8 コメント

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Unknown (どうきゅうせい)
2011-10-11 09:09:04
これは、素晴らしい、ありがとうございます、でも、この音楽(?)は、デジブックだからなのでしょうか、ちょっと合わない気がしますが。私は消して拝見しました。

それにしても御公演では、父と子(亡霊)が、まるで別人が演じていらっしゃるようで、感激でした。

これからも益々のご活躍を。
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お返事 (粟谷明生)
2011-10-11 10:05:26
コメント有難うございました。
どんな音楽がいいかな?

リクエストにお答え出来ますよ
但し、デジブックにある音楽

またはこれは!という音楽を送って下さい
もしかすると貼り付けることが出来るかも
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タイトル無しで失礼しました (どうきゅうせい)
2011-10-11 11:09:57
音楽については、また、今度、お目にかかった時に、リクエストさせてください。ま、無理だと思いますが。
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観能感想 (能愛好者)
2011-10-11 14:08:04
 遠路天鼓に逢いに行き、お土産に感動のお裾分けを頂いて帰りました。
色々な新しい試みを舞台でしっかり示され、能のリズム間の良さがそれを物語って居り、時代のニーズに合った総合芸術として、古典に命が蘇り、次世代に伝統芸能が伝わっていくと信じます。
粟谷様が大切にされて居られる謡、聞き応えありました。王伯の心情の低い響きから、天鼓になった心情を盤渉で伸びのある高い響きで謡われ、地謡も一糸乱れず一体となった響きが、大きなエネルギーとなり、観客を魅惑する演能でした。
粟谷様の心意気、ひしと伝わりました。

早速のデジブック、面と対話させて頂きます。
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お返事 (粟谷明生)
2011-10-11 17:46:50
能愛好者様
コメント有難うございました。

お褒め頂き恐縮です、また次回の『景清』に向けて稽古を積んで挑みます。
応援のほど、よろしくお願い申し上げます。
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感動 (みちのくの K)
2011-10-11 18:01:01
・演能前の金子あいさんのお話は、説明に優しさと艶があり、そし て、 分かり易く、とても良かったです。お話の最中から能にっ
 てしまいます。
・演出に対する新しい工夫、そして、演技に対する並々ならぬ思い
 入れが感じられ、見応えがありました。
・愛息を失った王伯の悲しみ、権力でもどうしようもない天鼓の『芸術』の崇高さ、貴重さを舞で表現するなどすっかり魅入られま した。
・デジブックの音楽、小生も似合わないように思います。
 笛や鼓の音などの方が良いのでは。
すみません、いろいろ『てんこ盛り』に思いつくまま書いてしまいました。本当にお疲れ様でした。
  
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お返事 (粟谷明生)
2011-10-12 06:33:49
皆様

デジブックの音楽と画面、不評でしたので
いつもの波模様で、音楽も替えました。

ご意見お待ちしております。
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演能レポートが出る前に (ノビル君)
2011-10-12 16:25:34
9日10日とお疲れ様でした!社中は言うに及ばず、大倉源次郎師も、殿田謙吉師も、京都行きでお疲れ様です。

明生師の演能レポートが出る前に、観能レポートの拙文の一部です。ご指導を下さい^^。


何度もご覧になっています人気曲ですが、新たな感動と劇性を演出するために、温故知新のエネルギーを導き、そして噴き出すには、流儀を越えてたゆまぬ原曲との葛藤が要求されます。勝つも負けるも、全力投球で納得しうる「一期一会」の舞台なのです。事前講義を受けた50名弱の人も見所にお出での筈ですが、如何様な答えを得たのでしょうか・・。いわゆる伝統芸能の中で現在に生きる大切なことは、単なる復習ではなく、どのように新たな曲作りに加わっているかの鬩ぎわでしょうか。 
今回の「天鼓」に関しましては、ブログを通じて多くの発信がありましたので、それなりの準備を致していた筈だと心得ました。
が、良い意味でアリャア^^!という場面がありましたので、お土産を戴いたようで嬉々と思ってしまいました^^。
私の解釈の間違い?かもしれませんが、見どころをメールでお伝えしておきました以上に、隠し玉を秘かに?準備されておりました!
それは、中入り前のシーンです。
喜多流謡本では、
地謡「老の歩も足弱く薄氷を踏む如くにて。心も危うき此の鼓。
(勅にて鳴ることのなかった鼓が、血のつながった父親と雖も、本当に鳴る のか?の疑心暗鬼の中での、儘よ!)  
打てば不思議や其の声の。心耳澄ます声づる。
(鼓の音と言うよりは、天鼓少年から父親への懐かしい挨拶の声『パーパ(爸爸)!』
 ・・・御涙を浮かべ給ふべきぞ有難き。」
ワキ「親子の證にて鼓の鳴る事。・・老人夫婦には数の宝を與えらるべきなり。まずまず私宅に帰り候へ。」
シテ「あら有難きやさらば罷り帰り候はん。」
ワキ「いかに誰かある。老人を私宅へ送り候へ。」
アイ「御前に候ふ」
となっていますが・・。多分この流れは不自然! 
ワキ「いかに誰かある。老人を私宅へ送り候へ」
アイ「御前に候ふ」
と本舞台にあがり、老人の後身を暖かく支え上げて立たせ、送り出す。
 シテは、「あら有難きやさらば罷り帰り候はん」と、重圧から解放された安堵と帝を見返した天鼓少年の本懐に嬉々として、老人にしては橋掛を駆るように幕入りする演出があったのです!
「天鼓」を初めてご覧になった方は、ごく当たり前に、何度かご覧の方は「謡本と違う?」との思いでしょうか!「して、やったり」の師の悪戯顔が浮かんできます^^。
 喜多流では、作り物の「鞨鼓」を目付柱辺り置き、加えて一畳台を脇正側に寄り置きます。他流からは、「いいなぁ^^」と羨ましがられるものの、本当は「楽」の舞には邪魔!だそうです。が、その邪魔物を使えこなしての物種なのです。漏水(呂水)に見たてて幕前までの橋掛を上手く使い、「楽」を盤渉式に乗せ、天鼓少年の喜びを高めました。
 終曲の地謡「五更の一点鐘もなり。鳥は八声の仄々と。・・又打寄りて現か夢か。又打寄りて現か夢幻とこそなれにけり」と謡われますが、シテは、一畳台に右足を乗せ、幕入り前に一廻りにして、終わりました。】
 
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