意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

映画『君の膵臓をたべたい』の深読み ⑥ “生きる”

2018年11月02日 22時13分43秒 | 映画ブログ

生きる

 

ジメ:「春樹が最後の“真実か挑戦”ゲームで勝って、桜良に

   『君にとって、生きるって どういうこと?』と

    聞いたけど、この映画を通して“生きること”に

    ついてもいろいろと考えさせられたよね。」


Osann :   「確かに。

     死んだ後に天国に一緒に行くためにどんな準備が

     必要かということもテーマの1つだったと言える

     けど、それと同時に、人に与えられたこの世の

     人生を生きる”って どういうことなんだろう…

     と、マジメに考える機会も与えられたような気が

     するよね。

 

     ところで、桜良と春樹の二人が関わっていく中で、

     “生きる”というのはどういうことなのかを考える

     上で、とても興味深いシーンがあったんだけど‥…

     何だか覚えてる?」


ハジメ: 「えっ?、それって どのシーンのこと?」


Osann :   「博多のホテルを出た後、二人が歩きながら会話して

     いた内容も、もちろん、とても重要なんだけどね。

     その一連の会話が終わってからのシーンだよ。


     桜良が『また旅行しようよ。次は 夏かな。』

     春樹 『夏か、いいかも。』

     桜良 『あれ? やけに素直じゃん。·····さては、

         楽しかったな?』

     春樹 『うん、楽しかったよ。』

     その言葉を聞いた桜良は一瞬、真顔になって、

     その後、とても嬉しそうに笑って、春樹の脇腹を

     突っついたんだ。 

     すると、春樹は『僕の膵臓を奪おうとでも?』 

     それに対し、桜良は笑顔で

        『君が珍しく素直だから。····うん、私も

         楽しかったよ。お礼に、私が死んだら、

         私の膵臓ーー君が食べてもいいよ。』

        『人に食べてもらうとね、魂がその人の

         中で生き続けるんだって。』

     そう言ってから、桜良は川のほとりにたたずんで、

     言ったんだ。

        『私、生きたい。····大切な人たちの中で。』

     春樹は振り返り、手すりにもたれながら、桜良と

     一緒に川の方を眺めていた。

     その時、水面が柔らかな午後の陽射しを照り返す。

     きらめく光の中に立つ二人の後ろ姿‥…。

     実は、このシーンなんだ、私が注目しているのは。

     その時、水面に反射した太陽のまぶしい光が桜良と

     春樹の二人を包み込んで、二人の輪郭がぼやけて

     いくんだ。あたかも、二人が光の中で一つに溶け

     合っているかのように見えるんだ。

     これは、桜良と春樹 それぞれの内にある命の光を

     覆っていたヴェールが消え去った時に、

     その命の光が輝きを増していって、

     一つの光になっていくことを暗示しているように、

     私には思えるんだ


     二人が取り繕うことをせずに、素直に互いの真実を

     見つめていく、語っていく、認めていく、受け入れて

     いく時に、二人の“心”が通い合い、さらに互いの内に

     ある “命の光”が輝きを増して、拡大していって、

     その二つの光が通じ合い、溶け合って、やがて

     一つになっていく‥‥。


     そのような関係というのは、もはや、単なる友だち”

     とも言えず、親友とも、“彼氏や彼女”とも言えない

     んだ。

     また、“仲良し”とも呼べないような 特殊な関係なんだ。


     桜良と春樹は、ある意味、“真実”を追究していく中で、

     やがて、心を通わせることになり、相手の心の内の

     ずーっと奥にある目に見えない大切な宝”に気づき

     始めていったと思うんだ。  

     心と心の触れ合いから、さらに、命と命の触れ合いへ

     と移行していく‥…“命という光”が本来の明るさを

     取り戻して、キラキラと宝石のように輝いている状態


                     この目に見えない大切な宝”というのは、人が

     もともと内に秘めているものであるんだけれど、

     通常はヴェールに包まれているために隠れている

     ようにみえる。そして、人の内に隠れていている

     その宝は、『命の光から発せられている真実の

     思い』にも密接に関係している思うんだ


     これは、聖書的に言うと『アガペーと呼ばれる愛

     のことではないか·····と、私はみているんだ。

     人の内に実際に存在しているものの、普段は

     ヴェール包まれ、覆われいて、さらにまた 肉眼

     でも見ることができないため、これに気づくことは

     容易なことではないんだ。

     でも、絶対 不可能なことでもないんだ。


     これに気づくことが、まさに、“究極の宝探し”と

     言えるのかも知れないね。

     しかも、その究極の宝探し”というのは、いわば、 

     “究極の自分探しの旅”のようでもあり、同時に

     それは “究極の神を探す旅でもあると思うんだ。


      “真実の自分”、“自分のずーっと奥に隠れて存在して

     いて、しかも最も神聖な核心部分”(これをイエスは

     山上の説教の中であなたがたの内なる光』と

     呼んでいると思うんだ)に気づくと言うことは、

      “真実の神”に気づくということでもあるんだ。

      “真実の自分”を知らずして、真実の神”を知ることは

      できないんだ。

      逆に言えば、真実の神”を知った人というのは、

        “真実の自分”を知った人でもあるんだ。


     この世に生きている間に、このような“究極の宝探し

     をして、しかも、その“”を見つけることが出来た

     人は、とても、とても幸せなことだと思うよ。」


ハジメ:   「ところで、春樹は桜良とまだ心が通っていなかった

        頃に、『残り少ない命をこんなことに使っていいの❔』

     と春樹が、図書委員になった桜良に言ってたよね。」


Osann: 「そう。桜良に『じゃ、何に使うのよ』と聞かれた時に、

     春樹は、『あるじゃん。初恋の人に会いに行くとか、

     海外でヒッチハイクをして最後の場所を決めるとか。』·

     と答えたよね。

     でも、この春樹の答えは、ピントがだいぶズレてた

     ように思えるんだ


     つまり、春樹のその答えというのは、“過去”の淡い

     思い出の中や“外側”の世界に、『幸福の青い鳥(=)』を

     探し、見つけようとするような提案だったわけなんだ。


     でも、それは徒労に終わるというか、失敗に終わるん

     じゃないかって、私は思うんだ。


     “過去のこと”にしがみついたりしても、また、“外側の

     世界”をいくら探し回ってみたりしたところで、人は

     人生のすべてをかけてまでも探す価値のある真の宝”に

     出会うことはないのでは······。


     ところで、ジブリの『いつも何度でも』という映画の

     主題歌を知ってるよね。

     この主題歌の最終的な結論というのが、

         “海の彼方には もう探さない

           輝くものは いつもここに

           わたしのなかに 見つけられたから

     ということなんだ。


     ここに、“重要な真理”が語られていると、私は

     思っているんだ。

     つまり、人が探すべき宝(=大切だけれど、目に

     見えない、輝いている)というのは、どんな人の

     中にも埋もれて、隠れているということ。

     その宝物が厚いヴェールで覆われているため、

     ただ、それに気づけないままでいるだけ。


     イエスは言っているんだ、『天国(=神の国)は、

     畑に隠してある宝のようなものである』と。


     さらに、『神の国は、見られるかたちで来るもの

     ではない。また“見よ、ここにある”  “あそこにある”

     などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの

     ただ中にあるのだ』  (ルカによる福音書17章20節

     ~21節) とも。


     イエスはまた山上の説教の中で、地上にではなく、

     天に宝を蓄えなさいとも語っているんだ。

     なぜなら、あなたの宝のある所には、心もあるから

     だと。(マタイによる福音書6章19節~21節を参照)


                    これらイエスの言葉を考え合わせると、人の

     ただ中、つまり、心の奥の方に朽ちない宝が隠れて

     いるとするならば、そこに心の目を向け、見つめて

     いくことが重要になってくるんだけど·······。


     ところが、ここに1つ 解くべき課題があるんだ。

     それが何だか わかる?


ハジメ: 「隠れていて、しかも、それが目には見えないもの

     だから、どうやって見たらいいのかがわからない

     よね。」


Osann :   「確かにそうだよね。見ても見えず、聞いても

     聞こえず·····というふうに、イエスも言っている

     んだ。これは、自分の内にある目に見えない宝を

     探す場合も、また、神の奥義を知ることにおいても

     同じことが言えるんだ。」


ハジメ: 「それで、聖書には何かそのヒントは書いてあるの?」


Osann :  「もちろん、聖書の中にヒントは隠されている。

     たとえば、詩篇36篇7節~9節には、

    『神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことで

     しょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

     あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。

     あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。

     いのちの泉はあなたのもとにあり、

     われらはあなたの光によって光を見る。』

     と、書いてあるんだ。

     

     神は光でもあり、霊でもあると聖書に書かれている

     んだ。神に創造された人間は、神のかたちに造られた

     とも言われているけど、もちろん、見た目(外見)では

     ないんだ。

     人間という存在は、霊と心と体から成り立っている

     とも聖書の中で、使徒パウロは言っている。

     さらに、イエスは山上の説教の中で、『あなたがたの

     内なる光』が暗くならないようにしなさいと語って

     いるんだ。人の霊という部分に この『内なる光』が

     存在しているのではないか、さらに 内なる光』は

     神に起源を持つものであり、あるいは、常に神と直結

     しているものではないかと、私は考えているんだ。


     つまり、私が言いたいことは、私たちの内なる光

     を明るい状態を保っていれば、このによって、神と

     いう光を心の目で見ることが出来るのではないかと

     いうことなんだ。


     では、私たちの内なる光』を明るく保つには、

     どうしたらよいか❔ 

     このヒントも、実は、山上の説教の中で イエスは

                    述べているんだ。

   

     驚くかも知れないけど、実に、映画『君の膵臓を

     たべたい』の中にも、イエスが言っていることと

     似たようなヒントが隠されているんだよ。


     だから、聖書の教えとこのキミスイの映画を

     重ね合わせながら、探っていくと、もっと

     わかりやすいんじゃないかな。」


ハジメ:  「ふ~ん、そうなんだ。興味が尽きないね。」

          

▦▦▦ 二人の興味深い会話は、⑦“出会う”へと続いていく(お楽しみに)▦▦▦

 

   2018年10月28日~11月2日

 

    *        *       * 

 

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