自身の存在を隠したということなんだ。


      神がお用いになられたこの“やみ”には、実に、

      “神の見えない思い”が隠れているというか、

      いや、逆に 人類一人一人に対して抱いていられる

      “神の心のうちに秘められた真実の思い”という

      ものが、もはや隠しきれずに外に溢れ出てきて

      いると言えるんだ。


      『エフライムよ、どうして、あなたを捨てることが

       できようか。

       イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことが

       できようか。

       どうしてあなたをアデマのようにすることが

       できようか。

       どうしてあなたをゼボイムのように扱うことが

       できようか。

       わたしの心は、わたしのうちに変り、

       わたしのあわれみは、ことごとくもえ起って

       いる。』

      と、ホセア書に記されているけど、“やみ”を

                         おおいとして イエスのそば近くまで寄り添って

      おられた神の心のうちは こんなだったんじゃ

      ないかって思うんだ。

 

      イエスが十字架上で、人類を救うための神のわざを

      成し遂げようとされていた時に、

      あの3時間にわたる“やみ”の中にも、実際には、

      神のみ名の栄光が輝いていたと言えるのであり、

      人類に対する“神の真実の思い”を垣間見ることが

      できるんだ。


      まさに、“やみの中に輝く光”と言えるんだ。


      映画キミスイでは、雨が降っている暗い夜に 桜良が

            やさしく微笑みかけながら 春樹に、

      『私たちは、······出会ったんだよ』と言ったように、

      イエスが十字架にかかっていた時に、

      全地をおおっていたやみ”(これが 神の臨在を隠して

                         いた)中に隠れている“神の真実の思い”に気づく

                         時に、人知を超えている神の愛の高さ、深さ、広さ、

      奥行きを知ることになり、その中で人はやさしく

      包み込まれるように、真実の神と出会うんだ。

      そして、そこで確かな絆を結ぶんだ。

 

*二人の興味深い会話は、出会う(4)へと続いていく(お楽しみに)***

 (2018年11月11日~13日)


    *        *       * 

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