碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川企救男の欧米見聞記 (46)

2011年04月21日 13時35分33秒 | 碧川

   ebatopeko

 

     碧川企救男の欧米見聞記 (46)

     (子だくさんの話)

  (はじめに)

 鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
 
 中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。

 『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
 彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。

 ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。

 三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。

 横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。

 この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。


  碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断し、東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。

 

      (以下今回)

 前回の赤ん坊の話と関連する話である。
 外国では双生児や三つ子を生んでも余り恥辱としないことを報せたいとの碧川企救男の報告である。

 日本では当時(大正時代)、双子は「畜生腹」と言って、大分賤しめられてていた。そのため、悪くするとその一人を殺してまでも世間体をつくろうという有様であった。碧川企救男はまことに意味のないことであると嘆いた。

 最近(1919年)、英国の一新聞が懸賞で、十人以上の子どもの母親を募ったところ、応募者が3,300人余りあったという。

 碧川企救男の観察によると、仏蘭西人は子どものことを余り喜ばない。子どもを産むということは、直ちにその親を老いせしむる事である。

 現世の享楽主義なる仏蘭西婦人は、子どもを産んではお仕舞いである。このため彼らは子どもを産まないように手段を講じている。

 これが今回の戦争(引用者注:第一次世界大戦)において、仏蘭西人が奈翁(引用者注:ナポレオンのこと)当時の勇気を失っていて、ややもすれば独逸軍に対して遜色のあった理由である。

 巴里人に子供のないことは、子供を俥にのせて歩くものがあると、すぐ娘や女らがその子どもを囲んで、頬をつついたり手をさすったりして羨ましそうにしていることでも分かる。生産のない国は行き止まりである。

 碧川企救男は、あらためて産めよ殖えよ、地に充てよといった旧約聖書の神の言葉を真理と思ったのである。(引用者注:ちなみに、碧川企救男と妻かたとのあいだには一男四女の五人の子どもがいた。また妻かたには、先夫との間に三木露風ともう一人の男の子がいた)                                                

 そして外国の子持ちのレコードなるものが、この赤ん坊展覧会の際にある新聞に書いてあった。それによると、英国では倫敦のフォレゲート街にすんでいた家具商ミセス・メリー・ジョナスという女性が一番であった。彼女は33人の子持ちである。その内30人は双子で残りの3人のみが単独で生まれたという。

 ヨーロッパの記録では、あるフランス人の36人の子持ちが筆頭であった。その内訳は男が22人、女が14人ということである。

 英国ではさらに、ヨーク州のW・M・ボンネットという男が34人の父親であるというレコードがある。この男もっとも三人女房が代わっている。第一の結婚は1868年で、四人の子どもが生まれた。

 第二の妻とは1873年に結婚してこれは26人の子どもがあったが、もちろん三つ子、双子が多かった。この妻はさらに一年に五人の子どもを産んだことがある。すなわち三つ子が一度、双子が一度である。一年に一人の女性が五人も産んだということに対して、女王陛下からご褒美を頂戴したという。

 そして第三の妻は、1899年でこの妻との間にも四人の子どもがあった。つごう34人の父親であった。

 ニューヨーク・ヘラルドの報道によると、伊太利のネープルスに住んでいるスグノラ・マダレナ・ジャネテは、その結婚十九年間の間に59人の子どもをもうけている。これがため、伊太利亜の政府や民間から非常な賞賛を受けて、多額の金品を送られたという。

 要するに今回の大戦(第一次世界大戦)で、ヨーロッパではたくさんの人間を殺している。この死んだ人間の埋め合わせは、是非ともたくさんの子どもをもうけることによって恢復されねばならぬ。

 ところが一方には、産業主義が主張されて子どもを生んでは足手まといが出来て、人は苦痛を増すばかり、という議論もあるのだから、これは彼らといえども何とか考えねばなるまい。英国が死児が多いのに驚いて、にわかに死児防遏(あつ)会を開いて騒ぎ回るのも無理からぬ話である。

 子どものことでは、碧川企救男は面白いことが最近あった。先頃近所を散歩していると、女の子がたくさん寄ってきて、碧川企救男のことを「チャイニーズ」だという。彼は「イヤ俺はチャイニーズではない。ジャパニーズだ」と言って聞かせた。

 するとその中のお転婆の一人が、「あら!ジャパニーズだとよ」とぬかすではないか。しかし、他の子ども達は碧川企救男が「ジャパニーズ」と言ったので、改めて失礼しましたと、声を揃えてお詫びをした。

 小さい子どもの頭の中にも、日本はわが英国の同盟国で、尊敬親愛すべき人民であるぞよと、親や兄弟から言い聞かされているものとみえる。

(引用者注:当時日本とイギリスは、1902年に結ばれた日英同盟によって信頼関係にあり、それに基づいて日本は第一次世界大戦に参戦したのである。なお1923年にこの日英同盟は解消された) 



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